2008年07月04日

名付ける

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  おぼれゐる月光見に来つ海号(うみがう)とひそかに名づけゐる
  自転車に                 伊藤 一彦


 この歌に惹かれたのは、自分も小学生のころ自転車に「セドリック」と名付けていたからである。いま乗っている車にも名前を付けているが、子ども時代のことも含め、その話をエッセイ集『語りだすオブジェ』に収めるかどうか、だいぶ迷った。いったん書いたものの、あまりにも子どもっぽいと思ったのである。
 しかし、少年のような心が瑞々と詠われたこの歌を紹介するとき、やはり自分の気持ちも書いておきたいと考え、最終稿に残すことを決めた。そして、どうやらそれは正解だったようだ。というのも、本を読んだ感想をいろいろな方からいただいたのだが、「私も自分の身近なものに名前を付けています」という手紙が思いのほか多かったからだ。「愛車の名前は、スペインのフラメンコ学校で教わった、カッコいい男性の名前です!」「愛用のホウロウ鍋は、ルクレチアという名です」などなど……。
 「ふうん、同じような人って多いんだ」と面白く思っていたのだが、一枚の葉書にふと目が釘付けになった。私よりも少し年上のその女性は、「私も、ものに名前をつけるのが好きで(多分、『赤毛のアン』の影響)、自分の自転車や池などをお気に入りの名で呼んでいました」と書いてくださっていた。
 そうか! アンの影響だったのか。
 確かに彼女は、りんごの花咲く美しい並木道を「歓喜の白路」と呼び、村人たちが「バリーの池」と呼び習わしている池を「輝く湖水」と名付けるなど、自分だけの呼び名でもってさまざまなものを愛した。アンは私たちに、豊かな想像力はありふれた日常をこの上なく輝かせることを教えてくれたのだった。
 「歓喜の白路」「輝く湖水」はいずれも村岡花子の訳である。原文ではそれぞれ the White Way of Delight, the Lake of Shining Waters となっている。村岡訳は最も古く、それ以降いくつもの訳が出たが、特に「歓喜の白路」という明るく清澄な響きにかなう訳はないと思う。
 今年は『赤毛のアン』が刊行されてちょうど100年にあたる年である。村岡花子の生涯を孫娘、村岡恵理が追った『アンのゆりかご』(マガジンハウス)を読んでいるところだが、とても面白い。この歌の作者も、もしかすると少年時代に『赤毛のアン』を読んだことがあったのかしら、と思う。

  ☆伊藤一彦歌集『海号の歌』(雁書館、1995年)
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2008年06月30日

青磁社の週刊時評

★お知らせ
6月30日から青磁社ホームページ(http://www3.osk.3web.ne.jp/~seijisya/index.html
の週刊時評を担当します。
「塔」の川本千栄さん、「まひる野」の広坂早苗さんと3人で担当するので、3週に1度の登板となります。

川本さんは歌集『青い猫』(砂子屋書房)を2005年に出版しました。
私の好きな歌は−−

 死ぬシーン少しくどくて泣きかけた口元のまま頬杖をつく
 来ないでよ母さんだけが若くない お前に言われる日がきっと来る
 グレゴール・ザムザよ何も悲しむな私も醜い生き物だ今


自分を突き放して見る、知的でクールなまなざしが、とても切ないのです。

広坂さんは歌集『夏暁(なつあけ)』(砂子屋書房)を2002年に出版しています。
私の好きな歌は−−

 夏は不意の来客としてブラウスの仲の根雪を溶かしゆきたり
 初なりのりんごのあおき肌を噛むおさなき君が父となること
 子を打ちてこころ晴れゆく木下闇親があってもおまえは育て


豊かな抒情とシャープで骨太な詠みぶりが、ないまぜになった魅力があります。

このお二人と交代で書くのは、とてもわくわくすることです。
どうぞお楽しみに。
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2008年06月27日

怒り

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  怒りつつ夜の枇杷むけばうつとりと楕円型せり今日の怒りは
                   栗木 京子


 いただいた枇杷を食べながら、ふと「最近、怒らなくなったなあ」と思った。会社に勤めていた頃は、しょっちょう怒っていた。それも、辞める直前は他人に対する怒りばかりだった。「なんで、あの人はちゃんと締め切りを守らないの!」「なんで、こんなに電車が遅れてるわけ?!」。振り返ると恥ずかしさでいっぱいになってしまう。
 怒りにもいろいろある。「なんで!」という怒りは、単なる鬱憤でしかない。しかし、本当の怒りは、その事実を受け容れて何とかしようというエネルギーではないかな、と思う。
 『きもちのこえ』(毎日新聞社)の著者、大越桂さんは19歳の女性。819グラムの未熟児で生まれ、重度脳性まひ、未熟児網膜症による弱視、周期性嘔吐症などを抱えている。何度となく危険な状態に陥ったが、「体も心もぎりぎりのとき、最後の最後に自分を支えたのは怒りでした」と書いている。この文章を読んだとき、「怒り」という感情のパワーに驚いた。彼女は泣かなかった。「へとへとなのに、怒りを感じると気持ちが奮い立ちました。泣くひまがあったら歯をくいしばって怒っていました」
 桂さんの怒りは、恐らく自分への叱咤だったのだろう。怒りは、自分の誇りに関わる大切なものであり、人間に不可欠な感情なのだ。
 ずっと人とコミュニケーションがとれず、鋭敏な知性は苛立つことばかりだったのに、彼女は耐え続けた。ようやくある日、周囲の人に彼女が言葉を理解していることが周囲に伝わり、桂さんは今では詩や文章を書き、ブログ「積乱雲」(http://plaza.rakuten.co.jp/678901/)を開設するまでになった。24時間全介助で暮らしている彼女の明るさ、ユーモア精神の旺盛なことにはびっくりする。
 一方、この歌の「怒り」は、何となく夫に対する甘やかな怒りであるような感じがする。だから枇杷の実のような「楕円型」なのだろう。怒りと枇杷、という思いがけない組み合わせは魅力的だし、二人の関係性をよくする怒りであるなら悪くない。ほっかりとしたオレンジ色の怒りは、きっと相手に伝わるに違いない。
 私もきちんと怒りたいと思う。感情をぶつけるのではなく、状況を変えるために。「なんで!」と思うだけでは、自分も世界も変わらない。「これは間違っている」「こういうことはやめないと」――と粘り強く、ふつふつと怒りを維持したい。

 ☆栗木京子歌集『けむり水晶』(角川書店・2006年8月)
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2008年06月20日

ドビュッシー

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 煽られし楽譜を拾ふ時の間にドビュッシイもわれは逃がしてしまふ 
                   大西民子


 風にあおられて楽譜が散らばる。慌てて拾おうとかがみ込むが、気まぐれな風は大切な譜面をばらばらとあちこちに飛ばしてゆく――。
 戸外で譜面台を立て、何か楽器を練習している場面だろうか。私は高校時代、吹奏楽のクラブに所属し、放課後には譜面台と楽器を携えて校内のあちこちで練習した覚えがあるので、そんな場面を思い浮かべた。
 作者はドビュッシーの楽曲が好きだったのだろう。印象主義とも呼ばれるその作品は色彩感あふれるリズムと和音が美しく、水面に躍る陽光のきらめきを思わせる。作者がこの歌を作ったのは、「短かりし家妻の日々よみがへり菜漬けの石のぬめりを洗ふ」と離婚の痛みを徐々に薄れさせていたころである。「ドビュッシイも」と詠われているのは、「私の手からとり逃してしまったのは、結婚生活の幸せだけではない。大好きなドビュッシイさえも、なのだ」という、少し自嘲するような気持ちをこめたからだろう。時にふるえるように、あえかに響くドビュッシーの旋律は、作者の傷ついた心を折々に深く慰めたに違いない。
 具体的なシーンが詠われているが、本当のところ、これは心象風景ではないかと思う。とらえどころがなく、移ろうようなドビュッシー独特の音楽性は、楽譜というモノよりも「逃がしてしまふ」にぴったりするように感じるからだ。
 けれども、この歌を読むと、木々の緑や芝生の緑をバックに白い楽譜が何枚も舞うシーンが思い浮かぶ。作者はこうした美しいイメージでもって、自身を慰めたのではないかと思う。

☆大西民子歌集『無数の耳』(1966年)
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2008年06月13日

ピアニッシモ

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  鍵盤(キイ)の下にうすい氷が張つてゐてそれを割らないや
  うなタッチで          河野美砂子


 ピアニッシモはフォルテッシモより難しい。これは管楽器を吹く人にとっては、常に意識させられることである。高校時代、ブラスバンド部でフルートを吹いていたので、自分はもちろん他のパートの演奏を聞いてもそのことは実感できた。けれども、ピアノで本当に美しいピアニッシモを弾く難しさについては、あまり考えなかった。
 安川加壽子の評伝『翼のはえた指』(青柳いづみこ、白水社)を読み、洗練された演奏でフランス音楽の魅力を日本に伝えたピアニストの生涯に、改めて感じ入った。「安川加壽子」の名は私にとって、子ども時代に親しんだグリーンの表紙の「ピアノのテクニック」とローズピンクの「メトード・ローズ」、また白い表紙の美しい「ドビュッシーピアノ曲集」と切り離せない名前である。その安川の生涯を丹念に追った評伝は、戦後日本の音楽史としても楽しめるものだが、最後の「プロローグ」こそが、ピアニストであり、安川の弟子だった筆者が最も言いたかったところだと思う。
 ピアニッシモについて、安川自身の残した言葉がある。
 「きれいにすみ切った、しかもどんなに大きいホールででも聞える『ピアニッシモ』は一寸気をつけないと出来ない事かもしれません。(中略)『ピアニッシモ』を弾く時は鍵盤を弱くおさえるだけでなく、ゆっくり弾く時等は鍵盤をねる様にして、音の響きを一ツ一ツ送って行くつもりで、弾きっぱなしにしてしまわない様にすれば、音に深み、丸みが加わる」
 筆者はこの言葉を引用した後、「音をたてない抜き足さし足の方が音をたてる歩き方よりよほど筋肉の支えを必要とするように、重力の助けをかりられないピアニッシモの方がフォルテッシモより、(中略)はるかに強靭な指先や筋肉のコントロールを必要とするのである」と記す。そして、合理的な奏法による完全な脱力によって安川加壽子が音色、とくに弱音の魅力を引き出した素晴らしさ、しかしそれが高く評価されることなく若い世代の教育にも生かされなかったと分析するくだりには、熱がこもっていて引き込まれる。
 「プロローグ」を読んでいて思い出したのが、この歌である。ピアニストである河野美砂子には、魅力的なピアノの歌が多い。安川加壽子にこの歌を見せたかったなぁ、などと思う。

どこからが音であるのか一本の指のおもさが鍵盤(キイ)になるとき


 ☆河野美砂子『無言歌』(砂子屋書房・2004年8月)
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2008年06月06日

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  なだれつつたぎち泡だつ滝水の音さへあをき幻聴として
                   日高 堯子


 滝の豪快さ、清冽さというのは、独特のものである。実際に滝に打たれなくても、そのとどろくような音と水しぶきに、心が洗われるように感じる。
 しかし、この歌の作者が見ているのは現実の滝ではない。どうやら歌川広重の「名所江戸百景」の中の作品「王子滝の川」を見たときの感動を詠ったものらしい。

 広重の版画のなかを霊魂のぬけみちのやうな滝がまつさを
 広重はなにに渇きてこんなにも真青に透く滝を描きしや


 広重の用いた青は非常に鮮やかで、ヨーロッパの美術界にも影響を与えたといわれる。「あをき幻聴」で私たちは、作者が眼前の版画から流れ落ちる滝の音をリアルに聴いていることがわかる。その耳の豊かさが羨ましい。
 聴覚だけではない。描かれた滝に作者は「霊魂のぬけみち」というものを思う。広重の渇きをも思う。一枚の絵から、歌人は何と多くのものを読み取っていることだろう。優れた作品からインスピレーションを受けたということであるのはもちろんだが、常に魂のことを考えたり、自らの渇きを意識したりせずには出てこない発想ではないかと思わされる。
 この作者は、自然と交感するような不思議な感覚、おおどかな抒情が持ち味の歌人である。いま彼女は、滝というものと波長が合っているのかもしれない。歌集にはいくつかの滝の歌があり、どれにも強く惹かれた。

 天涯にしろき裸身を架ける滝あるとき遠きキリストのごと

 ☆日高堯子『睡蓮記』(短歌研究社・2008年5月)
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2008年05月30日

高村典子さんの歌集

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 ことばの本質について、深く考えさせる歌集である。脳と心、ことばと心という問題を思い、何度となく立ち止まるような気持ちで読み進んだ。

  「月」と言つてごらんと病窓に丸きもの母は教へる四十歳(しじふ)  のわれに
  失くしたる文語文法ふたたびを暗記してゆく夕べ かなかな


 作者は、40歳のときにクモ膜下出血で倒れ、言葉を失った。そのときは自分の名前も言えず、月や林檎といった日常の言葉も、ほとんど分からなくなったという。愛唱していた短歌も、自分の作った歌も忘れてしまった。
 一首目は、窓から見える月を指して、作者の母親が幼い子どもに言うように「あれは月よ。つき、って言ってごらん」とやさしく語りかけた場面である。立派な大人である自分がそんなことを言われている状況も悲しいが、母はそれ以上に切ないだろうと、この作者は胸がいっぱいになっているようだ。
 二首目は、忘れてしまった文語文法をまた学び直している夕方の、もの悲しい気分が詠われている。詠嘆を表す終助詞「かな」を重ねることで、「かな」の用法を覚えようと口ずさんでいるような、「カナカナ」という蜩のさみしそうな鳴き声のような不思議な感じが出ている。「失くした」ものは文語文法だけではなかったはずである。治療や闘病に費やした時間や、屈託なく過ごしていた頃の時間を思う作者の悲しみが、せつせつと伝わってくる。

 ことばよりこころがよかつた失くすなら束ねゐるクリップが言へぬ  真夜中
 たましひの頼りなきころ我が名さへ言へざりしこと忘れがたしも
 湿り気を持てる日本語「うちみづ」と言へばベランダに涼風生(あ)  れる


 私は失語症というものをよく知らなかった。外傷や脳血管障害によって言語能力が失われ、訓練次第である程度は回復するものだ、というくらいの理解しかしていなかった。その回復は、肢がマヒして歩けなくなった人が再び歩けるようになるようなものだろうと思っていた。しかし、神経内科医を取材して初めて、失語症がどんなに大変な病気であるか知ったのである。
 専門医によると、いったん失われた母語を獲得するのは、外国語を学ぶようなものだという。穏やかな面立ちの医師から「あなたが海外で英語のスピーチをすることを想像してごらんなさい。気持ちの細かいひだや心の奥底まで表現できず、もどかしくて苛立つでしょう? 失語症の人は、日々そうした苦しみを抱えているんです」と言われ、心底驚いた。
 何ということだろう。高村典子さんが短歌を作るのは、例えてみれば私が英語でソネットを作るような営みなのだ。彼女の生活は、これから先ずっと外国語を用いて暮らすような日々なのだ。倒れてから5年、彼女がどれほどつらいリハビリを重ねて歌をまた作り始めたのか、と思うと胸が痛む。
 「ことばよりこころがよかつた失くすなら」「たましひの頼りなきころ」の哀しみ、所在なさには、読む方も悲しくなってしまう。しかし三首目には、「うちみづ」という言葉に、初めて出合う喜びがあふれている。その響きに湿度やかすかな涼しさを感じる感性は、もともと作者に備わっていた優れた資質にほかならない。

幾千のこころとふもの詰めこみてポストの中は吹雪きてをらむ
モーツアルトはモーツアルトらしく弾くされど正攻法といふつまらなさ
私といふ本に目次はありません好きな所からお読みください


 この歌集は闘病記のようなものではない。作者は時にきっぱりとした顔を見せるかと思えば、おどけた顔も見せ、詠いぶりは自在である。思いがけない魅力的な喩や、口語と文語を使い分けた文体も見事であり、ことばという美しい贈りものを存分に楽しめる一冊となっている。

 ☆高村典子『わらふ樹』(角川書店・2008年5月)
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2008年05月26日

『語りだすオブジェ』

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 2冊目のエッセイ集が出版されました。
 前の本は「働く」「恋する」など10の動詞で人生を区切る趣向でしたが、今回は「スカート」「体温計」「はちみつ」「FAX」「剃刀」など身近なもの、45項目を詠った歌を紹介しています。それぞれの章を「恋するクローゼット」「もの思うキッチン」という具合に、場所で分けた構成になっています。章の扉ごとに写真を入れた、おしゃれな本に仕上がりました。
 2004年から2年にわたって、ウェブマガジン「風」に連載したものに、大幅加筆した内容です(半分以上が書き下ろし)。前著と同様、私の愛唱してきた歌ばかり取り上げています。短歌にあまりなじみのない方にも、これから短歌を始めたい方にも、お楽しみいただけるのではないかと思います。
 今度の本は、あまり書店に並ばないと思います。もし内容を確認なさりたい方は、ウェブマガジン「風」(http://kaze.shinshomap.info/series/tanka/01.html)をご覧いただければ幸いです。

 ☆『語りだすオブジェ  いつも、そこに短歌』(本体1700円)
     本阿弥書店 .03−3294−7068


  *amazonなどでもご注文いただけます!
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2008年05月22日

化石チョコレート

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  葉が石に足跡が石になるときの泥がそのまま泥であること
                   紺野 万里


 化石というものは、子どもも大人もわくわくさせる。それ自体の形状も素晴らしいが、気が遠くなりそうなほど長い年月かけて作られたことに魅力があるからだろう。
 化石になるまでには、さまざまな条件が満たされなければならない。この歌は、木の葉や地面の上に残った恐竜の足跡が、たくさんの偶然の重なりによって化石になった不思議さ、そして、化石をつくった泥自体は泥のままであることの不思議さを詠っている。
 私は科学部の記者になるまで、足跡の化石があるなんて知らなかった。歩幅や体重のかかり具合から恐竜の体の構造が推測できるだけでなく、歩くスピードや姿勢などもわかるのだから面白い。また、骨格化石と違って恐竜の生活も推測することができる。例えば、集団で生活していたのか単独で生活していたのか、また湿地や乾いた砂地など棲息していた場所の特徴もわかるのだ。
 写真は、化石そっくりに作られたチョコレートである。チョコレート製のレプリカ、と言った方がよいかもしれない。つくばにある産業技術総合研究所の、地質調査総合センターが所蔵する化石標本などに基づいて作られたもので、アンモナイト、巻き貝、三葉虫、古生代のシダ状の葉をもつ植物、肉食恐竜スピノサウルスの歯の5種ある。5月初めから国立科学博物館などで販売されている(http://www.geobox.jp/shop.html)。
 研究所に勤める知人から、このチョコレートのことを聞いて買ったのだが、本当に精巧な出来栄えだ。本物の化石をもとに作られているので、シダの葉脈やアンモナイトの殻の巻き方まで、実に素晴らしい。5種類のチョコレートが1個ずつ入ったセットには、地質調査総合センターが監修した小さな解説書が収められており、それぞれの型をとった化石の産地、標本番号まで記されている。
 懇切丁寧に「観察のポイント」も書いてあるのが嬉しい。実は、食べてしまってから「ああっ、巻き貝のトゲの並び具合なんて見てなかった!!」と後悔した……。箱は食べてしまったらペンケースにもなるという、すぐれものである。そして、何よりも、ちょっぴりビターなチョコレートの味がいい。明治製菓監修のチョコレートを使っているだけあって、チョコ好きの人も十分満足させる味だと思う。

 ☆紺野万里『過飽和・あを』(短歌研究社・2002年8月)

 ☆お知らせ
 「短歌研究」6月号に「遠き鯨影」30首が掲載されています。
posted by まつむらゆりこ at 08:14| Comment(14) | TrackBack(2) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月16日

加藤治郎さんの歌集

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『雨の日の回顧展』

 日常の風景が不意に歪み、何かがどろりと流れ出しそうな、そんな奇妙な感覚を味わう歌集。加藤さんの歌を読むと、いつも不思議な空間へ連れてゆかれるようで、ちょっぴり怖い。

 ふれたなら幼い耳であるようにとれそうなノブ、ふれたのだろう
 ひるすぎのひとりの部屋にテーブルの水面をめくるかなしみながら
 器から器に移す卵黄のたわむたまゆらふかくたのしむ


 ドアノブの変哲のない形と子どもの耳を重ねた一首目は、金属の冷たさと耳のやわらかさが奇妙に交じり合う感覚にぞっとする。二首目は、平らなテーブルの表面を水面に見たて、あろうことか本当にめくってしまう作者の魔術師めいた手つきに魅了される。三首目は、つやつやとした卵黄がその弾力を誇るかのようにたわむ瞬間を、高速度カメラでとらえたような作品である。下の句のやわらかく、なめらかな韻律にうっとりさせられる。
 この歌集では、ロダンやカミーユ・クローデルなど芸術作品をモチーフにした歌が多く、これまでにない世界の広がりを感じた。
 私が特に好きなのは、ゴッホを取り上げた歌が中心となる「黄色い家」という一連である。

  農婦はも胎児のごときパン生地を竈の中に差し入れにけり
  葡萄パン百の眼窩のくらぐらと療養院のゴッホの書簡


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 一首目には、冒頭のドアノブの歌に似た怖さがある。やわやわとしたパン生地は、パン生地のように見えるけれど本当にそうなのだろうか? かまどの中で焼いてしまっていいのだろうか……グリム童話の原型を思わせるような暗さが湛えられている。
 二首目は、「おお、ここにも葡萄パンの名歌が!」とわくわくしてしまった。干し葡萄の黒さに眼窩を思い、さらに、晩年のゴッホが療養院から弟テオに宛てて送った書簡の、ちまちまとした筆跡を連想した作品、と読んだ。この重層的なイメージは全く素晴らしい。精神を病みながら最後まで絵を描くことをやめなかったゴッホ、何もかも見逃すまいと見つめ続けたその目、眼窩が思われ、悲しみが迫ってくる。

  泣き叫ぶ線を見て居り糸杉のようにあなたは顔を歪めて
  向日葵が裸のままで逃げてゆくナパーム弾の炎のなかを
  

 「糸杉」の一首目は、めらめらと描かれた糸杉に画家の苦悩を見る作者の感覚が詠われている。「あなた」は、ゴッホその人ととってもよいし、作者と一緒にゴッホの絵を見ている恋人という解釈も成り立つと思う。描かれた作品に気持ちを同調させ、思わず美しい顔を歪める繊細な恋人、という設定は味わい深いのではないか。
 「向日葵」の歌も、非常に優れた作品である。この歌を読んだ人はきっと、ベトナム戦争中、ナパーム弾で衣服を焼かれ、裸のまま空爆から逃げている少女の写真を思い出すに違いない。AP通信のカメラマンによって撮影された少女は、皮膚移植手術を受けた後、数奇な運命をたどるが、彼女のその後についてはデニス・チョン『ベトナムの少女』(文春文庫)に詳しい。
 あの有名な写真の少女を「向日葵」と重ねたところが、秀逸としか言いようがない。苦しみつつ力強い筆づかいによって向日葵を描いたゴッホと、悲惨な目に遭いながらも生き延びた少女の生命力。少女の姿は、何度となく侵攻されたベトナムという国そのものの勁さをも思わせる。私たちの心を強く揺さぶる二つの事柄が、時空を超え、たった三十一文字に表現されているのは、本当に見事である。

☆加藤治郎歌集『雨の日の回顧展』(短歌研究社・2008年5月出版・3150円)
posted by まつむらゆりこ at 00:17| Comment(7) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする