2015年01月05日

2015年♪

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 新しい年を迎えると、清々しい思いに満たされる。そして、仕事への新たな意欲も湧いてくる。並行して進めている仕事の中には、年内に形になるものがいくつかあり、自分でも楽しみでならない。誠実に書いてゆこうと思う。
 細々と続けてきたこのブログについては、今年はほとんど更新できない見込みである。というのも、砂子屋書房のサイトで「一首鑑賞*日々のクオリア」という連載を担当することになったからだ。さいかち真さんと組んで、交互に書いてゆく。私は月・水・金を担当することになった。
  http://www.sunagoya.com/tanka/

 これまでの執筆者のなかには、「一首鑑賞」というよりは読み応えのある歌集評、という感じで、毎回とても力のこもった長文をしたためた方も多いが、私は「一首鑑賞」の形を大事にしたい。読んだ方に「今日、この一首に出合えてよかったな!」と思っていただけるような、そんな「日々のクオリア」を目指したい。

 
 商人(あきんど)のような声出し携帯の向こうの部下に夫は指示する
                                  前田康子

 初回の1月5日には、昨年「日々のクオリア」を執筆した前田康子さんの歌を紹介した。「ああ、『塔』の人らしい、いい歌だな。自分にはこういう詠い方はできないなぁ」と思う一首である。


 *前田康子歌集『黄あやめの頃』(2011年、砂子屋書房)

  
 
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2014年11月25日

普天間・辺野古

 先週、沖縄本島へ行く用事があり、帰りに普天間基地と辺野古の海を見てきた。
 ずっとニュースを読んできて、おおよそのことは理解しているつもりだったが、実際に見るとやはり大きな衝撃を受けた。
 宜野湾市の高台から市内を見渡すと、市の真ん中に基地が居すわっていることが実によくわかる。基地は市の4分の1もの面積を占めているのだ。オスプレイがたくさん並んでいるのも見える。

普天間小.jpg

 
 今月届いたばかりの、小高賢さんの遺歌集『秋の茱萸坂』に収められている歌を思い出した。

  冬の牡蠣にケチャップを振るアメリカの手の上にいる普天間・
 辺野古                            小高 賢
                           

 「茱萸坂」は国会議事堂の南側を下る坂である。官邸前の反原発デモの際に通ることの多い道だ。最後の歌集となった一冊をまとめたのは夫人の鷲尾三枝子さんだが、小高さんのパソコンには既に歌集の草稿とタイトルが入っていたのだという。「あとがき」さえ書けば、もう完全稿だったその原稿が最後に手を入れられたのは、亡くなる三日前だった。
 三枝子さんの「あとがきに代えて」によると、小高さんは毎週金曜日、ほとんど欠かさず官邸前のデモに参加していた。言葉の力を誰よりも信じていた彼が、行動することの大切さを自ら示していたのだと思うと胸が詰まる。
 歴史の痛みをよく知る小高さんは、ついに沖縄の地を踏むことがなかった。戦後日本の豊かさを享受した世代として、「責任」や「後ろめたさ」をひしひしと感じていたからではないだろうか。それが反原発デモへの参加であり、沖縄への思いの深さだったのだと思う。

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 辺野古の海は、生物多様性が高く、さまざまなサンゴ、ジュゴンやウミガメなどが棲息している。なぜ辺野古なのか、という思いもあるが、そもそもなぜ「移設ありき」なのか。
 小高さん、普天間と辺野古を見てきましたよ、と報告したら、「で、君はどうするの。何も行動しないの?」と言われてしまうだろう。できることは小さくても、何か行動しなければ、と思う。

   *小高賢遺歌集『秋の茱萸坂』(2014年11月、砂子屋書房刊)
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2014年10月30日

フリスク1粒の思い

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 ミント風味の清涼菓子「フリスク」のテレビCMは、いろいろなバージョンがあって、どれにも妙なおかしさが漂う。ちょっとアブナイ感じのものもあるのだが、それだけ売れているのだろうな、と思う。
 だからだろう、若者の歌にも多く登場する。

  福島の雪ではないがFRISKをがりがり嚙んで初校をめくる
                                齋藤 芳生
  プラシーボ効果を狙い「ぱきしる」とつぶやきながら食べるフリスク
                                月原 真幸

 1首目の作者は福島出身の人。この歌は、東京で編集の仕事をしながら、ふるさとの雪を思った場面だ。しんみり懐かしみたいところだろうが、職場は多忙を極め「がりがり」とミント菓子を噛み砕くようなストレスの中で思い返している。
 子どものころ雪のかたまりを口に含んだ記憶がよみがえったのだろうか。心情的には結構つらい感じだが、白い「雪」と「FRISK」の重なり具合が美しい。
 2首目の「ぱきしる」は、うつや強迫性障害などの患者に処方されるパキシルのことだろう。この作者はかつてパキシルを服用していたことがあり、今は薬を飲まなくてもよい状態にまで回復した――と解釈した。けれども、思わぬときに不安やうつ状態に襲われ、「これはパキシル。パキシルなんだから、飲めば落ち着くはず!」と自分に言い聞かせつつ、フリスクを口に含むという場面である。
 プラシーボ効果は偽薬効果とも呼ばれる。人間は不思議なもので、「これは実によく効く薬ですよ」などと言われて服用すると、効能のないものでも痛みや不眠が改善する場合があるのだ。しかし、それはあくまでも他者に渡されて信じた場合であって、自ら「プラシーボ効果を狙い」なんて言うところに、この歌の可笑しさと切なさがある。

  ★齋藤芳生『湖水の南』(本阿弥書店、2014年9月)
  ★月原真幸「短歌研究」2014年9月号、短歌研究新人賞最終選考
   通過作「これはバグではなく仕様です」より
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2014年10月23日

赤ちゃん

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 先日読んだ『AIDで生まれるということ−−精子提供で生まれた子どもたちの声』(萬書房)は衝撃的だった。
 AIDは、配偶者以外の提供精子による人工授精のことである。不妊治療としては最も古いものの一つで、技術的な難しさがないため、ある時期まで問題にされてこなかった。卵子の提供や代理母出産に比べれば、倫理的にそれほど問題がないと思われていたのだ。しかし、近年、自分のルーツを知りたいと願う子どもたちの声が少しずつ高まり、生まれてきた子が自分の出自を知る権利について論議されるようになった。
 この本には、当事者である6人の手記が収められている。AIDで生まれた事実をどのように知ったかという経緯や家庭環境は異なるが、ごく普通に両親からかわいがられて育った人たちだ。しかし、AIDについて知ったときは誰もが大きなショックを受け、それまでの人生が瓦解したような気持ちを味わったことが分かる。そのときの驚愕、絶望感は、産婦人科医や倫理学者といった"識者"の推測をはるかに上回るものだった。
 6人の当事者の中には「子どもは親のペットではありません」「私は自分を、人と提供されたモノから造られた人造物のように感じています」という人もいた。自分の始まりに、男女の情の通いあいがなかったことをとても悲しく思ったという声も記されている。「親にずっと嘘をつかれていた」と感じたり、誕生日が来るのが嫌でたまらなくなったりしたケースもある。
 もちろん、誰もがそうではないだろう。親から「どうしても、あなたという存在が欲しかった。そしてあなたを愛してきた」と説明されて、納得できる人もいるかもしれない。けれども、そうでない人もいる。生まれてくる子が、どんな性格で、どんな価値観を築いてゆくか、親は決して予測することができないのだ。「こういうふうに説明したら、きっと分かってくれるはず」というのは、楽観的に過ぎるのではないか。不妊治療を考えるとき最も大事にすべき痛切な声が、この本にはあふれている。

    玉のようなあかちゃんを我は未だ産まず
           桃缶のぬるきシロップをのむ      齋藤 芳生


 三十代の作者はシングルである。「玉のような」という慣用句が、なぜか無惨なものとして響く。産む性として自己を認識しつつ、社会的に「未だ産まず」と見られることのプレッシャー、生きにくさが、どことなく感じられるからだろう。「ぬるき」が効いている。
 こうしたプレッシャーや生きにくさが取り除かれないまま、不妊治療の技術ばかりが進んできたことを思う。医学研究は大切だが、臨床応用については慎重過ぎるということはないはずだ。

  ☆齋藤芳生歌集『湖水の南』(本阿弥書店、2014年9月)
  ☆写真の絵は、林明子『こんとあき』(福音館書店)より
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2014年10月12日

猫とわたし

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 わが家に、ものすごく猫にやさしい人がいて、時々「あー、猫に対するくらい私にもやさしくしてほしいのにねぇ」と思ってしまう。落ち込んでいるとき、何だか機嫌が悪いときは、「なんで猫にだけ、そんなやさしーんだよっっ!!」と、猫に対してまで怒りが向く。

  こんなにも猫にはいつもやさしくて母にはたまにつめたいわたし
                        小島ゆかり


 なので、この歌を読んだときには、いつも穏やかな笑顔がチャーミングな小島ゆかりさんでさえ、そうなのか−−と、人間の不思議な心理を少し理解できたように思った。猫は、反論しない、うるさいことを言わない、嘘をつかない。人間を相手にするよりも、心がほっとする存在なのだろう(推定)。何を考えているのか分からないのが少々不気味なような気もするが、何を考えているのか分からないのは身近な人間であっても変わらない。だから、猫の方が安心できる、という心情もあるのだろう(推定)。
 人間というのは、ややこしい生きものであり、近くの人より遠くの人に対する方がやさしくなれたりする。電車の中で会った見知らぬ人に、にっこり席を譲ったその日に、家人にはぶりぶり当たり散らしたり……という妙な行動がそれだ。
 この歌には、「母」へのすまない気持ちが滲んでいる。気持ちのありようは、本人にもどうしようもない部分がある。本当はそこを見たくないのが人情だが、この作者は自分のイヤな面をきちんと見ようとする知性をもっている。そして、「母」の悲しい気持ちを思いやり、自分もまた悲しい気持ちになっているところに、読む者はじーんとしてしまうのだ。

   ☆小島ゆかり歌集『泥と青葉』(青磁社、2014年3月刊行)
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2014年10月09日

お知らせあれこれ

またまた、更新が滞ってしまいました。
言いわけはいろいろあるけれど、まあ、こまごまとした仕事が多く、いつも締め切りに追われているからでしょう。
まずは、近況報告から……。

新しいエッセイ集が出ました。
子育てをテーマにした歌ばかり集めた、とても愛着のあるものです。

子育てをうたう.png

福音館書店の「こどものとも 年少版」の折り込み冊子に3年間連載していたものに、加筆修正しました。
当初は『お嬢さん、空を飛ぶ』を出して疲弊しきっていたこともあって、「できるだけ省力を図りたい!」「あまり加筆とかしたくない!」という、まことに情けない考えでした。
しかし、たいへんに優秀かつ誠実な編集者から、「ん〜、単行本にするときは、連載時の敬体でなくって、常体できびきびと書いていただいた方がよいのでは」と言われ、心を改めてほとんど一から書き直したのでありました。

私にとって、本と子どもに関係する仕事ができることは最大の喜びです。その意味で、今度のエッセイ集はとても満足感のあるものになりました。
また、別のウェブサイトで、「子ども部屋の本棚」と題する連載もスタートしました。
http://jiyugaoka-clweb.com/
短歌とは関係のない児童文学についてのあれこれを書いてゆく予定です。
ご興味のある方はどうぞご覧くださいね。
感想を聞かせていただければ幸いです。

☆『子育てをうたう』(福音館書店、2014年9月刊行)

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2014年08月17日

それは夏

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  もういちど逢うなら空をつきぬける鳥同士でねそしてそれは夏
                         江戸 雪


 夏のエネルギーは確かに、心身に作用する。恋の始まりが夏に多かったのは、そのせいだったのだろうか。
 この歌は、過ぎ去った恋をなつかしんでいるのだが、単なる回想ではなく、「もういちど逢う」ことにかなり思いが傾けられているようだ。
「切なくもあの恋は終わってしまったけれど、今度逢うときはお互い鳥になって逢いましょうね。何にも束縛されず、自由に翼をはばたかせて、どこまでも高く二人、飛んでゆきましょう」
 けっこう危険なのだ、この歌は。
 「そしてそれは夏」と、季節を限定しているところに、ぞくぞくさせられる。作者と、恋の相手にしかわからない「あの夏」を指しているから。
 一首だけで、いろいろな空想(妄想?)を楽しむことができるのが、短歌のよいところ。この作者は、こういう美しい飛躍を見せてくれるのが実に巧い歌人である。

  ☆江戸雪歌集『声を聞きたい』(七月堂、2014年7月刊行)
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2014年08月15日

虹を見つける

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 「ワジワジする」というのは、沖縄の言葉で「いらいらする、腹が立つ」といった意味である。「にぃにぃ(お兄さん)」「ねぇねぇ(お姉さん)」などの言葉は、子どもたちもよく使う。
 こんな畳語は、ハワイにも多いようだ。「ウリウリ=濃い青、ひょうたんの楽器」「オラオラ=長寿」「ホイホイ=楽しい」など。大型で釣り人に人気のある魚、シイラは、ハワイでは「マヒマヒ」と呼ばれる。

  マヒマヒという魚の棲む魚 南では名づけることが虹を生むのだ
                        井辻 朱美


 聞きなれない言葉の響きは、私たちを日常から離れた世界へ連れていってくれる。この作者は「マヒマヒ」に、南島の「虹」を感じた。魚を見つけた人たちの気持ちがはずむ感じが、言葉に込められているからだろうか。結句のきっぱりとした断定が心地よい。
 ハワイ語の虹は「アーヌエヌエ」。日々の小さな出来事に「虹」を見つける心を大切にしたい。

  ☆井辻朱美歌集『クラウド』(北冬舎、2014年7月刊行)
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2014年08月09日

小さな喜び


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 あってもなくても日々は過ぎてゆくけれど、あると心が豊かに満たされ、しあわせな気持ちになる−−詩歌や音楽は、そんなものだと思う。

  ヒーローはみんなを助ける人なりと京王線にをさなご元気
                       今野 寿美


 最近届いた歌集を読んでいて、ほっこりと嬉しくなった。
 「ヒーローってね、みんなを助ける人なんだよ!」
 車両中に響き渡るような明るい大声は、3歳か4歳くらいの男の子のものだろうか。これくらいの「をさなご」の一所懸命なかわいさといったらない。その名セリフに続けて、何かの主題歌でも歌い出したのかもしれない。「をさなご元気」という結句が、たまらなくよい。
 作者は、古典の素養が深く、韻律の美しい優雅な詠みぶりで知られるが、この一首では「みんな」「京王線」「元気」という撥音を連ね、弾むようなリズムで一首を作っている。「ヒーロー」とか「みんなを助ける」なんていう、ごくふつうの言葉が輝いているのも見事だ。
 小さな子が「元気」でいることが、おとなにとっては一番のしあわせだ。それは、その子の親だけではない。「社会」なんて大きく構えてしまうのも何だけれど、見知らぬ子どもを眺めていても、私は充分に満たされ、この世界が少しはよい方向へ向かうことを祈ってしまう。たぶん作者にとっても、この「をさなご」は京王線の車両(ホームかな?)でたまたま遭遇した子で、だからこその幸福感が一首に満ちているのではないかと思うのだ。
 歌集を読む喜びは、こんな一首に出会うことにある。胸の深いところを揺さぶる歌もいい。涙を誘われる感動的な歌もいい。けれど、くすりと笑ってしまう歌、誰かに教えたくなるあったかい歌のよさも忘れてはならない。

 ☆今野寿美歌集『さくらのゆゑ』(砂子屋書房、2014年7月刊行)
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2014年03月11日

東日本大震災から3年

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 震災後、夥しい数の短歌が詠まれてきた。実際に被災した方の迫力ある作品に涙を誘われることがある一方で、「うーん、そうなのか?……」と居心地の悪さを感じることもある。それは往々にして、直接体験していない人が震災について詠ったものだ。
 体験していないから詠ってはいけないというのではない。ニュース画面を見て、新聞を読んで、歌を作るのは悪いことではない。問題は詠い方だ。
 下手では話にならない。当たり前だ。しかし、巧ければよいのかと言えば、そうではないところが歌の不思議である。あまりに巧いと、ほんの一瞬だが作者の得意顔が見えてしまって鼻白む。技巧と思いのバランスなのだろうか。当事者が詠む場合、技術は二の次なのだが。
 また、わけ知り顔に震災を詠うことへの躊躇や抵抗感もある。大切な人も家も失った人の思いに自分はどこまで近づけるのか。その深い悲しみや苦悩を推し量ることができると思う不遜こそ、最も忌避したいものだ。
 そんな葛藤の中、震災後の自分の思いに最も近いと感じられる一首に巡り合えた。

  丸まったままに乾いたハンカチのごときこころよあの弥生から
                                  富田 睦子


 泥水や涙を吸ってくしゃくしゃになったハンカチが、乾いてかちかちに丸まっている――この歌を読んだ瞬間、胸が締めつけられるようだった。「そう! まさにそうなの」と作者に抱きつきたくなった。
 「あの弥生」以前には戻れない、という思いが誰にでもあると思う。あんなにもたくさんの人が亡くなり、原子力発電所の事故が起き、胸に鉛を詰められたようだった。震災の後、自分がずっと抱いてきた悲しみと、何かが決定的に変わってしまったという絶望感、うまく説明できない後ろめたさ……そうしたものがないまぜになった複雑な気持ちが、この一首に表現されている。
 私たちの悲しみに三十一文字という形が与えられたことを深く感謝したい。そして、この「ハンカチのごときこころ」を共有しつつ、自分のできる支援をしなければ、と思う。

  ☆富田睦子『さやの響き』(本阿弥書店・2013年12月刊)
posted by まつむらゆりこ at 16:30| Comment(10) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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