2011年03月25日

大震災

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 災害を遠くいためばその余震しばしば届きわが家揺るる
                   秋葉 四郎


 東日本大震災のあと、しばらく仕事が手につかなかった。テレビのニュース画面を見ていると、胸が詰まるように苦しかった。自分の言葉がとても無力に思え、文章も短歌も書けなくなった。何だかもうブログもやめてしまおうか、なんていう気持ちにさえなった。
 けれども、被災した人たちのことをただ思うだけでは何も変わらない。先週、地元のお母さんたちが被災地に送る子ども用の衣料品と絵本を集める活動を手伝って、少しだけ心が軽くなった。たった2日間だけのボランティアだったけれど、自分はこういうことがしたくて会社を辞めたんだっけ、新聞記者の仕事は好きだったけれど、どんな活動についても常に傍観者でいることが嫌だったんだ、と思いだした。1人ひとりのできることは小さいに決まっている。それを集めることが大事なのだ。
 運び込まれる衣類にしみやほつれがないかどうかチェックしながら、持ってきてくれた人に今回の趣旨を説明したりお礼を言ったり、待っている人の列に呼びかけたり……結構忙しかった。そして、いつも一人でパソコンに向かって仕事をしている私にとっては、「本当に」働いたという実感が持てたひとときでもあった。やっぱり体を使うことは大事。
 絵本については、まだ受け入れ先の状況が整っていなくて、後日市内のフリーマーケットで販売し、売上を義捐金として送ることになった。家にある本を精選して持っていったので、ちょっぴり残念だが仕方ない。また時間が経てば、絵本を送る機会もあるだろう。自分が被災したときのことを考えたら、本のない生活は実につらいと思う。大勢の人と寝起きを共にする生活の中でも、本があれば束の間でも別世界に遊ぶことができる。避難所生活が続く人たちのために、「避難所文庫」みたいなものがあれば喜ばれるのではないかな、と考えている。電気のないところでも、本はいつでも開くことができる。
 この歌の「余震」は、実際の余震のことだろうが、いろいろな影響と取ってもよいと思う。今回の大震災の余波は首都圏にも広がっており、穏やかな日常やこれまでの価値観といったものが揺れている。被災地の悲しみに寄り添いつつ、何か行動したいと願うばかりだ。

 ☆秋葉四郎歌集『東京二十四時』(短歌新聞社、2006年8月)
posted by まつむらゆりこ at 08:29| Comment(22) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月11日

ツナ缶

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  缶詰の中の<無音>を開けむとす入道雲の立ちあがる朝
                  栗木 京子


 「とりあえず、ツナ缶があれば」。先日、知人宅で知りあったばかりの青年が何度もそう繰り返すのが可笑しくて、大笑いした。確かに、豆腐や卵、野菜などを炒めるチャンプルーを作るにも、アーサ(アオサ)のおつゆを作るにも、ツナの缶詰は大活躍だ。ツナ缶が常備されていれば、心強いことこの上ない。
 ツナ缶の消費量が全国一多いのは、沖縄県である。「ポーク」と称するランチョンミートの缶詰も沖縄ではよく使われるが、どちらも戦後、アメリカの食文化が入ってきたことで普及したという。高温多湿の沖縄の夏は、食べものが傷みやすい。朝、鍋に火を入れたからと安心していると、夕方には腐敗臭がしていたりする。台風が近づいてくると、パンやおにぎりのほか、カップラーメンなどの保存食が必需品となる。火を使わずに食べられる缶詰類も必須アイテムだから、ポークやツナの缶詰がたちまち沖縄の食生活になじんだのも不思議ではない。
 それにしても、沖縄のお年寄りたちはツナのことを「トゥーナー」と発音するそうだ。「ビーチパーティー」を「ビーチパーリー」、「ウォーター」は「ワーラー」と米国式の発音で覚えているというのが、何とも物悲しいのであった。
 ――というわけで、沖縄とツナ缶は切っても切り離せないものである。私も何となく、島のスーパーにおけるツナ缶の種類の多さを感じてはいたのだが、徐々にその存在感に影響されていたらしい。先日ついに、初めての「箱買い」をしてしまった。
 12缶入りの箱は、沖縄県内でしか販売されていないらしい。こちらに来て初めて見た。それほど大きな箱ではなく、大きめのノートパソコンみたいな感じである。それを抱えてスーパーを出たとき、「ああ、私、けっこう島になじんだかも!」という感慨が湧いてきた。
 この歌は、缶詰という密封された小さな空間の闇や静けさを想像させるところが素晴らしい。日常の視点から離れ、全く違う角度と高さから世界を見せてくれるような機智に魅せられる。自分もこういう歌で人を楽しませることができたらなぁ、と思う。まださすがに「入道雲」は現れていないが、南島には早くもツツジが咲きだした。

 ☆栗木京子歌集『夏のうしろ』(短歌研究社、2003年7月)
posted by まつむらゆりこ at 08:45| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月04日

本のかたち

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   ペーパーバックの文字追ふ瞳上ぐるとき夜を吸へるその深き
   みづいろ                     笠井朱実


 ごくごくたまに、翻訳された本を読んでいて原書を読みたいと思うことがある。とても好きな作品だと、それがどんなリズムや響きで書かれているのか知りたくなるのだ。例えば、ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』や、K.L.カニグズバーグ『クローディアの秘密』がそうだった。マイクル・クライトン『ジュラシック・パーク』は半ば腕試しに読んでみた。ちょうど科学環境部という部署に所属していた時期で、いろいろな科学用語が頻出するのが面白かった。
 吉田健一のエッセイを読んでいて「英語の本が読みたければ、大概のものは翻訳されている。無理する必要はない」なんていう文章に出くわすと、まさに「無理」して読んでいる私は苦笑いするしかない。幼少期を英国で過ごし、後にケンブリッジで学んだ吉田のような人から、「英語というのは絶対に覚えられないものなのであるから、そういうことは初めから諦めた方がいい」と言われてしまうとがっくりくる。
 それでも懲りずにペーパーバックを買ってしまうのは、この形への愛着もあるだろう。日本の文庫本も愛らしい形状だが、ペーパーバックのばさばさした紙質と厚みは、「中身で勝負!」という感じがして愛すべき存在に思える。空港や機内で、ランチボックスくらいの厚みのあるスティーヴン・キングやグリシャムのペーパーバックを抱えている人を見ると、何だかいいなと思う。
 昨年アメリカへ行ったときは、かなりの年配の人たちがKindleを読む姿を頻繁に見かけ、「ふーん」と驚いた。あの分厚いペーパーバックを数冊持ち歩くことを考えれば、かさばらず重くない電子書籍は、若者よりもむしろお年寄り向きの商品なのだと合点がいった。
 電子書籍はフォントを大きくして読みやすくできるから、普及したら高齢者だけでなく弱視の人もだいぶ助かるだろう。読み上げ機能を加えたら、目の見えない人の読めるものがぐんと増えることも期待できる。記者時代、視覚障害者のための朗読ボランティアをしている人から、「実は週刊誌やエロティックな小説などの需要が多いのだけど、なかなかそこまで出来ないのが実情。ボランティアの人も名作を読みたがって…」という悩みを聞いたことがある。
 この歌は、ペーパーバックという「洋」のものを素材に詠った一首である。短歌特有の湿っぽさがなく、からりとした抒情が魅力的だ。

 ☆笠井朱実歌集『草色気流』(2010年6月、砂子屋書房)
posted by まつむらゆりこ at 10:14| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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