
猫の凝視に中心なし まひる薄濁の猫の目なれば
葛原 妙子
昨日、ある人をインタビューした際、話の中に度々「定型」という言葉が出てくるので、どきどきしてしまった。彼は、文学とは全く関係ない分野でのクリエイターなのだが、幼いころから「定型」ということに対して、たいへん敏感に反発し、忌避しようとしてきたというのである。全く新しいジャンルを開拓した人の幼年期の原体験は、実に興味深かった。そして、短歌という「定型」を自分が選んだことについて、改めて考えた。
私は、ある時期まで詩を書いていた。なぜ短歌へ惹かれたか、というと、詩という「不定形」が怖くなったのだ。自分できちんと形を決め、終わり方を決める詩を書くことは、かなりのエネルギー量を必要とする。あるとき私は、自分の中から呪詛のように、再現なく言葉がずるずると引きずりだされるのが恐ろしくなってしまった。自分にはそれを統御する力がない――。そういう消極的な理由で短歌を選んだことは、今も私のどこかに棘のように刺さっている。
数日間世話になっている相棒の実家で、猫たちを見ながら葛原の歌集を読んでいて、この一首に立ち止まった。「猫の凝視」は葛原その人の凝視のようでぞくぞくさせられるが、何よりもその字足らずの破調に魅せられる。定型を知り尽くし、そこから飛び出すエネルギーを感じる。実作者であれば、字余りは試せても、字足らずは容易なことでは真似できないことが分かるだろう。どうしたら、こんなふうに詠めるのだろう。
まだまだ「定型」を究めていない自分を省みるばかりだ。
☆葛原妙子歌集『葡萄木立』(白玉書房、1963年)