2011年05月27日

定型とは

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  猫の凝視に中心なし まひる薄濁の猫の目なれば
                  葛原 妙子


 昨日、ある人をインタビューした際、話の中に度々「定型」という言葉が出てくるので、どきどきしてしまった。彼は、文学とは全く関係ない分野でのクリエイターなのだが、幼いころから「定型」ということに対して、たいへん敏感に反発し、忌避しようとしてきたというのである。全く新しいジャンルを開拓した人の幼年期の原体験は、実に興味深かった。そして、短歌という「定型」を自分が選んだことについて、改めて考えた。
 私は、ある時期まで詩を書いていた。なぜ短歌へ惹かれたか、というと、詩という「不定形」が怖くなったのだ。自分できちんと形を決め、終わり方を決める詩を書くことは、かなりのエネルギー量を必要とする。あるとき私は、自分の中から呪詛のように、再現なく言葉がずるずると引きずりだされるのが恐ろしくなってしまった。自分にはそれを統御する力がない――。そういう消極的な理由で短歌を選んだことは、今も私のどこかに棘のように刺さっている。
 数日間世話になっている相棒の実家で、猫たちを見ながら葛原の歌集を読んでいて、この一首に立ち止まった。「猫の凝視」は葛原その人の凝視のようでぞくぞくさせられるが、何よりもその字足らずの破調に魅せられる。定型を知り尽くし、そこから飛び出すエネルギーを感じる。実作者であれば、字余りは試せても、字足らずは容易なことでは真似できないことが分かるだろう。どうしたら、こんなふうに詠めるのだろう。
 まだまだ「定型」を究めていない自分を省みるばかりだ。

 ☆葛原妙子歌集『葡萄木立』(白玉書房、1963年)
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2011年05月20日

カボチャに思う

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  トレーラーに千個の南瓜と妻を積み霧に濡れつつ野をもどりきぬ
                            時田 則雄


 石垣島では、春先からカボチャが出回っている。本土では6月から9月にかけて多く出荷されるので、だいぶ早い。
 会社勤めのころは、「カボチャなんてどうやって使うの!」「1個買ったら、永遠に(!)食べきれないよ」などと、カボチャに対して誠に失礼なことを思っていた。しかし、これほど使いみちの多い野菜もなく、今は近所の方にいただくとホクホク顔になってしまう。
 甘辛くやわらかく煮るだけではない。ポテトサラダのジャガイモをカボチャに代え、キュウリや玉ネギのスライス、さいの目に切ったハムなどを混ぜてもおいしい。薄くスライスして小麦粉をはたき、フライパンでかりっと焼いて塩を多めにかけると、つまみにも最適だ。先日は、パンプキンケーキ、パンプキンプディングにも挑戦してしまった。
 いま、原稿の締め切りを恨めしく思いながら、「これが終わったら、カボチャのあんパンを焼こう!」と企んでいるところだ。鮮やかな黄色いあんの入った、あんパンを想像すると楽しくて仕方ない。
 この歌は、「千個の南瓜」と「妻」が並列されているのが、実に大らかで愉快だ。上の句はユーモラスだが、「霧に濡れつつ」でしっとりとした抒情があふれる。一首全体からは、農業に携わる人の誇り高さがしみじみと伝わってくる。
 大震災とそれに伴う原発事故による影響で、多くの農家が仕事を失ったり、収穫物が売れなかったりという事態に直面している。誰もがこの歌の作者のように、農作物や仕事自体に誇りを抱いてきたに違いないのに、と思うといたたまれない。カボチャ1個、キュウリ1本、お米1粒にも、それを作った人たちの苦労と愛情が込められているのだと改めて思う。

 ☆時田則雄歌集『北方論』(雁書館、1982年)
posted by まつむらゆりこ at 11:51| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月13日

詩の力

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  あはれ詩は志ならずまいて死でもなくたださつくりと真昼の柘榴
                           紀野 恵


 「現代詩手帖」5月号の特集は、「東日本大震災と向き合うために」。圧巻は、福島市出身の和合亮一さんの長篇詩「詩の礫 2011.3.16−4.9」である。44ページに上る長さは、何か長歌を思わせる。この作品は、和合さんが故郷の自然や人々を思いつつ、ツイッター上で140文字ずつ書き連ねたものだ。リアルタイムで日々「詩の礫」を読んだ私は、深い悲しみや憤りに満ちた言葉に胸をかきむしられるようだった。
 島の書店に「現代詩手帖」がなかったので、思潮社のサイトから申し込もうとしたところ、「2冊以上注文すると送料無料」とある。貧乏性なので「そうだ!あと1冊、現代詩文庫の何かを買おう」と思いつき、わが家の本棚を点検することにした。ところが、思いのほか揃っているではないか。
 自分はこんなに詩が好きだったんだな、と改めて思った。そして、ふと手に取った「辻征夫詩集」に何か挟まっているのを見つけた。何やら人が寝ころんでいるイラストがたくさん付いた印刷物だ。はぁ?「産褥体操とスケジュール」?「産後第一目」「腹式呼吸」「足の運動」……。
 たぶん活字中毒の私のことだから、息子を出産するときに何か読むものが欲しいと考え、病院へ持っていったのだろう。「産褥体操とスケジュール」は出産した当日にもらったはずだ。私と詩はいつも一緒だったのだ、と感慨深く思った。
 詩は、空腹を和らげない。体を温めてくれない。役に立たない。でも、人は詩を必要とする。和合さんの「詩の礫」が、3・11以降の重苦しい日々、どれほど多くの人の心を慰めたことかと思う。時に涙を誘われ、胸が苦しくなっても、詩は私たちを豊かにしてくれる。
 紀野恵の歌は、鮮やかな柘榴の美しさが印象的だ。言葉遊びのように見えるけれど、「詩は詩であり、実用的なものでもなければ、必然性のあるものでもない。でも、何て美しいものなんでしょう」という詩歌への讃美のように、私は解釈している。

☆紀野 恵歌集『フムフムランドの四季』(砂子屋書房、1987年)
posted by まつむらゆりこ at 10:14| Comment(20) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月06日

夜のお客さま

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  毒をもつオオヒキガエル島に増えあめりかーのようにしぶとし

 夏本番も近い感じの石垣島である。気温が高くなり、日差しも強くなってきた。そして、昆虫諸君の登場に伴い、それを食糧とするヤモリ、カエルの諸君も元気に姿を見せるようになった……。
 以前、近所の女性陣とおしゃべりしていて、「あたし、ここの冬って意外に好きだなあ」「あ、私も」「そうそう!」と盛り上がったことがある。なぜ冬がよいのか。それは「虫が少ない」「湿度が低い」からなのだ。夏は、虫とそれを食べる小動物の季節であった。
 そういうわけで、わが家にも毎晩お客さまが来る。大きなカエルである。家の灯りに呼び寄せられる虫を狙って、窓の近くに陣取るというわけだ。まあ、普通のカエルならよいのだが、中には毒をもつ外来種のカエルもいて困ってしまう。
 オオヒキガエルは中南米原産だ。実はサトウキビの害虫駆除のため南大東島へ持ち込まれたものが、いつの間にか石垣島へ入り込んだのだという。襲われると背中から毒液を出すので危ない。このカエルを食べた犬が死ぬこともあるという。環境省によって「特定外来生物」に指定されており、見つけたら放置せず「処分」しなければならない。
 先日、昼間にこのカエルと遭遇したが、相棒も私も「処分」する度胸がない。市役所に電話して、捕獲しに来てもらった。職員の方は、内心「しょうがないなぁ」と思ったのであろう、にこにこしながら「次からはよろしくお願いしますね〜」と言っていた。
 人間の都合で太平洋を越えて連れてこられたカエルも気の毒だな、と思う。ともあれ、夜のお客さまに関しては、何も見なかったことにしている私たちである。

 ☆松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社、2010年5月)
posted by まつむらゆりこ at 00:00| Comment(14) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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