2012年07月25日

日比野幸子さんの歌集

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『四万十の赤き蝦』

 先日、同じ短歌結社「かりん」に所属する日比野幸子さんの歌集『四万十の赤き蝦』の批評会が行われた。彼女は16年前に乳癌を発症し、現在、転移した癌と闘っているところである。批評会当日の朝の体調は思わしくなかったというが、気持ちの昂揚のせいか、会には笑顔で出席され、最後に「もっともっと歌を作ります」と力強く語られた。とてもよい会だった。

 赤い三輪車雨に濡れおり虐待の家映さるる画面の端に          
 ヒラリーの撤退宣言聞く朝のゆですぎたグリーンアスパラのサラダ   
 その苦痛われのものなり避難所にウィッグなき頭のおみな映れば


 日比野さんが優れた観察者であることは、テレビを見て作られた歌だけを見ても分かる。一首目は児童虐待のニュース映像の「画面の端」にある「赤い三輪車」に着目した視点が光る。小さな三輪車は虐待された子どもの姿そのもののようだ。こんな見過ごされやすいところにも作者のまなざしは注がれ、その無惨さから逸らされることはない。
 二首目は2008年6月の、米大統領選に向けた民主党候補の指名争いで、ヒラリー・クリントンがオバマを全面的に支持することを表明し、自らの「撤退」を明らかにしたニュースが詠まれている。作者の思いはストレートには表現されていないが、「ゆですぎたグリーンアスパラ」に感じられる失望と落胆に惹かれた。何とも言い難い割り切れなさが、下の句の大幅な字余りからリアルに感じられる。
 三首目は、東日本大震災を詠ったものだ。着の身着のままで避難所へ身を寄せた人の中には、いろいろな病気の患者さんがいただろうし、その中には放射線治療の副作用によって頭髪を失った人もいたに違いない。私たちはなかなか他人の痛みを自分のものとして感じられないものだが、日比野さんは容貌の変化を隠す「ウィッグ」さえ持たない女性の所在なさ、悲しみを自分の痛みとしてひりひりと感じており、そこに深く打たれる。

 ももいろの「保育士募集」のはりがみの時給の安さをうつ秋の雨     
 王朝の妻の座のごときはかなさに二人目産めば消える席あり       
 子のあれど仕事のあれどさびしいといつか娘の見む道のエノコロ 
     

 作者は教師として長年働いた人であり、自分の娘もまたワーキングマザーとして奮闘している。「保育士募集」の貼り紙が甘い「ももいろ」であり、それを容赦なく冷たい「秋の雨」が叩いている情景は、実に切実だ。働く母親たちも苦しいが、彼女たちを支える保育士たちの現実もまた苛酷なのだ。
 「二人目」を産んだ女性の職場におけるポジションの危うさを、「王朝の妻の座」に喩えた二首目は、古典に親しんできた作者ならではの作品だろう。夫や組織の気まぐれに翻弄される女性へのシンパシーが、時空を超えて詠われている。
 三首目は少し独特かもしれない。「出産か、キャリアか」という二者択一の時代を経て、「子どもも仕事も」というわがままが通る時代となった。それはある意味「勝ち組」の女性である。しかし、他者から「勝ち組」と見なされとしてもなお、女性は何か根源的なさびしさというものを抱え続けるのだ。

 バリトンのよき声の医師やわらかく研究に資する治療を選べ
 実習のリスのような女子医学生副作用の苦に驚きやすし
 なにゆえにわれ病みたるかわからねど海の珊瑚は人ゆえ病めり
 

 日比野さんの透徹したまなざしは、自らの病を超えて世界へ広く注がれている。病むならば、このように鋭くタフな患者になりたい――そんな憧れさえ感じさせられる。病は残酷だが、屈することのない健やかで豊かな歌ごころがあふれ、元気になる歌集である。

 *日比野幸子歌集『四万十の赤き蝦』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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2012年07月19日

言わない・言えない

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 女はおしゃべりな方がいい。
 時々、口の重い自分をもどかしく思うことがある。そして、他愛のないことを楽しそうに、小鳥がさえずるように話す女の人を、とても羨ましく眺めてしまう。河野裕子のエッセイには、彼女が帰宅した夫にくっついて家の中を歩き、その日の出来事をあれこれと話す様子がつづられていて、なんてかわいい人だったんだろう、と思う。

 鈍色の夜明けに思ふ 暮らすとはそれを言はずに暮らしゆくこと
 もの言はぬことが楽なりうらおもてふとんに秋の陽を当てながら
 貝の吐く夜の更けの水 母もわれもつくづく本音を言はぬと思ふ
                               朝井さとる


 歌を批評するには、その文体や韻律の美しさ、新しさ、テーマ性などを多面的に客観視することが必要とされる。けれども、どうしようもなく自分の深奥と響き合うものを感じ、うまく批評できないような歌もある。上に挙げた三首などはその好例だ。

 夜明けにふと目を覚まし、「それ」を言わずに日々を送っている自分を思う。「それ」は読む人それぞれが思い描けばよい。「昔の恋」か「親戚のトラブル」か、はたまた「相手の欠点」か……。家族であっても触れてはならないことが在る。そのことの悲しさ、切なさがじんわりと沁みてくる。
 私も以前、「もの言わぬことのしあわせ休日はしんと黙って手を動かせり」という歌を作ったが、この時は職場でいろいろと指示しなければならない立場にあり、その重圧が大きかった。一首の奥深さで言えば、職場の人間でなく、家族に「もの言はぬ」屈託の方が数倍まさっている。
 海を遠く離れたシジミやアサリでさえ、素直に水や砂を吐くのに、どうして私は近しい人にさえ「本音」をうまく伝えられないのだろう――。歌を読んで泣きそうになりながら、「ああ、ここに自分と同じような人がいた」と何とも言えない安堵を覚える。詩歌を読む喜びは、こんなところにある。

 *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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2012年07月13日

電信屋

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 先日、石垣市内で、日本インターネットプロバイダー協会(JAIPA)の主催する「沖縄ICTフォーラム2012」が開催された。「スマートフォン・SNSの安全安心な活用について」「インターネット規制についての国際的な動きとその危機」といった議題に交じり、「明治政府の南西諸島への海底ケーブルの敷設について」という一枠があり、とても面白かった。
 日清戦争後の明治政府にとって最も大きな課題は、欧米列強に対抗するため、新たに統治下に入った台湾と日本本土を結ぶ通信網の構築だったという。九州〜沖縄〜台湾を結ぶ海底電信線の敷設という国家的プロジェクトが成し遂げられた際、石垣島にも海底電信線陸揚げ施設が建てられた。
 これが実は、地元で「電信屋」と呼ばれる施設である。わが家から車で10分余りのところにあるのだが、島の住民にも知らない人が多い。鹿児島から台湾までケーブルをつなぐうえで、石垣島は重要な中継地点の1つであり、陸揚げ施設は第二次世界大戦時に米軍の攻撃目標ともなった。1897年に造られた建物には空爆を受けた痕が残るものの、今もしっかりと建っている。

  旧日本軍の電信施設があるといふこの騒ぎ止まぬ穂波のむかう
  電信屋とふ廃屋ありて煉瓦壁に弾痕のくぼみ残るいくつか
                       渡 英子


 上記の歌が収められている歌集『夜の桃』の冒頭の一連は、「電信屋」というタイトルである。そして、最初の一首には「石垣市崎枝」という詞書が付けられている。歌集の出た2008年、私と相棒は石垣へ移り住む計画を着々と進めていたから、「崎枝」という自分にとって特別な地名がこの歌集に出てきたことに、ひどく驚いた。
 それにしても、今から100年以上も前から、通信技術は軍事や経済関係において重要なものと認識されていたのだなあ、と感心する。インターネット時代になって、ケーブルの中身は銅線から光ファイバーになったが、海底線としての基本的な構造や技術は継承されている。琉球の歴史と文化ばかりが沖縄ではない。現代史においても、かなり沖縄は面白い。

   *渡英子歌集『夜の桃』(砂子屋書房、2008年12月刊行)
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2012年07月08日

パイナップル

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 パイナップルのおいしい季節である。
 柑橘類や葡萄など好きな果物はいろいろあったが、こちらへ移り住み、「もしかすると、一番好きな果物はパイナップルかもしれない」と思うようになった。それくらい島のパイナップルは瑞々しく、甘みと酸味、香りのバランスが素晴らしい。
 自分で買うことは、ほとんどない。ご近所さんや友人からもらうことが多いからだ。時には食べきれないほどもらうので、あちこち配ったり、カットした状態で冷凍したりする。完熟したパイナップルは、芯までおいしく食べられ、太陽の恵みがぎゅぎゅっと詰まった感じがする。

 昔はおっかなびっくり包丁を入れていたが、今ではざくざくと大胆にさばけるようになった。七、八年前に「ざっくりとパイナップルを割くときに赤子生まれて来ぬかと恐る」という歌を作ったのだが、いま見ると「は?」という感じである。何でまた、そんな大げさな…と、以前の自分が滑稽に思われる。
  環境によって生活が変わり、自分が変わり、歌が変わる。だから、こつこつと歌を作り続けることが大事なのだろう。その時々で、心動かされるもの、興味を抱くものは違う。いま、言葉にしておかなければ、とどめておけない感動があるのだ。

  恋人は日盛りに意気揚々とパイナップルを携えて来る

 「恋人」はどんな場合にも、いつかは必ずそうでなくなる。別れてしまうこともあれば、毎日顔を合わせる関係になることもある。
 日常を分かち合うようになると、常に「意気揚々と」とは行かなくなるのが普通だろう。けれども、ちょっぴり贅沢な存在だったパイナップルが、日々の渇きを潤す果実になったように、自分も「恋人」以降の役割を楽しく、濃やかに果たさなければいけないな、と思う。

   *松村由利子歌集『鳥女』(本阿弥書店、2005年11月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 12:20| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月01日

再開することにしました

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ブログを休んで1年たった。
仕事が捗ったか……と言えば、そうでもない。相変わらず原稿書きに追われている。
でも、先日友人から「みんなが楽しみにしているのだから、早く再開しなさい!」と叱られてしまった。

ずっと休んでいたのは、忙しさ以外にも理由があった。
誰に向けて発信しているのか、よく分からなくなったこと。
自己満足に過ぎないのではないか、という迷いがあったこと。
一定以上のレベルの文章を書かなければ!と気負っていたこと。
−−まあ、そんなところである。

あまり気負わず、緩い感じで、自分のよいと思う歌を少しずつ紹介してゆこうと思う。
更新する曜日もスタイルも決めず、気が向いたときに書くことにする。

みなさま、1年間ごめんなさい。
これからまた、どうぞよろしくお願いします。

今日の一首は、とても好きな歌集の中から。

  かなしみか 皿洗ふとき消えかけてまたふくらみて雨が脈打つ
                      朝井さとる


読んだ途端に、涙がじわーっと湧いてきた。
「かなしみ」は、心の奥にしまわれている。誰もが用心深く、その存在について考えまいと日常をやり過ごしているのだ。しかし、時折それはふっと浮かび上がり、自分を揺さぶる。
「かなしみ」は、誰とも分かち合うことができないのだと思う。そのこと自体がまた悲しくて、やるせない。

   *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 17:12| Comment(17) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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