
『四万十の赤き蝦』
先日、同じ短歌結社「かりん」に所属する日比野幸子さんの歌集『四万十の赤き蝦』の批評会が行われた。彼女は16年前に乳癌を発症し、現在、転移した癌と闘っているところである。批評会当日の朝の体調は思わしくなかったというが、気持ちの昂揚のせいか、会には笑顔で出席され、最後に「もっともっと歌を作ります」と力強く語られた。とてもよい会だった。
赤い三輪車雨に濡れおり虐待の家映さるる画面の端に
ヒラリーの撤退宣言聞く朝のゆですぎたグリーンアスパラのサラダ
その苦痛われのものなり避難所にウィッグなき頭のおみな映れば
日比野さんが優れた観察者であることは、テレビを見て作られた歌だけを見ても分かる。一首目は児童虐待のニュース映像の「画面の端」にある「赤い三輪車」に着目した視点が光る。小さな三輪車は虐待された子どもの姿そのもののようだ。こんな見過ごされやすいところにも作者のまなざしは注がれ、その無惨さから逸らされることはない。
二首目は2008年6月の、米大統領選に向けた民主党候補の指名争いで、ヒラリー・クリントンがオバマを全面的に支持することを表明し、自らの「撤退」を明らかにしたニュースが詠まれている。作者の思いはストレートには表現されていないが、「ゆですぎたグリーンアスパラ」に感じられる失望と落胆に惹かれた。何とも言い難い割り切れなさが、下の句の大幅な字余りからリアルに感じられる。
三首目は、東日本大震災を詠ったものだ。着の身着のままで避難所へ身を寄せた人の中には、いろいろな病気の患者さんがいただろうし、その中には放射線治療の副作用によって頭髪を失った人もいたに違いない。私たちはなかなか他人の痛みを自分のものとして感じられないものだが、日比野さんは容貌の変化を隠す「ウィッグ」さえ持たない女性の所在なさ、悲しみを自分の痛みとしてひりひりと感じており、そこに深く打たれる。
ももいろの「保育士募集」のはりがみの時給の安さをうつ秋の雨
王朝の妻の座のごときはかなさに二人目産めば消える席あり
子のあれど仕事のあれどさびしいといつか娘の見む道のエノコロ
作者は教師として長年働いた人であり、自分の娘もまたワーキングマザーとして奮闘している。「保育士募集」の貼り紙が甘い「ももいろ」であり、それを容赦なく冷たい「秋の雨」が叩いている情景は、実に切実だ。働く母親たちも苦しいが、彼女たちを支える保育士たちの現実もまた苛酷なのだ。
「二人目」を産んだ女性の職場におけるポジションの危うさを、「王朝の妻の座」に喩えた二首目は、古典に親しんできた作者ならではの作品だろう。夫や組織の気まぐれに翻弄される女性へのシンパシーが、時空を超えて詠われている。
三首目は少し独特かもしれない。「出産か、キャリアか」という二者択一の時代を経て、「子どもも仕事も」というわがままが通る時代となった。それはある意味「勝ち組」の女性である。しかし、他者から「勝ち組」と見なされとしてもなお、女性は何か根源的なさびしさというものを抱え続けるのだ。
バリトンのよき声の医師やわらかく研究に資する治療を選べ
実習のリスのような女子医学生副作用の苦に驚きやすし
なにゆえにわれ病みたるかわからねど海の珊瑚は人ゆえ病めり
日比野さんの透徹したまなざしは、自らの病を超えて世界へ広く注がれている。病むならば、このように鋭くタフな患者になりたい――そんな憧れさえ感じさせられる。病は残酷だが、屈することのない健やかで豊かな歌ごころがあふれ、元気になる歌集である。
*日比野幸子歌集『四万十の赤き蝦』(砂子屋書房、2012年5月刊行)