2012年08月28日

山口明子さんの歌集

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『さくらあやふく』

 いじめの問題を考えるたびに、学校の先生の大変さが思われてならない。メディアでは責任逃れしたがる教師ばかりが糾弾されるが、現場には心身をすり減らして生徒たちと向き合っている人がたくさんいる。

 ターゲット変へていぢめを繰り返す深き根雪を心にもつ子
 いかにして育てるべきか惑ひをりいぢめをしつつ試合に勝つ子
 班長の女子を容易に泣かせたりヘラヘラしつつ針のごとき子


 作者は岩手県の公立中学校教諭である。いじめられている子の悲しみや悩みを取り上げた歌は何度も読んだことがあるが、私はこの歌集で初めて、いじめる子を見つめる歌というものに出会った。
 一首目の「根雪」という言葉には、深い人間観察が表れている。その子の抱える重苦しいかたまりを思いやる気持ちがしんしんと伝わってくる。二首目からは、スポーツが得意な活発な生徒像が浮かび上がる。もしかするとクラスで中心的な存在なのかもしれない。「ちょっとした指導で、この子はいじめる側でなく、いじめをなくそうとする立場にだってなれるのではないかしら…」と思い惑う作者なのだろう。三首目の下の句には、かすかな嫌悪感、恐怖感が滲むだろうか。しかし、作者はこの子も否定はしていない。
 この三首がいずれも「〜〜子」で終わっているのは、修辞に凝る余裕がなかったということではないと思う。作者は、この子たちのありように余計なコメントを付け加えたくないのだ。
こんなふうに一人ひとりの生徒に心を砕いている先生たちが、職場の上司から理不尽な指示を受ける。

 「いぢめとふ言葉使ふな」上からの指示を拳を握りつつ聞く

 現場の教師が対面するのは、いじめだけではないことも思う。さまざまな家庭環境があり、さまざまな性格の子がいる。

 人を恋ふこころどうにも出来ぬ子がリップクリームを盗む放課後
 「つまらない遠足でした」と書いてくる日記顔面に水をかけらる
 注意せし我をにらむ子の目の奥に潜めるものを読み取れずをり
 わがひいき指摘する文にたつぷりとひいきされたき寂しさを読む


 教師にも感情というものがあるし、いろいろな限界を抱えている。しかし、それでもやっぱり子どもが好きだという気持ちに、私たちは感動する。万引きして警察から連絡を受けたり、「つまらない遠足でした」「○○さんをひいきしている」などという文章に傷つけられたりしても、この作者は、そこに満たされない思いや「ひいきされたき寂しさ」を読み取る。

 
 授業中反応せぬ子がわが言ひし本借りに来る つくし芽を出す

 「こういう本があるよ。先生もすごく好きなんだ」と授業中熱心に勧めても無表情だった子が、その後でむっつりと「先生、あの本、ある?」なんて尋ねてくる。思春期の子どもというのは何と扱いにくく、いとおしい存在なのだろう。「つくし芽を出す」には、作者の抑えがたい喜びがあふれていて胸が痛くなる。

  本箱が本を吐き出す部屋の中化粧水濃く瞬時ににほふ
  カーナビは知人の宅を不意に告ぐ がれきのみなる道走るとき


 岩手郡滝沢村に住む作者は、東日本大震災の大きな揺れを経験した。部活や宿泊研修の引率で、かつて宮古や釜石、陸前高田といった被災地を何度となく訪れた経験もあるという。自身の感情を抑制した歌の数々は臨場感に満ちている。学校のみならず、さまざまな現場に誠実に向き合う作者のまなざしが、本当に美しい。

 *山口明子歌集『さくらあやふく』(ながらみ書房、2012年8月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 11:31| Comment(11) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月16日

「おまえ」と呼ばれる恋

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 この間、30代の友達が、パートナーとけんかした時のことを話してくれた。「おまえ、って言われてもう悲しくて。私にはちゃんと名前があるのよ!」と大粒の涙をぽろぽろこぼす彼女を見て、「ああ、私とおんなじだ」と思った。以前、こんな歌を作ったことがあるからだ。

  両膝を抱えよ肩は寒くともお前と呼ばれる恋遠ざけて

 何がイヤなんだ、と訊かれても困る。別に「対等な感じがしない」とか「ジェンダー的に…」なんて構えているわけではないのだ。生理的な嫌悪というのが一番近いだろうか。「おまえ」と同様、「あんた」も嫌いだ。20代のころ、恋人から言われた時に、「アンタって言わないで!」と金切り声をあげたことを覚えている。
 しかし、すべての女が「おまえ」が嫌いなわけでは、勿論ない。

 
  年下の男に「おまえ」と呼ばれいてぬるきミルクのような幸せ
                       俵万智『チョコレート革命』
 「おまえとは結婚できないよ」と言われやっぱり食べている朝ごはん
                       俵万智『かぜのてのひら』


 「おまえ」に何とも言えない温かみや親しみを感じる人も少なくないだろう。また、状況や口調、声音などが関わっていることは確かだ。同じ「バカだなぁ」というひと言だって、愛情たっぷりの睦言にもなれば、軽侮のこもった冷たい嘲りにもなる。
 けれども、人それぞれの語感というものは抜き難くあり、「この言葉は嫌い」「これだけは言われたくない」というものがあると思う。難しいのは、そんな言葉を集めたリストみたいなものは存在しないので、「この人にこの言葉を言うと、それだけで傷つけてしまう」ということは、年月をかけて探るしかないことだ。その一方で、「その言葉、きらいなの」「そういう言い方はやめてほしい」と、大事な人に勇気を出して伝えることも必要だ。
 私がつれあいから言われて、とてもショックだったのは、「おためごかし」という言葉である。自分の行為についてそう言われ、返す言葉がなかった。去年1回、そして、つい先日言われ、「あ、また…」とへこんだ。
 今に至るまで、そのことを伝えられずにいる。かつて「アンタって言わないで!」と逆上したのは若さだったのかな、と思う。恋人はとても驚き傷ついただろうが、ああいうふうにぶつけられたのは幸せだったのかもしれない。

*松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社、1998年12月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 12:07| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月13日

片山由美子さんの句集

『香雨』

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 短歌を選ぶか、俳句を選ぶか、というのは、その人の抒情の質、気質と深く関わっている。私にとって俳句を読む喜びは、世界の切り取り方の違いを知ることだ。

   手に触るるものの冷たき夏の闇
   青きもの見ざりしひと日髪洗ふ


 片山さんの句には長年親しんできた。清澄な詩性が持ち味であり、女性性をたっぷりと湛えた美しさがいい。厚みのある闇のなかで、ふと触れるものの冷たさ、そしてじっとりと粘つくような一日の疲れをざぶざぶと洗い流すときのかなしみ――彼女のよさが遺憾なく発揮された二句だと思う。
 そして、見立て、発見の鮮やかさも見事である。

 
   蟻が引くニケの翼のごときもの
   花ミモザ聖書に罪の文字いくつ
   香水をえらぶや花を摘むごとく


 蟻の一句は、三好達治の「蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのやうだ」を思い出させるが、それを上回る素晴らしい見立てにうっとりさせられる。聖なる書であるバイブルに「罪」という文字がいくつ記されているのか、という皮肉、女が香水を選ぶときの心躍りを素朴な喜びに比した組み合わせの妙も、この人ならではの機智である。

   月曜の新聞軽し柿若葉
   夕刊をはらりとたたみ冷奴
   秋暑し見出しを見せて売る新聞


 新聞を詠んだ名句集を編みたくなるような三句。日曜日には官庁ネタがほとんどなく、出番の記者も少ないから、月曜朝刊のページ建ては少ないのだが、それに気づいている読者がどれほどいるだろう。一句目は、初夏のさわやかさと朝刊の軽さが絶妙な雰囲気を出している。
 夕刊をざっと読んで「今日も暑いから冷奴でいいわね」と立ち上がる女の姿、駅のスタンドに並んでいる夕刊紙の見出しの暑苦しさと残暑、これも誠に景がくっきりとしている。季節感というものが一句に与えるスパイスのような作用が、本当にすごいな、と思う。

   子猫抱く久しく人の子を抱かず
   桜湯の花の浮かんとして沈む


 短歌的抒情や時間の経緯が詠み込まれた俳句がけっこう好きだ。自分は俳味というものをきちんと理解していないのかもしれない、と心細く思ったりもする。それでも、好きな句は好きなのだから仕方ない。この二句のぼわんとした雰囲気、そこはかとなく漂う哀感にとても惹かれる。

  ☆片山由美子句集『香雨』(ふらんす堂・2012年7月)
posted by まつむらゆりこ at 16:57| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月02日

ハイヒール

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 仕事で時々東京へ行く。そのとき一番いやなのは、人込みでも空気の悪さでもなく、ハイヒールを履くことである。会社を辞めてよかったことはたくさんあるが、ハイヒールを毎日履かずにすむようになったことは五本の指に入るかもしれない。

 ハイヒールで鋭(と)くも働くことなくて歪まざるまま老いてゆく足
                        米川千嘉子


 株式会社の取締役にまで上り詰めた友人がいる。大変に優秀で、よく呑みよく遊ぶ豪快な女性である。その彼女が石垣島のわが家に遊びに来てくれたとき、夏だったから到着してすぐ素足になったのだが、足元を見てはっと胸を衝かれる思いだった。本当に、外反母趾の典型のように変形していたからである。
 ワーキングウーマンには、男性たちに分からないさまざまな苦労がある。育児や家事との両立以外にも、月経やその前期のコンディション調整、組織で目立ちすぎないファッションの選択……そして、ストッキングとハイヒールを履く苦痛など。通勤電車で何が何でも坐りたくなるのは、全身の疲れというよりは足の疲れが理由なのだ、女性の場合は。
 この歌の作者も、足が変形した人と会う場面があったのだろうか。健康な形の足は誇るべきものでもあるだろうに、作者はハイヒールで闊歩して働く人生があったかもしれないことを少し寂しく思っている。「歪まざるまま老いてゆく」ことの“歪み”を見つめているような屈託がかすかに感じられる。
 女たちの隠された足の形を思うとき、須賀敦子『ユルスナールの靴』の冒頭部分がよみがえる。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。――」
 二十数年会社勤めをした私の足は、そこそこハイヒールに痛めつけられたものの外反母趾にはなっていない。今は毎日ビーチサンダルを履くのでよく日焼けしているのだが、鼻緒に隠れる部分がくっきりと白く残っているのがご愛嬌である。

 *米川千嘉子歌集『あやはべる』(短歌研究社、2012年7月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 15:39| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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