
短歌を選ぶか、俳句を選ぶか、というのは、その人の抒情の質、気質と深く関わっている。私にとって俳句を読む喜びは、世界の切り取り方の違いを知ることだ。
手に触るるものの冷たき夏の闇
青きもの見ざりしひと日髪洗ふ
片山さんの句には長年親しんできた。清澄な詩性が持ち味であり、女性性をたっぷりと湛えた美しさがいい。厚みのある闇のなかで、ふと触れるものの冷たさ、そしてじっとりと粘つくような一日の疲れをざぶざぶと洗い流すときのかなしみ――彼女のよさが遺憾なく発揮された二句だと思う。
そして、見立て、発見の鮮やかさも見事である。
蟻が引くニケの翼のごときもの
花ミモザ聖書に罪の文字いくつ
香水をえらぶや花を摘むごとく
蟻の一句は、三好達治の「蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのやうだ」を思い出させるが、それを上回る素晴らしい見立てにうっとりさせられる。聖なる書であるバイブルに「罪」という文字がいくつ記されているのか、という皮肉、女が香水を選ぶときの心躍りを素朴な喜びに比した組み合わせの妙も、この人ならではの機智である。
月曜の新聞軽し柿若葉
夕刊をはらりとたたみ冷奴
秋暑し見出しを見せて売る新聞
新聞を詠んだ名句集を編みたくなるような三句。日曜日には官庁ネタがほとんどなく、出番の記者も少ないから、月曜朝刊のページ建ては少ないのだが、それに気づいている読者がどれほどいるだろう。一句目は、初夏のさわやかさと朝刊の軽さが絶妙な雰囲気を出している。
夕刊をざっと読んで「今日も暑いから冷奴でいいわね」と立ち上がる女の姿、駅のスタンドに並んでいる夕刊紙の見出しの暑苦しさと残暑、これも誠に景がくっきりとしている。季節感というものが一句に与えるスパイスのような作用が、本当にすごいな、と思う。
子猫抱く久しく人の子を抱かず
桜湯の花の浮かんとして沈む
短歌的抒情や時間の経緯が詠み込まれた俳句がけっこう好きだ。自分は俳味というものをきちんと理解していないのかもしれない、と心細く思ったりもする。それでも、好きな句は好きなのだから仕方ない。この二句のぼわんとした雰囲気、そこはかとなく漂う哀感にとても惹かれる。
☆片山由美子句集『香雨』(ふらんす堂・2012年7月)