2012年09月23日

演奏中の顔

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 先日、東京へ行った際、書店で面白い本を見つけた。『吹奏楽部あるある』(白夜書房)である。
 高校時代、私は「音楽部」という名の吹奏楽のクラブに所属していた。この本は、吹奏楽に熱中した元・少年少女にはなつかし過ぎる内容で、何度読んでも笑ってしまう。
 「自分の楽器に名前をつけている」「転びそうになると、自分はけがしてでも楽器を守る」「ミスった時、楽器をいじくってごまかす」など、現役時代をまざまざと思い出させるものから、「ドラマや映画の楽器演奏シーンに全力で突っ込む」「卒業後、かつての仲間が他の楽団で演奏しているのを見た時に感じる一抹の寂しさ」といった、今も残っている習性(?)まで、さまざまな「あるある」が書かれているのだ。

  歌うとき顔が醜くなるひとの多きことふいに小雨散りくる
                       内山 晶太


 この歌の作者は、大学時代、混声合唱団に所属していた人だ。美しい楽曲を歌いながら、団員仲間がちょっぴりヘンな顔になることを淡々と詠った一首に、『吹奏楽部あるある』の「演奏中は『女』を捨てている」という項目を思い出した。

演奏する音楽は美しいが、演奏する姿まで美しいわけではない。顔が真っ赤になったり、鼻の穴が膨らんだり、楽器を股の間に挟んだり…。女子部員には「女」を捨てることが必要とされる(フルートを除く)。

 私はフルートパートだったので、この項目の最後に異を唱えたい。フルートだって、演奏中はヘン顔になる。いい音を出すには、口の中を拡げることが必要とされる――つまり顎を下げ口腔内の容積を増やそうとすると、唇の端は下がり気味にならざるを得ない。決して口角の上がった、にっこり顔では吹けないのだ。というわけで、ドラマや映画でフルートを吹いている女優さんがきれいな顔で吹いていると、「この人、吹いてないよ!」「ぜんっぜんリアルじゃないっ!」と憤慨し、家人から「なんでそこまで怒らなくちゃいけないの?」と言われることになってしまう……。
 内山晶太さんの歌集は、不思議な透明感と静けさを感じさせる佳き一冊だ。音楽を詠った作品は思いのほか少ないのだが、耳のよい作者であることが分かる韻律の美しさがある。

  思い出の輪唱となるごとき夜を耳とじて耳のなかに眠りぬ
  シートベルトをシューベルトと読み違い透きとおりたり冬の錯誤も

 

 *内山晶太歌集『窓、その他』(六花書林、2012年9月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 15:46| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月14日

津川絵理子さんの句集

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『はじまりの樹』

 句集や歌集を読み、人に惚れるということがある。なぜか女性である場合がほとんどだ。津川絵理子さんには心底、惚れてしまった。

  風鈴を鳴らさずに降る山の雨
  ものおとへいつせいに向く袋角
  向き合うてふつと他人やかき氷


 切り取られた瞬間の、何と生き生きしていることだろう。この人の清新な感覚が捉えた景に、ただただ魅せられてしまう。
 俳句は男性的な文芸と言われるが、女性ならではの句というものが確かにある。

  綾取や十指の記憶きらめける
  群らがつてひとりひとりや日記買ふ
  山笑ふ雑巾のみなあたらしく


 「綾取」の句は、幼い日から今に至るまでの時間が織り込まれていて、実に味わい深い。また、来年の日記を売るコーナーに人が集まる様子から「ひとりひとり」であることを思う知性の濃やかさに感服する。新しい雑巾の清々しさは、何か藤沢周平や宮部みゆきの時代小説に登場する、凛と美しい女性たちを思い出させる。
 そして、この人の愛の句が本当に素晴らしいのだ。

  おとうとのやうな夫居る草雲雀
  助手席の吾には見えて葛の花
  滝涼しともに眼鏡を濡らしゐて


 人を愛するなら、こういうふうに愛したい――何だか涙ぐみそうになって読んだ。丁寧に愛し、丁寧に生きる人だけが詠める句だと思う。

  捨猫の出てくる赤き毛布かな
  飼ひ犬の老ゆるはやさよ鴨足草
  深々と伏し猟犬となりにけり


 動物の好きな人らしい。どの句にもあたたかみがある。最後の一句、この作者の魂の大どかさというか、作者自身にも理解し兼ねるわけの分からなさのようで、特に愛誦する。

 *津川絵理子句集『はじまりの樹』(ふらんす堂、2012年8月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 18:16| Comment(10) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月04日

ナンシーさんを恋う

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 消しゴム版画家で稀代の名文家だったナンシー関が亡くなって10年経つ。このほど出版された『評伝 ナンシー関 心に一人のナンシーを』(横田増生著・朝日新聞出版)を読み、そのすごさを改めて思った。
 評伝を読んで最も印象に残ったのは、優れたテレビウォッチャーだった彼女が、ほとんどテレビに出演しなかったことである。消しゴム版画の作り方を紹介する番組などに数回出たほかは、依頼されても決して出なかった。出演者や制作側との関係ができて「テレビの中の人」になってしまったら、痛烈な批判ができない。あくまでも「外の人」として、彼女は筆鋒鋭く書き続けたのだ。
 そのことを知り、私は歌壇の状況を思った。短歌の世界では、ごく当たり前のこととして、歌人同士で歌集や歌論集の批評をしている。しかし、それは不幸なことだ。自分の作品を棚に上げて他人の欠点を指摘するのは、どうしたって難しい。それに、ある程度の年月、歌仲間と勉強を重ねていれば、短歌関係のシンポジウムや新人賞などの授賞式に出席する機会ができ、いろいろな人と顔見知りになる。「歌壇の中の人」でありつつ、公平公正かつ鋭い批評を書くことは至難だと思う。
 ナンシー関の次の文章を読んだとき、私は平手打ちを喰らったような気がした。

 「人間は中味だ」とか「人は見かけによらない」という、なかば正論化された常套句は、「こぶ平っていい人らしいよ――(だから結構好き)」とか「ルー大柴ってああ見えて頭いいんだって――(だから嫌いじゃない)」というとんちんかんの温床になっている。いい人だからどうだというのだ。テレビに映った時につまらなければ、それは「つまらない」である。何故、見せている以外のところまで推し量って同情してやらなければいけないのだ。
 そこで私は「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが「顔面至上主義」なのだ。
 『何をいまさら』(1993年・世界文化社、のち2008年に角川文庫)より

 文中の固有名詞を歌人の名前と入れ替え、「テレビに映った時につまらなければ」を「歌がつまらなければ」にすると、突き刺さってくるものがある。自分が「顔面至上主義」ならぬ「短歌至上主義」を貫いているとは断言できない。
 金井美恵子が「道の手帖 深沢七郎」(河出書房新社、2012年5月刊)に、「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」と題する文章を寄せて話題になっているが、ここに在る「歌壇の外の人」のまなざしをとても貴重だと思う。
 例えば、新聞の短歌・俳句のページにある書評欄を、彼女は「句集や歌集を、書評というわけではなく、かならず好意的に紹介する『新刊』という小さなコラム」と皮肉っている。「好意的に紹介する」というのは、新聞に限らず短歌総合誌にも言えることだ。出版される多くの歌集の中からピックアップされた本について書くのだから、わざわざ欠点を突くのでなく、優れたところ、評価すべき点を書けばよい――歌集評を依頼されると、そう思って書いてきた。しかし、私の書いた書評を読んで「この歌集、読んでみよう」と歌集を買った人を失望させることが全くなかったと言えるだろうか。自分は決してナンシー関のような、誰から何と言われようと恬として恥じない批評をしてこなかったと省みる。
 評伝のサブタイトル「心に一人のナンシーを」が、とても胸に響く。才能豊かな彼女が39歳で亡くなった今、もう誰もあんなふうに、テレビの予定調和やわけ知り顔のコメントのいやらしさ、仲間同士にしか通じない内輪ネタを批判しない。もはや一人ひとりが心の中にナンシーをよみがえらせ、突っ込んでみるしかないのだ。
 と同時に、「歌壇に一人のナンシーを」とも願ってしまう。そして、それがかなわないのであれば(絶対にそんな人は現れないだろう…)、「こんなぬるい批評をしたらナンシーさんに何と言われるだろう」と「心に描いてみた歌人ナンシー」の声に耳を澄ませ、勇気をもって書いていかなければならないと思う。

posted by まつむらゆりこ at 22:44| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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