
先日、東京へ行った際、書店で面白い本を見つけた。『吹奏楽部あるある』(白夜書房)である。
高校時代、私は「音楽部」という名の吹奏楽のクラブに所属していた。この本は、吹奏楽に熱中した元・少年少女にはなつかし過ぎる内容で、何度読んでも笑ってしまう。
「自分の楽器に名前をつけている」「転びそうになると、自分はけがしてでも楽器を守る」「ミスった時、楽器をいじくってごまかす」など、現役時代をまざまざと思い出させるものから、「ドラマや映画の楽器演奏シーンに全力で突っ込む」「卒業後、かつての仲間が他の楽団で演奏しているのを見た時に感じる一抹の寂しさ」といった、今も残っている習性(?)まで、さまざまな「あるある」が書かれているのだ。
歌うとき顔が醜くなるひとの多きことふいに小雨散りくる
内山 晶太
この歌の作者は、大学時代、混声合唱団に所属していた人だ。美しい楽曲を歌いながら、団員仲間がちょっぴりヘンな顔になることを淡々と詠った一首に、『吹奏楽部あるある』の「演奏中は『女』を捨てている」という項目を思い出した。
演奏する音楽は美しいが、演奏する姿まで美しいわけではない。顔が真っ赤になったり、鼻の穴が膨らんだり、楽器を股の間に挟んだり…。女子部員には「女」を捨てることが必要とされる(フルートを除く)。
私はフルートパートだったので、この項目の最後に異を唱えたい。フルートだって、演奏中はヘン顔になる。いい音を出すには、口の中を拡げることが必要とされる――つまり顎を下げ口腔内の容積を増やそうとすると、唇の端は下がり気味にならざるを得ない。決して口角の上がった、にっこり顔では吹けないのだ。というわけで、ドラマや映画でフルートを吹いている女優さんがきれいな顔で吹いていると、「この人、吹いてないよ!」「ぜんっぜんリアルじゃないっ!」と憤慨し、家人から「なんでそこまで怒らなくちゃいけないの?」と言われることになってしまう……。
内山晶太さんの歌集は、不思議な透明感と静けさを感じさせる佳き一冊だ。音楽を詠った作品は思いのほか少ないのだが、耳のよい作者であることが分かる韻律の美しさがある。
思い出の輪唱となるごとき夜を耳とじて耳のなかに眠りぬ
シートベルトをシューベルトと読み違い透きとおりたり冬の錯誤も
*内山晶太歌集『窓、その他』(六花書林、2012年9月刊行)