2012年10月30日

運動会

1030運動会.jpg

 先日、地元の小中学校で運動会が開かれた。
 小学生11人、中学生2人という小さな学校なので、親以外の地域住民も積極的に参加する。子どもの出る演目ばかりだと、プログラムがすぐに終わってしまうし、疲れてしまう。子どもたちの「かけっこ」の次は、一般のおとなたちの「1000m走」、それから子どもたちの障害物競走のような趣向の紅白戦、そして、またまた一般参加の「グランドゴルフ」――という具合に、プログラムは組まれている。
 13人が紅白に分かれると、同じ人数ではなくなる。紅白リレーで走る距離を案分したり、大縄跳びを取り入れたりと、人数の少ないことが不利にならないような工夫が凝らされていて感心した。綱引きや玉入れは、来場したおとなたちも加わった合同の紅白戦となる。

  子に送る母の声援グランドに谺(こだま)せり わが子だけが大切
                        栗木 京子


 栗木さんの歌は、都市生活者の感覚を偽悪的に描いていて、時代の雰囲気もよく表れていると思う(歌の収められた歌集は1994年に出版)。「わが子が大切」なのはいつの時代も同じだが、「わが子だけが大切」という本音をあらわにするのは憚られる。しかし、小学校受験などが熾烈になり、少子化が進む今、どんな親の心の底にも「わが子だけが」という少しばかり暗い気持ちが潜むことを、この理知的な歌人は鋭く表現したのだ。
 ふだんからよその子を下の名前で呼び合っているこの地域では、自分の子以外の子どもも、かなり同じ大切さで思っているのではないだろうか。違う学年の子たちが協力し合って練習しなければ、組体操やエイサー踊りなど、どれ一つとして成り立たない。学年半ばでもっと大きな学校へ転校してしまう子もいる中、どの子も本当に大切な存在だ。
 私は息子の運動会を、保育園のときしか見たことがない。昨年、地域の運動会を見に行ったときには、入場行進の段階で涙がこみ上げてきて困った。けれども、今年は自分の息子のことなどこれっぽっちも思い出さず、子どもたちの一所懸命な表情に時々胸が詰まるような感激を覚えつつ、一人ひとりに声援を送った。島に移り住み、「わが子だけが大切」でないことを経験できて本当に感謝している。

  *栗木京子歌集『綺羅』(河出書房新社・1994年4月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 11:33| Comment(13) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月15日

兄か、弟か

1015brother.jpg

 若いころ女友達と「年上がいいか、年下がいいか」なんていう議論をしたものだが、今思うと笑ってしまう。いくら自分で「年下の男性がいいなぁ」と思っていたところで、惚れてしまえば前言撤回、後付けの理屈を並べて周囲を白けさせることになるのに、若さとは愚かさである。
 そして、人の年齢というものが当てにならないことも、だんだんに分かってくる。何歳になっても夢と理想を追い求める人もいれば、早くから自分の世界を規定してしまう人もいる。また、関係性というのは常に変わるものであり、パートナーに対して妹のように甘えていた自分が、次の瞬間には母のごとく諭しているということもある。

  おとうとのやうな夫居る草雲雀      津川絵理子

 「草雲雀」は初秋の季語。鈴を振るような鳴き声が美しい、小型のコオロギである。その小さなコオロギと「おとうと」の取り合わせが何ともいえず、胸に迫る。「夫」が実際に作者よりも年下であるかどうかは分からない。むしろ、年下でない方が句の味わいがあるだろう。そして、たぶん作者はいつも彼に対して「弟のようだ」と感じているのではない。草雲雀の鳴き声を聞きつつ、秋の訪れや来し方を思っている今このときに、ふと「おとうとのやう」という思いを抱いた――。相手を包容するような深い情愛の感じられる句である。

  兄という親愛に恋は流れ着き寝起きの鼻をつままれている
                             松村由利子


 この歌は、歌集が出たとき山田富士郎さんが書評のなかで取り上げてくださったことで、愛着のある一首となった。自分の歌のよしあしというのは分からなくて、人に褒められて「ほほう」と思うことが多い。
 弟と二人きょうだいの私にとって、「兄」は少し憧れの存在である。いろいろ教えてもらったり、かばってもらったりするのだろう。少しいじめられたかった気もする。そういうわけで、ふとした瞬間に「兄さんってこんな感じ?」と思うことがある。このトシになるとあまり暑苦しい愛の歌も詠めず、ちょっと滑稽味を加えたくらいが丁度いい。
 現実の弟は六歳下なのだが、随分と頼りがいのある男になり、兄のように思うことが多い。兄も弟も、いいものだ。

  *津川絵理子句集『はじまりの樹』(ふらんす堂・2012年8月刊行)
  *松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社・2010年5月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 15:06| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月07日

停電の夜に

1007停電の夜に.jpg

 ジュンパ・ラヒリは大好きな作家だ。彼女の最初の短篇集『停電の夜に』(新潮社)の冒頭に置かれた「停電の夜に」は、とても味わい深い作品である。
(この短篇の原題は”A Temporary Matter”であり、訳者、小川高義のセンスのよさを改めて思う)
 若い夫婦がたまたま数日間連続して停電を経験することになり、これまで話すことのなかった事柄を互いに話す――というのが物語のあらすじである。電気工事のために5日間、毎日午後8時からの1時間だけ停電するというのだが、それがワーキングカップルにとって、ちょうど夕食の時間だったというのもポイントだろう。彼らは記憶をたぐりつつ、相手に告げずにいた過去の出来事を語りだす……。

  停電の夜にあなたの語りだす昔の恋にシナモン香る

 これは、今年の「歌壇」2月号に寄稿した「停電の夜に」と題する一連の中の歌だ。ジュンパ・ラヒリへのオマージュの気分で作った。歌の内容は事実ではなく、全くの妄想である。私が実際に「停電の夜」を経験したのは先日、台風17号の来襲した際のことだ。停電はほぼ24時間だったが、それでも、闇が自分たちをひたひたと囲むという、特別な感じは十分に味わうことができた。
 相棒はテレビっ子のはしりだった世代であり、なおかつ四六時中テレビのついている職場に長くいたものだから、私たちの夕食時にはいつもテレビの音声と映像がある。だから、卓上ランプに照らされた食事と相手は、実に新鮮であり、照らされていない暗い部分があることもまざまざと感じさせた。ラヒリの小説を読んだか読まないか知らないが、相棒はぽつりぽつりと結構いろいろなことを話した。私も少しばかり緊張して耳を傾けた。
 私たちはどれほど、不必要なほどの明るい光と音声に夜を奪われているのだろうか。台風のときの停電は、吹き荒れる嵐の音がすごかったのだが、食卓には何か静寂に似たものがあった。台風ではないときに、また「停電の夜」を経験したい。闇と静寂、それは人にとって欠かせない、大切なものだと思う。
posted by まつむらゆりこ at 14:24| Comment(10) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月03日

台風一過

1003typhoon.jpg

 先週末の台風17号は、私にとって初めての大きな台風だった。
 移り住んで以来、石垣島にいくつかの台風が訪れたが、いずれもかすめた程度。唯一、大きかった昨年の1つが来た際は、ちょうど東京へ行っていて体験することができなかった。
今回も実は28日から30日まで福岡へ行く予定にしていたのだが、27日夜に翌日の全便欠航が決定し、張り切って台風に臨むこととなった。
 私の住む地域は、市街地から車で30分というところで、買い物に不便というだけでなく、停電や断水といったライフラインが途絶えたときに復旧が遅いという実情もある。地元の人たちの語り草となっている、2006年の台風13号のときには、3日ほど停電が続いたという。
 28日のお昼、隣の集落にあるパン屋さんに買い出しに行くと、すっかり顔なじみになった彼女が開口一番、「おふろに水もためておかないと!」と言うので、私の緊張度もさらに高まる。食パン2斤とバゲット、菓子パンを数個買って帰った。そして、浴槽に水をため、非常用のランタンやカセットコンロを出し、懐中電灯の電池を確かめ……。
 沖縄在住の人のブログを読んでいて「台風太り」という言葉に出合ったときには、笑ってしまった。これは停電した場合に備えて、あらかじめ冷蔵庫の中にあるものを片付けることによって起こるのである。「あ〜、このアイスクリーム、今のうちに食べておかないと」「ヨーグルトも早めに食べないとなぁ」――かくして、台風が来る前にはちょっぴり栄養過多になるというわけだ。
 台風17号が最も石垣島に接近したのは29日20:30頃だった。停電はその日の夕方から30日の夕方まで、ほぼ24時間で済んだ。停電するよりも先に、電話線が切れてしまったのだが、これは今(10月3日現在)に至るまで、まだ復旧していない。

  塩に髪を強ばらせゐる木々に吹き今年十二度目の台風が来る
                       渡 英子


 17号によって、わが家のバナナはほとんど倒されてしまった。他の木々も、潮風になぶられて葉が茶色になり、瀕死の状態である。海が近いので、この歌の「塩に髪を強ばらせゐる」という比喩には深くうなずかされる。
 潮風にさらされるのは木々だけではないから、台風が去った後は、車の丸洗いが不可欠である。そのままにしておくと、小さな傷からどんどん錆びてしまう。それから壁や窓ガラス一面にこびりついた木の葉やほこりを高圧洗浄機で洗わないといけない。これも塩が含まれるので、放置していても自然に流れるということがないのである。
 いろいろあるけれど、地震と違って台風は予測、対策ができるのがありがたい。回数を重ねるごとに、防災のノウハウも磨かれる。この島に暮らす限り、台風ともうまく付き合ってゆかなければならないのだと思う。

  *渡英子歌集『レキオ 琉球』(ながらみ書房、2005年8月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 15:40| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。