
リアル系の歌人、あるいは「歌のなかの『われ』=作者」と思っている人からは、ひんしゅくを買うかもしれないが、歌人の私は嘘つきである。
表象としての猫はかわいいと思うが、実際には猫そのものは苦手であった。なのに、気まぐれに猫と自分を重ねた歌を作ったりしていた。
猫なれど尾を振る習い覚えんと残業こなす均等法以後
やんわりと仕事の筋を通しつつ猫語を解する上司が欲しい
灼けた砂に四肢を伸ばして啼いてみる輪郭なきまで撫でられたくて
こんな歌を作ったものだから、ある短歌総合誌で「あなたは犬派? 猫派?」という特集があったとき、本当は犬が好きで犬しか飼ったことがないのに、(多少は気が咎めつつも)しれっと「猫派です!」という回答を提出したのであった。
ところが人生はわからないもので、先週わが家へ仔猫が2匹やってきた。
ことのはじまりは、相棒が得た「近所の牛小屋に捨て猫がたくさんいる」という情報であった。いつもは私に対し兄貴風を吹かす相棒が、遠慮がちに「君は猫があんまり好きじゃないから、別に飼いたいってわけじゃないんだけどさ…」と切り出したのが少々気味も悪かったのだが、まあ見に行くだけなら、と同行することになった。
そして、わらの積まれた牛小屋で、猫好きの相棒が相好を崩して仔猫と遊ぶ様子を見て、「うーむ、私のせいで猫なし人生を送らせるのは、この人にとってQOLを著しく低下させることになるかもしれん。それは人道上どうなのか」と葛藤すること数日……トイレのしつけはどうするのか、グランドピアノの脚で爪とぎなどしないのか、といった情報収集に励み、「1匹より2匹の方が、猫同士で遊ぶので楽」というアドバイスを信じ、ついに新たな家族を2匹迎え入れることになったのだった。
結果としては、まあ、にぎやかになってよかった。気難しい私は、「人間みたいな名前はつけない」「可能な限りキャットフードは利用しない」「布団の中には入れない」などの条件を付けたのだが、今のところ問題なく1週間が過ぎた。
愛玩動物を飼うのは、少々罪の意識を伴うことだ。『アジアを食べる日本のネコ』(梨の木舎、1992年刊行)には、フィリピンやインドネシアで獲られたマグロが、タイにあるペットフード工場で加工される実態がルポされている。現地の人には手の届かないマグロである。ペットフード市場は年々拡大する一方で、日本での消費量は2400億円を超えているのだが、捨てられる犬や猫が一向に減らないのはどうしたことだろう――。小さなふわふわした家族と暮らす日々、こうしたことも忘れてはいけないと心に銘じている。
*松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社・1998年12月刊行)