2013年02月23日

野口英世再び

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 久々のマイブーム到来!――というわけで、野口英世関連の本を続けて読んでいる。
 たまたま古書店で手に取った『野口英世とメリー・ダージス』(飯沼信子著、水曜社)に始まり、『遠き落日 上・下』(渡辺淳一著、角川文庫)、そして、『野口英世は眠らない』(山本厚子著、集英社)まで読んだ。一番読み応えがあったのは、吉川英治文学賞を受賞した『遠き落日』である。渡辺淳一は伝記的小説のめっぽう巧い人で、与謝野晶子・鉄幹を追った『君も雛罌粟われも雛罌粟』、早逝した中城ふみ子の生涯を描いた『冬の花火』も優れた作品だが、野口という破滅型の学者の実像に迫った『遠き落日』は出色だ。
 浪費癖など数々の欠点にも関わらず、私が野口に惹かれるのは、2つの点においてである。
 1つは、語学のセンスに優れ、若いころにドイツ語、英語、フランス語を学んだばかりか、中国へ行くときには中国語、エクアドルへ行くときにはスペイン語、と必ず現地のことばをある程度習得して、人々の信頼を得たというところだ。山本厚子は特にこの点を高く評価し、野口を真の国際人と称える。私も同感である。渡辺淳一は、福島出身の野口が東北弁に対するコンプレックスを抱いていたことが、外国語の習得に向かわせた要因と見ているが、それだけではないように思う。
 そして、もう1つは、野口が実験の下準備を決して人まかせにせず、試験管の滅菌作業などを自分でやったということだ。『遠き落日』には、手伝いを申し出た後輩に、野口が「せっかくだが断る。俺は自分のやった仕事しか信用できないんだ」と言う場面があるが、実際に彼は何から何まで自分で行う完璧主義者だったらしい。科学研究の大半がプロジェクトチームを組んで行われるようになった現在では、そんなやり方は到底不可能だし、当時もそのことで研究仲間に嫌われたようだ。しかし、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したのは、そんなこだわりがあったからに違いない。

  試験管のアルミの蓋をぶちまけて じゃん・ばるじゃんと洗う週末
                           永田 紅


 ああ、今も研究者たちは野口英世のように試験管を洗うのだな、と興味深く思う。「じゃん・ばるじゃん」という擬音がユーモラスで、作者の元気で明るい気持ちが伝わってくる。大切な実験に使う試験管を洗う心はすがすがしい。これから行う実験、それに続くデータ解析……どんな結果が出るか、今からわくわくする。同じ作者の歌に、「誰に見せる顔でもなくて自らの作業へ向けたる集中ぞよき」という一首もあるが、きっと野口英世も一心に作業しているときはよい顔をしていただろうと思う。

 *永田紅歌集『ぼんやりしているうちに』(角川書店、2007年12月刊行)
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2013年02月16日

ピアノ・レッスン

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 毎週土曜日の午後には、近所の小さな女の子が2人やってくる。ピアノのおけいこなのだ。
 私は音楽学校を出たわけでもないので、初めは「教えられない」と断ったのだが、親御さんは「ピアノが好きで、ひいてみたい気持ちがあるので、それを伸ばしてくれるだけでよい」という。責任重大だなあ、と思いつつ、譜読みができるくらいになれば…と引き受けた。
 昨春くらいから小学5年生、秋からは4歳の子も来るようになった。4歳の子はまだ音符が読めないので、鍵盤に色をつけたマークを貼って何とかバイエルを始めたところである。

  いとけなきものの小さき掌を取りて悪にみちびくごとくピアノへ
                      鳴海 宥


 私の大好きな一首。鳴海さんは音楽学校を卒業されたプロである。小さなお弟子さんにピアノを教える情景を、こんなふうに妖しげに詠ってみせた技とセンスに魅せられる。
 音楽は時に、麻薬のような「悪」になり得る。それは絵や小説も同じだろう。耽溺するくらい何かに魅了されることは必ずしも幸福ではないのだと思う。そんなことを思いつつ、昔なつかしい練習曲集や、ディズニーのキャラクターが載っている今どきの教則本を使って、毎回レッスンの真似ごとをしている。

   *鳴海 宥歌集『Barcarolle ― 舟唄』(砂子屋書房、1992年10月刊行)

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2013年02月10日

白猫の耳

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 人は、自分の見たいものしか見ない。
 先日、久しぶりに中谷宇吉郎のエッセイを再読した折、猫の話が出てきて「ふーん」と思った。何度か読んでいるのに、中谷が猫を飼っていたことはちっとも記憶に残っていなかったのである。ミミーという、その猫は、「感心におとなしい行儀の良い猫」で、ごはんをやると「いつのまにかすっかりたべてしまって、洗ったようにきれいにしてしまう」。中谷はそのことについて、「とかく猫というと御飯を残したり散らしたりして汚くしておきやすいものなのにこれはまたちょっと珍しい猫である」なんて書いている。
 科学者である中谷が飼い猫をひいきするようなことを書いているのが可笑しいが、自分がミミーのことを全く覚えていなかったことには驚く。人間は自分にとって興味のある情報しかキャッチしないのだなあ、とつくづく思う。
 情報社会になり、インターネットで膨大な情報を得ることができるようになったが、人々が万遍なくさまざまな情報を入手しているかと言えば全くそうではない。ワンクリックで興味を引いたものしか読まなければ、世界で何が起きているのか、いま最も大事な問題は何か分かるはずがない。
 紙の新聞はかさばり、資源の無駄遣いだという批判があるけれど、あの一覧性は実に優れていると思う。時に判断ミスや考え方の偏りもあるだろうが、訓練された記者たちが合議して、それぞれの記事の扱いを決めた紙面は、パッと見てその日起こったことを知ることができるものだ。ランダムに等価値として並べられたネットの見出しからニュースを選び出すよりも、はるかに効率的であり、一定の信頼がおける。
 そして、人間の脳は本当に不思議なもので、そのとき特に注意して読まなかった記事でも、後になって「ああ、そう言えば、社会面の右の下の方に出ていたなぁ」などと思い出すことがある。あるいは、ざっと紙面を斜めに見ているときに、関心をもっている言葉が目に飛び込んでくることも少なくない。「意識」は脳科学研究における重要テーマの一つだが、意識下への働きかけという点において、紙の新聞の一覧性はもっと評価されてよいと思う。

  みみうらのももいろ透けるましろ猫雨ふるまへの空をみてをり
                      日高 堯子
  風を掬ってゐるのか猫はももいろの耳をゆつくり動かしながら
                      時田 則雄


 でもって白猫の歌であるが、猫を飼うようになって、これまで私の心に入ってこなかった歌が「ん?」と気になるようになった。分かりやす過ぎる理由だ。でも、白い猫を実際に見ないと「ももいろ」という耳の色さえ分からないのである。自分の経験だけで生きていると、恐ろしく狭くて偏った世界しか知らないことになる。もっともっと本を読み、さまざまな人と出会わなければ、と思う。

   *日高堯子歌集『樹雨』(北冬舎、2003年10月刊行)
   *時田則雄歌集『オペリペリケプ百姓譚』(短歌研究社、2012年11月刊行)

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2013年02月05日

国際結婚、あるいは野口英世

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 相変わらず、締め切りの合間に全く仕事と関係ない本を読んでは、「はぁ〜、至福」とうっとりしている毎日だ。ブログ更新もサボりにサボってしまった。
 先日読んでまずまず面白かったのが、『野口英世とメリー・ダージス』(飯沼信子著、水曜社)である。サブタイトルは「明治・大正 偉人たちの国際結婚」で、野口のほかに、ジアスターゼやアドレナリン抽出で知られる高峰譲吉、エフェドリンの発見者である長井長義、仏教学者の鈴木大拙らのケースが紹介されている。
 何が面白いかというと、やはり彼らのなれそめというか出会いだ。今から百年ほど前の日本人男性が、どんなふうに外国人女性との愛を育んだかというところに、俗な好奇心がそそられる(この本がその意味で少々物足りないのは、一柳満喜子とW.メレル・ヴォーリズのような「日本人女性と外国人男性」のケースを取り上げていないことだ)。彼らの関係に少なからず惹かれるのは、はじめから相容れない部分があることを互いに認識し合ったところからスタートしているからである。国際結婚した友達が数人いるが、いずれも相手との違いについて「まぁ、エクアドル出身だからね〜」「アメリカ人だから仕方ないっしょ」とさばさばとあきらめている。
 本当のところ、男女というものは、そうそう簡単には分かり合えない。なのに日本人同士だと、つい「分かってくれるはず」と期待してしまう。そこに甘さがあるのだと思う。異性には異性の文化、価値観、思考方法があり、自分とは全く異なる存在なのである。

   野心だけが支えであった 精緻なる野口英世の細胞スケッチ

  男性がかなり年上であるケースが多い中、野口英世は同い年(年上という説もある)のメリーと35歳の時に結婚しており、実生活のうえでも対等な関係を築いたようだ。浪費癖があり毀誉褒貶相半ばする野口だが、情濃やかな妻宛ての手紙の数々を見ると、「案外いい人だったんだな」という気になる。見当違いの方向でしゃにむに努力を重ねた野口を、わかったふうに作った自分の一首を読み返し、「申しわけない!」と思うのであった。

   *松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社、2010年5月刊行)

posted by まつむらゆりこ at 15:26| Comment(8) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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