2013年04月21日

新聞・新聞記者

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 新聞社には、合計で22年間勤めた。いまだに、歌集を読んでいても、新聞について詠った作品に「お!」と反応してしまう。

  「新聞沙汰になる」が脅しとなるかぎりまだ新聞は健在である 
                           松木 秀
  届きたるままの折り目に朝刊がゆうべの父のかたわらにあり
                           藤島 秀憲


 どちらも、この4月に出版された歌集に収められた作品。
 松木さんの歌は、新聞記者にはイタイ一首だ。そういえば、「新聞沙汰」という言葉も、あまり聞かなくなった。ネット空間での誹謗中傷の方がはるかに怖いものになったことも勿論だが、新聞の部数が減り、社会への影響力がなくなってきたことは明らかだ。この歌自体が古びて、理解されなくなる時がいずれ来る。
 藤島さんの歌は、介護が必要になった老父を詠ったものである。新聞を読む気力、好奇心がなくなった父を寂しく思う気持ちが、折り目のきれいなままの新聞に投影されていて切ない。夕暮れどきの心もとないようなさみしさが、一首全体を覆っている。
「新聞」以上に気になるのが、「新聞記者」を取り上げた歌である。

  初対面の新聞記者に聞かれおりあなたは父性をおぎなえるかと
                         俵 万智
  貯金使ひはたして逃げたと額を言へば素早くメモをとる気配あり
  なぜ避難したかと問はれ「子が大事」と答へてまた誰かを傷つけて
                         大口 玲子


 俵さんの歌は、シングルマザーとして生きることについて取材された場面だ。大口さんは、3・11後に起きた原発事故を受け、幼い子を連れ東北から九州へ移り住んだことについて取材された。
 どの歌も、まるで自分が批判されているように突き刺さってくる。「初対面」の人に対して、ぶしつけな質問をしなければならないことがある。また、どんな記事でも数字という具体性が力をもつので、数字が出た瞬間に「素早くメモをとる」のが記者としての基本なのである(嗚呼!)。三首目の作者の思いも苦しく伝わってくる。自主避難したことについて胸の中にはさまざまな思いが渦巻くのだが、それを言葉にした途端に、言葉自体が一人歩きしてしまう。「子どもが大事だったからです」と答えながらも、「それだけではないんだけど…」という思いもあっただろう。そして、何よりも作者は、自分の言葉が、避難したくてもできない人、避難しないことを選んだ人たちを傷つける可能性をよく分かっている。幼い子をもつ母親たちが、記者という第三者によって分断されてしまうことが、痛ましく思えてならない。
 これらの「取材される痛み」について読むとき、自分の記者生活を省みて、ただ深く頭を垂れるしかない。

 *松木秀『親切な郷愁』(いりの舎、2013年4月刊行)
  藤島秀憲『すずめ』(短歌研究社、2013年4月刊行)
  俵万智『プーさんの鼻』(文藝春秋、2005年11月刊行)
  大口玲子『トリサンナイタ』(角川書店、2012年6月刊行)
posted by まつむらゆりこ at 21:48| Comment(7) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月10日

絵本の力

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 河合蘭『卵子老化の真実』(文春新書)を読んでいて、思いがけないエピソードに出会った。
 ある女性が出産直後、赤ちゃんにダウン症の疑いがあることを告げられたとき、小学生のころに読んだ、ダウン症の男の子、トビアスの日常を描いた絵本『わたしたちのトビアス』(偕成社)のことを思い出したというのだ。「頭が真っ白になって、何も考えられなかった」状態のなか、トビアスが家族みんなに愛されていた内容がよみがえり、彼女は夫と自分の親たちに事実を告げた。「あの本と出会っていたことは、私の心を強く支えてくれたと思います」という言葉に胸が熱くなった。
 駆け出しの記者だったころ、先天性四肢障害児父母の会というグループを取材したことを思い出す。生まれながらに手足の指が欠損しているなどのハンディがある子どもたちを支える親のグループである。その会が作った絵本『さっちゃんのまほうのて』(偕成社)は、片方の手の指がない「さっちゃん」の悲しみと回復が描かれた内容で、出版されて25年で約65万部のロングセラーとなっている。
 「トビアス」や「さっちゃん」が、どれほど多くの人を励まし、支えてきたことかと思う。それは、医療情報や育児書とは全く別のメッセージである。一人ひとり違った人格を備えた子どもたちの姿は、障害の有無で括ってしまうことの愚かしさを伝えている。

  空席に誰かゐるらし駅過ぎて埋まらぬダウン症の子の右
                        早野 英彦
  自閉ちやんダウンちやんといふ呼び方に馴染めず輪から
  外れる、独り               東野登美子


 一首目は、込み合う電車の中で、皆が遠慮したようにそこだけ空席になっている状況のかなしさが詠われている。ダウン症の子は特徴的な顔だちをしているから、ひと目で分かる。「あ…」と瞬間的にその隣の席を避けてしまうのは、きっとその人がいろいろな子ども、いろいろな人に出会った経験がないからだろう。ダウン症の子にとっても、そうでない子にとっても、一緒に遊んだり勉強したりする場は大事だと思う。
 二首目の作者は、発達障害の子を育てている。同じ境遇の親たちは一番わかり合えそうだが、その集団の「おたくは自閉ちゃんなの?」などという言葉遣いにつまずき、「輪」から出てしまった孤独感が胸を打つ。
 小さな子を育てる日常がどれほど大変か、ということさえ想像できない人が大組織には少なくない。まして、いろいろな子どもがいること、どんな子どもも幸せに生きていることを、知っているか知らずにいるかの違いは大きい。多様な子どもたちが登場する絵本は、本当に豊かな世界を見せてくれる。

  *早野英彦『淡き父系に』(ながらみ書房、1995年2月刊行)
   東野登美子『豊かに生きよ』(いりの舎、2012年6月刊行)

★先日、ご紹介した拙著『物語のはじまり 短歌でつづる日常』(中央公論新社)は、まだ手元にあります。
よろしかったら、どうぞご連絡くださいませ。
posted by まつむらゆりこ at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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