2014年10月23日

赤ちゃん

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 先日読んだ『AIDで生まれるということ−−精子提供で生まれた子どもたちの声』(萬書房)は衝撃的だった。
 AIDは、配偶者以外の提供精子による人工授精のことである。不妊治療としては最も古いものの一つで、技術的な難しさがないため、ある時期まで問題にされてこなかった。卵子の提供や代理母出産に比べれば、倫理的にそれほど問題がないと思われていたのだ。しかし、近年、自分のルーツを知りたいと願う子どもたちの声が少しずつ高まり、生まれてきた子が自分の出自を知る権利について論議されるようになった。
 この本には、当事者である6人の手記が収められている。AIDで生まれた事実をどのように知ったかという経緯や家庭環境は異なるが、ごく普通に両親からかわいがられて育った人たちだ。しかし、AIDについて知ったときは誰もが大きなショックを受け、それまでの人生が瓦解したような気持ちを味わったことが分かる。そのときの驚愕、絶望感は、産婦人科医や倫理学者といった"識者"の推測をはるかに上回るものだった。
 6人の当事者の中には「子どもは親のペットではありません」「私は自分を、人と提供されたモノから造られた人造物のように感じています」という人もいた。自分の始まりに、男女の情の通いあいがなかったことをとても悲しく思ったという声も記されている。「親にずっと嘘をつかれていた」と感じたり、誕生日が来るのが嫌でたまらなくなったりしたケースもある。
 もちろん、誰もがそうではないだろう。親から「どうしても、あなたという存在が欲しかった。そしてあなたを愛してきた」と説明されて、納得できる人もいるかもしれない。けれども、そうでない人もいる。生まれてくる子が、どんな性格で、どんな価値観を築いてゆくか、親は決して予測することができないのだ。「こういうふうに説明したら、きっと分かってくれるはず」というのは、楽観的に過ぎるのではないか。不妊治療を考えるとき最も大事にすべき痛切な声が、この本にはあふれている。

    玉のようなあかちゃんを我は未だ産まず
           桃缶のぬるきシロップをのむ      齋藤 芳生


 三十代の作者はシングルである。「玉のような」という慣用句が、なぜか無惨なものとして響く。産む性として自己を認識しつつ、社会的に「未だ産まず」と見られることのプレッシャー、生きにくさが、どことなく感じられるからだろう。「ぬるき」が効いている。
 こうしたプレッシャーや生きにくさが取り除かれないまま、不妊治療の技術ばかりが進んできたことを思う。医学研究は大切だが、臨床応用については慎重過ぎるということはないはずだ。

  ☆齋藤芳生歌集『湖水の南』(本阿弥書店、2014年9月)
  ☆写真の絵は、林明子『こんとあき』(福音館書店)より
posted by まつむらゆりこ at 18:26| Comment(6) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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