桃よよと啜れる男をさなくて奪ひしやうに父たらしめぬ
今野 寿美
長野に住む友人から、たくさんの夏野菜と桃が送られてきた。野菜も嬉しいが、桃の見事なことにはびっくりした。いろいろな農作物をちゃんと作っている人だから、青果店で買うような果実であることに何も不思議ではないのに、こんな立派な桃がどうしてできるんだろう、なんて思ってしまった。
「桃よよと啜れる男」は、その一心さがいい。小さい子どもは、ものを一心に食べている様子がかわいくてならないのだが、男だって無心に食べている姿はいいものだ。そんな姿を見ていると、「男かわゆし」といった年上女房的な気分になる。この作者も、そうだったのだろう。そして、愛する男の幼さを見つめるうちに、その人と結婚して子どもを産んだ自分が、彼に対して何かとてつもなく残酷なことをしてしまったのではないか、とふと思ったのである。
生物学的にというか、状況的には「奪はれしやうに」母になるものかな、と思うが、それを逆転させた発想が面白い。本当は結婚なんかしないで、いつまでも好きなようにふらふらと生きていたかったんでしょうに、子どもまで出来ちゃって。いろんな夢を語って飽きなかった人が、日常の繰り返しの中に埋没しちゃって……。
でも、ここまで深読みしないでもよいのかもしれない。詠われている「男」は、とても若くてハンサムな父親なのだ。どうかしたときに少年のような表情になるくらい、線が細くていとおしい。作者も母になったばかりの初々しさの中で、夫への恋情を新たにしているのである。余裕たっぷりで若干の茶目っ気も含んだ愛の歌は、水蜜桃のように甘く、瑞々しい。
☆今野寿美歌集『世紀末の桃』(雁書館・1988年9月)
懺悔というより誇らしさを感じます。素敵な歌ですね。
まったく関係ないけど夫の故郷は白桃で有名な岡山で、長女の名前は当初「桃子」になるはずでした。
そしたら今ごろ「ももママ」だったかも(爆)♪
そうそう、「誇らしさ」ですね。恋の勝利者となった強みがあります。
「父たらしめぬ」という結句が、自信に満ちてますもの。
子供の頃から桃の香=お盆という記憶がありましたので。
桃は皮をむいてそのままかぶりつくのが美味しいです。汁がたれるのも気にしないで無心に食べる。
作者も夫のその姿を「かわいい」と感じたのでしょう。
姉さん女房でなくても(もしそうだったら余計に)、女性はそういう視線になるのでは?
この歌は素直に解釈したいです。
歌人と桃というと、北杜夫の「楡家の人びと」の中で、作者の実父斉藤茂吉がモデルになっている人が、散策の途中、渓流で桃を冷やしてかぶりつく場面がありました。とても美味しそうで読んでる側も食べたくなるほどでした。
そういえば茂吉の作品に
ただひとつ惜しみて置きし白桃の
ゆたけきを吾は食ひをはりけり
というのがありますね。
茂吉の歌は、エロティックな解釈と、食いしん坊だった彼の実感だという解釈と、両方あって面白いですね。
『楡家の人びと』の中の、徹吉が桃を食べるシーンは私も大好きです!
とても深い歌なのですねぇ。
とりあえず私も、
一心に美味しそうに桃を食べてみたいと思います。
「かわゆし」と思ってもらえるかどうか^^;
食べるシーンというのは、いろいろ心ひかれるものがありますね。子どものころは特に、どんな本でも食べる場面が好きだった覚えがあります。
KobaChanさん、
おいしそうに食べる人って、男の人も女の人もすてきだと思います!
セクシィな歌です。
想像ですが、この歌の中に生きる女性は、思慮遠謀に気つかず「よよ」と歓びすする男を「幼い」と観ているのでしょう。
でも、その思慮遠謀を知って「桃」を食べるのと、知らないで食べるのとの違いは無いような気がします。
食べた後には、実が残り、その実を立派な成木にするという責務がありますから。
このような歌を、ニヤリと解けるようになりたい・・と思いました。
楽しんで読んでくださって、ありがとうございます。
セクシィな桃の歌の中には、俵万智さんの「水蜜桃(すいみつ)の汁吸うごとく愛されて前世も我は女と思う」があります。エロティックです!
おいしい桃は手がべとつくのもかまわず、ズズっといきますね!
ハンサムな男子だとそれも絵になりますが、当方は100年の恋もさめるかも…
私の父は甘いものは嫌いでしたが桃は好きで得に白桃の缶詰は大好きでした。
そう言えば桃の種で工作一緒にやったなぁ
長くてすみません。桃には思い出が宿るのかも…
おお、甘いものはダメでも桃だけはお好き、というお父上。何だか小説に出てきそうでいいですねえ。