受け取りてしばしを育て終へたれば返すものなり
息子といふは 紺野 万里
娘は大人になってからも母親との距離がなく、姉妹のように仲良くできるが、息子はそうは行かない。成長すれば家を出てゆくものだし、結婚でもすれば、もう配偶者との家庭が一番になる――そんな話をよく聞く。
この歌の作者も、そう思ったのだろう。子どもはたまたま天から預かりものとして「受け取」ったもの、そして子ども時代は、本当に「しばし」という短い限られた時間である。その大切な、いとおしい時間が過ぎてしまったら、「返すもの」なのだと達観していなければ……。
しかし、私はそう思わない。息子であろうと娘であろうと、「育て終へれば返すもの」ではないかと思う。子どもは三歳までに一生分の親孝行をしてしまうと言う。それくらい愛らしい。たまたま自分のところに来た存在に過ぎないのだから、そのままずーっと一緒にいるわけには行かない。息子だけでなく娘だって、親よりも配偶者の方が大切になるのはごく当たり前のことで、むしろそうならないと困る。
この歌の作者は、たいそうシャープな知性の持ち主で、何億年もの地球の歴史をはろばろと詠い、現代社会の危うさを鋭く切り取ってみせる手腕は、実に見事である。その彼女にして、愛する息子に対しては特別な甘い感情を抱き、めろめろになりそうな弱さを示しているのが、この歌の面白みだと思う。
母というものは、愚かしい方がいいのだ。利にさとく、子をうまく御そうとするなんて、よくない。古川柳に「母親はもったいないがだましよい」とうたわれた母親を、私はこよなく愛する。知的な詠みぶりで知られるこの歌の作者も、ころっと息子にだまされることがあったかもしれない。それがまた、この人の魅力であり、私もそんな母親でありたいと願う。
☆紺野万里歌集『星状六花』(短歌研究社、2008年8月刊行)
それは、私がそのような心をもたず、「母親だから当然だ!」
と、思っていたから・・・・。(●●だから当然だ!という考え)
こんな考えでは、ひと様に「感謝」と言うけれど・・・・うわべだけ。
今になって、ようやく「勿体」の意味を知り、気づく、バカな父親&男。
亡母に、ゴメンナサイ・・・・トホホ。
そして、息子達に、スマン。。。
さらに、・・・・・・・・・・。
当分・・<自己嫌悪>・・
母とは違う父という立場の私ですが、母でも父でも思いは同じなんだと、そんなふうにも思いました^^
娘でもなく息子でもなく、母でもなく父でもなく、親子の在り方とを語る上で、今回のお話はひとつの真実だと思います。
これは、如何なる時も歌人たらんとする、意思表示なのでしょうか。
本音をいえば、僕は見習いたくない、というのは甘ったれですね。
息子や娘の「だます」ってかわいいものですよね!
ひろしさん、
いやいや、きっと大切なことは息子さんたちに伝わっていますよ。ひろしさんのお母様も、にこにこしながら許してくださっているに違いありません。
KobaChanさん、
あっ、父親も同じ境地かもしれませんね。特に娘に対する父親の気持ちは、もっと複雑かも……。しみじみして読みました。
森さん、
う〜ん、「即物的」でしょうか。私はめろめろの自分に言い聞かせるような歌だと読みましたが。
morijiriさん、
そうですね。「返す」ってとても不思議なことばです。
その彼が、この秋結婚します。
「母さん、さみしくなるな〜」
「なんでボクぜーんぜん、さみしくないよ」
「・・・」
わたくしの、ナンドル・ネームのErwin Rommelも戦場(特に北アフリカ戦においてはDessert Foxとも呼ばれた)では英雄、しかし国防軍としては重責を持ち、職業軍人として真摯に、「仕事」を戦略かとして大成し、元帥まで祭り上げられた。
しかし、彼の最期はSSにより「公開裁判と家族の一斉粛正を選ぶか?自らの自害を選ぶか?」を迫られ、見送る妻を後に、車の中でSSの見届ける横で、服毒自殺をさせられた。
後年、その子供はBayernの市長(政治家)についたりして、二度とNational SozialismusのようなPartyが出来ないように尽力したようだ。
ただ、最近の若い男性のBehaviorについては、ちょっと気になる。お父さんが「団塊の世代」だったせいか、女親の溺愛で、シャンとしていない気がする。
実例には枚挙にいとまがないが、
男女のおつきあい、仕事での迫力のなさ、枠の中でしか動かない、等々。
一方、良い面は、(あくまでもインターネット媒体が多いが)情報収集能力がデジタルになって来、「国際的収集力」が身に付いてきたこと、そして身長が私レベルの方が増えてきた(でも腰は弱々しいけどね)こと位か…?
女性の視点では、上記の歌は理解できるようになってきたが、今後、男性の歌を見たいものだ…。
でも、私の世代は、実父を始め人生の先輩方が「父親の背中を見せて男を育てよ!」という雰囲気であった。
私のハンドルネームのErwin Rommelも第一次大戦からナチスドイツによる大戦で自害を求められるまで、敵将を唸らせる戦略家であった。有名なのが、北アフリカ戦線でのDessert Foxという渾名、西部戦線の後衛指揮につくと連合軍は戦術を修正するなど、「職業軍人」として、ドイツ国防軍の最高位(元帥)まで、祭り上げられてしまった。
彼の家庭人としての家庭を守る決別判断は、ヒットラー暗殺関与の嫌疑による、自害であった。
SSを通して、「公開裁判と家族粛正を選ぶか?自害して国葬とされるか?」という判断を迫られた。
それに対して、迫り来る最期のお別れの後、SSお迎えの車の中で、服毒自殺をした!
その後、息子はBayern地方の政治家になり、父に足りなかった、政治感覚を身をもって証明し、二度とNational SocialismusnのようなPartyを作らないよう、尽力したという。
父親は、家庭人であると共に、社会性と国際性を持ち合わせる努力を続ける義務があるようだ。
ただ、現在憂いていることがある。
「団塊の世代」の子供達である。父親が、「社畜」として社会の眼の間で、仕事に勤しんでいる間に、子供達は女親に溺愛され気味で、インターネットの「混濁情報」をベースに物申したり、女性一人口説けずにいる。はっきり申せば、若者らしい明るさがないのだ!ポジショニングも(よく言えば)物腰柔らか、(どぎつく云えば)真理を追究する若さが欠如している気がしてならない。
もっと、リスク・テイク型の男性が育って欲しいものだ…。
サラリーマンでリスクを会社におっ被して、労働組合運動を一所懸命やるくらいなら、自営をして、世の中の地べたを這いずって、「現場」を感じるような、ビジネスや生活をして、もっと若者らしい「キラキラした」生活を歩んで欲しいと想う。
私も歳かな…?