この作者は、水の人である。身体の中にいつも水がたゆたっている。だから、揺れる。だから、やさしい。
終日を一枚の湖(うみ)持ち歩く流れ出す場所あらぬ湖
テーブルに私がこぼれそうな日は少し深めの器に入る
一首目は「一枚の湖」というハンカチのような見立てに魅了される。二首目は、「少し深めの器」という、具体的な言葉なのに何のことかわからない不思議さがいい。厚手で深い器の底に、膝を抱えて坐り込んでいる人の姿が見えて、胸がきゅんとする。
水は方円の器に随う、という言葉のように、この作者は名前によって姿や中身が変わってしまうようだ。
筆名を持たばあるいはわたくしに響くコントラバスの低音
自分の名前だんだん好きになることは何かが細くなってゆくこと
アンケートまた頼まれて名前なき私がえがくいびつなる円
「筆名」を持てば、まるで別の人になれるのではないか、と思うことが誰にもあるだろう。その具体性を作者は「コントラバスの低音」と表現した。今の自分よりもっと優しくて強い人、もっと受容力のある人……そんなイメージが伝わってくる。深い内省のある、いい歌だ。二首目の「自分の名前」は、少し難しい。自分の名前には愛着があるものだが、「あんまり好きになると、その名に縛られてしまう」という意味だろうか。名前の持つ呪術性というものを思い出させる歌である。三首目は都会に暮らす人の匿名性の歌と読んだ。設問に対して、いくつか丸をつけたところで、何だかひねこびたような丸だな、と悲しくなった作者のようだ。
こんなにも繊細な表現に長けた作者だが、時にびっくりするような歌が出てくる。それが楽しい。
俺という一人称を持たざれば伝えきれない奔流のある
銀行のカラーボールを投げつける相手考えているつれづれに
質問と答えがふいに入れ替わる きつねが角を曲がって行った
「俺」と言わないままの一生かと思うと、私も何だか損をしたような気持ちになる。「おれ」と言った途端に、何だか自信に満ちた、そして荒々しい感情が流れてくるかもしれないのに。二首目も驚かされる。銀行強盗にぶつけるための「カラーボール」について、こんな空想をする人がいるとは知らなかった。ちょっと怖くて愉快な一首である。三首目は、また違った味わいだ。あるとき、ふっと日が翳ったときのように、何かが からん と入れ替わる瞬間をうまく捉えた。たぶん、安房直子の童話などが好きな人ではないかしら、と想像した。
覚め際の夢はこちらにはみ出して端を掴んだままの一日
和ダンスのもう何年も触れぬ場所このまま老いてゆく闇がある
鳥の群れいっせいに向きを変えるとき裏返さるる一枚の空
巧みに作られた歌の数々に魅了されつつ読んだ。「覚め際の夢」にまとわりつく悲しみ、ひっそりと和ダンスの奥にしまわれた「闇」を、読者はありありと感じとる。
そして、三首目のこの的確で美しい表現! 黒く見える鳥の群れが向きを変えた瞬間、白い鳥の群れに変わる、あの瞬間について長らく「うーん、何とか歌にしたいのお」と考えていた私にとって、脱帽、感服の一首である。
☆細溝洋子歌集『コントラバス』(本阿弥書店、2008年10月、税別2600円)
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「水」は私にとっても永遠のテーマです。水面にきらめく光をとらえようとして一生を費やしたモネのようになりたいなあ…。
鳥の歌もいいですね!ゆりこさんの解説つきだと、ますますいいです☆
この歌集の作者は水のとらえ方が独特で魅せられます。
「モネのようになりたい」という願いを抱くもなママさんも素敵です!
「〜〜少し深めの器に入る」
こぼれそうな私を、ふところ深く受けとめてくれる、そんな大きな器なのでしょうか?
ねっ! 素敵でしょう?
私も繰り返し読んでうっとりしています。
カフェオレボウルのような器を、私は思い浮かべました。
30年前ギター部で弾きこんでいた楽器です。
(ギタロンは低音域を受け持つ大きなギター)
マンドリンは赤子を抱くように、ギタロンは女性を抱くように
演奏しないと良い音は出ません。
音は出させるものではなく、楽器に出していただくもの
己の心の代弁者として・・・・
楽器はまさに「心の代弁者」ですね!
ギタロンという楽器、知りませんでした。
ブラスバンドにどっぷりと浸かり、弦楽器との縁が薄かったことを少なからず残念に思います。
たろうさん、
「新しい世界」と言っていただけて、とても嬉しいです!
とても素敵です。
私もコントラバスのような人になりたいと、
思ってしまいました。
本当に!
コントラバスはブラスバンドにも欠かせない楽器でしたので、一番なじみのある弦楽器かもしれません。
私もいま『コントラバス』を読んでいます。
巧い歌であるけれどわかる歌。技術はもちろん持っていて、発想の面白さもあります。
>自分の名前だんだん好きになることは何かが細くなってゆくこと
この歌は作者の名前が細溝から来ていると単純に思いました。
「発想の面白さ」はやっぱり、作者のアンテナの感度のよさだろうと思います。
「自分の名前」が「細溝さん」というお名前と関連があるなんて想像しませんでした!