引き寄せて心にしみる手ざわりのすべやかに春を宿す碁の石
馬場あき子
小川洋子の『猫を抱いて象と泳ぐ』(文藝春秋)は、チェスが大きなモチーフとなっている。私はチェスにはなじみがなく、駒が黒と白に分かれているところは囲碁に、駒の動き方が種類によって異なるのは将棋に似ているなあ、なんて思うくらい、何も知らない。けれども、この小説には心を揺り動かされた。
主人公の「リトル・アリョーヒン」は、大きくなることを恐れていた。大人になっても体は小さいままだった。彼は、胎内回帰願望や生まれてきたことへの悲しみから成長するのを忌避したのではない。物語の始めから彼の母親が登場しないことは、多分それを裏付けている。
(読んでいない方は、ここから読まないでくださいね)
大きくなって屋上から降りられなくなった象、壁と壁の間で身動きがとれなくなってしまった少女、廃棄されたバスの車両に住み、そこから出られなくなるほど肥満してしまったマスター……。リトル・アリョーヒンの愛するものたちは、みな大きくなることで悲しい最期を迎える。”大きくなること、それは悲劇である”と十一歳の少年は思う。
詩のように美しい、この物語を読みながら、作者はいったいどんなメッセージを伝えたかったのだろうと考えた。そして、先日読んだ『グローバル定常型社会』(広井良典著、岩波書店)を思い出した。いま世界は、経済が成長し続けるというモデルではうまく行かなくなっている。広井は、人類史的に見ると、これまでにも「定常」的な状態が保たれた時期は何度かあり、これから迎えようとする定常型社会は決して人類が初めて出合うような状況ではないと指摘する。拡大、成長することが常に善ではないのだ。
物語をこんなふうに読むのはヘンなことかもしれない。けれども、チェス盤という小さな盤上(盤下)で繰り広げられる無限の美しく、豊かな世界について読むうちに、私は作者が、人はそれぞれの盤においてつつましく、こころ豊かに生きればよい、と語っているような気がした。
☆馬場あき子歌集『桜花伝承』(1977年)
いろんなイメージを連想させます。
一番、連想させるのは、僕自身です!(自意識過剰)
定常型社会という本、読んでみたいと思います。
とても素敵なことですね。
そして、それはとても大切なことでもあるのですね。
そういえば、確か山椒魚も
穴場から出られなくなってしまったのでしたよね???
(合っていたかなぁ?)
この小説、本当におすすめです!
「定常型社会」については、これよりも先に岩波新書(同じ筆者)から、その名も『定常型社会』という本が出ています。よろしかったら♪
KobaChanさん、
おお! 山椒魚のこと、忘れていました。ホントですね。小川洋子さんは書いている途中で思い出したでしょうか。
面白そうな本ですね。読んでみたいです。私は小さい時、団地に住んでいて、眠れない夜は、団地が降ってくる夢を見ました。人類もまた恐竜のように滅びてゆくのでしょうか? 社会主義、共産主義、そして資本主義以降、何か新しい思想を提案している哲学者も顕われず、、、ダーウィンの進化論はマユツバモノです。人類の鼻、目、耳、は確実に退化しました。音楽家の耳はただ単に旧原人並みかと思います。動物であることを忘れた人間の感覚は確実に退化しているので感じることが鈍くなっているのではないでしょうか?鈍くなければ生きられない社会に適応するためかもしれませんね。
「団地が降ってくる夢」とは!
人間の耳や鼻、目が退化していることは、私も思います。毎日の通勤電車では、感覚を鈍くしなければ到底耐えられませんもの。順応というのはいびつになることかもしれません。
My passport name is I. K.
Danke shoen!
p.s.
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