わが妻に永き青春桜餅
沢木 欣一
さくさく、ふわふわ、もちもち、ぱりぱり、ほくほく……。いろいろなおいしさがあるけれど、ことお菓子に関しては、私は「もちもち」派である。羽二重餅、安倍川餅、柚子餅などのほか、くるみゆべし、すあまも、このグループに入る。
福岡出身の私にとって、桜餅も「もちもち」メンバーの筆頭だったのだが、東京へ来て驚いた。「これは桜餅じゃない!」。こしあんをクレープのような小麦粉の皮で包んだのが、東京の桜餅という。「だけど、もちもちしていないじゃない……」。粒あんを道明寺粉を蒸したものでくるんだ、わが桜餅は、「道明寺」と何やらしんきくさい名前が付けられているのであった。
もちもちした桜餅は西の方、クレープ包みは東の方の桜餅だそうだ。これがどの辺で分かれるのか、やはり関が原というかフォッサマグナのあたりなのか、大いに気になるところだ。
最近、スーパーで両方を同じ数ずつ入れたパックを発見した。東男と京女のようなカップルのために考案されているのかな、などと面白く思った。2タイプの桜餅があることが知られるようになり、東の方のタイプは「長明寺」とも呼ばれるらしい(おあいこである)。
この句の「桜餅」は、どちらのタイプだろう。残念ながら道明寺ではなく、長明寺に軍配が上がるように思う。「わが妻」は、いつまでも少女らしさを失わない夢見がちな女性と読んだ。きれいなもの、愛らしいもの、またロマンティックな小説などが大好きな妻を、作者は時にからかいながらもいとおしく思っているのだろう。「永き青春」は、ほんのりしたピンクのブラウスをまとったような長明寺にこそ相応しい。
☆沢木欣一句集『塩田』(風発行所、1956年)
そこで分けるの!?(爆笑!!)(痙攣)
ご主人の愛情が伝わってくるような歌です。
この奥様、幸せだなあ☆
桜餅は、勿体のうて「お茶」のお呼ばれくらい、敷居の高きところにありまする…。
ですから、桜餅は由利子さんのような葉っぱ巻きの桜餅がしっくりきますなぁ。
最近気がつくことは、野菜に「季語」を感じれなくなってきたこと…(悲)
だからじゃあ無いけど…。私はTanzenの気持ちよさに、季節を感じ始めました…<複雑系>
えっ、私は葉っぱも食べますよ♪
これは家族の影響が大きいのかな?
Lucyさん、
いやいや、フォッサマグナは偉大な存在ですよ、あなた。
もなママさん、
ね。こんなふうに愛されてみたいですよ。
たいていの男は「永き青春」を認めてくれないんだな。
Rommelさん、
梅が枝餅はもちろん、私の好物ですわよ。
あの香ばしい香りがたまらんのです!
もなママさん、
俳句は大好きです!(句集の紹介もしますよ)ただ、今回は桜餅の歌が見つからなかったんです。
お作は、結句が決まってますねぇ。
morijiriさん、
的確なご指摘ありがとうございます。
そうそう、フォッサマグナは地帯ですから、一本の線であるはずがないんですよね。たぶん桜餅の境界もあいまいであろうかと。
でも、長命寺のほうが相聞に似合いそうです。
向島の長命寺餅の老舗には、一時ここに子規が間借りしてて、そこの看板娘と淡い恋におちたという伝説が残ってます。
子規の作品には、「芋坂団子」や「ふぢむら」など和菓子の老舗が実名で登場します。
葉隠れに小さし夏の桜餅 子規
餅菓子は常温でもひんやりしてて、これからの季節はおいしく感じますね。
勉強になりました。
ところで、餅と言えば柏餅というのもありますよね。今回ご案内の東京の方の桜餅に形が似ているような・・・。
私は子供の頃、この両者の違いがわからなかったのです。
で、morijiriさんのコメントにあるように、桜餅は葉っぱごと食べるので、そのつもりで柏餅も葉っぱごと食べてしまったことがあります^^;
どうでも良いことで恐縮ですが、餅について私のとても苦い思い出です<m(__)m>
それから今回のお話の中で、一番興味をもったことですが、
「少女らしさを失わない夢見がちな女性」
う〜ん
そういう方が奥様だったらいいな^^
まあ、すてきな子規の句をありがとうございます。
「餅菓子は常温でもひんやりしてて」なんて、すぐにお菓子屋さんへ何か買いに走りたくなりました!
KobaChanさん、
柏餅も好きです(って、そういう話じゃ…)。
何かの小説で、主人公が皮ごと(葉っぱごと)柏餅を食べている友人に「おい、皮を剥いて食えよ」と言うと、彼はくるりと川の方を向いて食べ続けた、という話がありました。
何でしたっけ。庄野潤三っぽいような気がしますが……。
恋も食べものも楽しまなくては。
ご指摘の通り、「平明な文章」は私にとって最高級の褒め言葉です。
でも、先日、ある人に「いやー、あなたの文章は読みやすい。いい文章、書こうと思ってないでしょ」と言われ、「むむ…」と思ってしまいました。
そのある人の「いい文章」の定義は違いますね。カッコつけて「いい文章」のつもりなんだろうけれど、中身が何にも伝わらない(or中身がない)文章が氾濫しているのは嘆かわしい限りです。
読み手(相手)に想いが届いてこそ表現。これは散文も韻文も同じでは? 40年ほど前に文筆業の手ほどきを受けた人間の、古い思想なのかな?
「散文も韻文も同じ」というご意見に、とても賛成です!
人に伝わる詩歌と文章を目指したいです。
東京に出てきて(同じころかも…笑)長明寺系桜餅を見てニセモノやん、と思ったのですが、どうやら起源は長明寺のようで…
今日もいただきましたが、雨でも春を感じます。