2009年04月24日

苺、馬、鬱…

KICX1759.JPG

  母の字に草を生やして真赤なる春の苺は母の香のする
                        齋藤 哲子


 「苺」という漢字の中に「母」があることを興味深く思ってつくられた機知の歌である。
 歌というものはいろいろな楽しみ方があって、切なくなるような共感を覚えるのもいいし、言葉だけで構築された世界のイメージを楽しんだり、言葉の響きそのものを面白がったりするのもいい。そして、自分でも作ってみたいのに作れないのが、漢字を素材にした歌である。

  <馬>といふ漢字を習ひみづからの馬に与ふるよんほんの脚
                      大口 玲子

  人あまた乗り合ふ夕べのエレヴェーター桝目の中の鬱の字
  ほどに                香川 ヒサ


 「馬」の字の歌は、作者が日本語教師として外国人に漢字を教えている場面である。初めて漢字を教わった感激なんて、たいていの場合は忘れてしまうのだが、この作者は四つの点を打ちながら「あらま、これって四本の脚だわ」と嬉しくなっているようで、読む方も楽しくなる。「鬱」の字の歌は、ぎゅう詰めのエレベーターの様子がまざまざと浮かぶ。正方形の床の上のエレベーターだから「桝目の中」とぴったりなのであり、長方形の電車の車両だと「桝目」にならないのだ。どちらも本当にうまい。
 短歌をつくっていると、時々「作中の人物=私」のように思われてうんざりする。自分を戯画化して「職場で空回りしているカワイソーな中年女性像」を描いてみたのに、「松村さんって、こんな人なんだ」と思われたりするのだから困ってしまう。短歌における「私」の問題というのは、実に厄介だ。
 もう金輪際、紛らわしい人物が出てくる歌なんぞ作らず、こんなふうな楽しい機知の歌に徹しようかと思ったりもする。どんな歌をつくっても、そこには必ず「私」が表れるものだから、それを否定しようとは思わないが、何だか息苦しいときもある。

☆齋藤哲子歌集『花とヒマラヤ』(本阿弥書店、2009年2月)

posted by まつむらゆりこ at 00:34| Comment(11) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
松村さん、こんにちは。

母に草かんむりで苺、というのに気がついたとき(母になってからのこと)、ああそっかぁと深く反省したことを思い出しました。

・夢はなぜ草かんむりかと春先に母を亡くせし少女に問はる
    (木村輝子『なづな鳴る』)

いま、思い出した歌です。
Posted by 藤田千鶴 at 2009年04月24日 08:01
「いちごの中に母がある」って、素敵ですね♪

いつか娘たちがいちご酒を飲むたび私を思い出してくれる日がくるかしら…?(ん?なぜジャムじゃなくて酒…?)
Posted by もなママ at 2009年04月24日 08:36
私は以前「どろどろともつれあう恋愛小説を書いてみたいけど、自分のことと思われたらやだな」と言ったら、「だれも思わないから心配するな」と言われました。
Posted by Lucy at 2009年04月24日 08:38
藤田千鶴さん、
ああ、本当になぜ「夢」は草かんむりなんでしょう。風にそよぐ、はかない草花のようなものなのかもしれませんね。

もなママさん、
お手製のいちご酒、すてきなママですね!
「赤毛のアン」を思い出します。

Lucyさん、
いただいたコメントを読んで、元気になりました。
「どろどろともつれあう恋愛」の歌に挑戦だ!!
Posted by まつむらゆりこ at 2009年04月24日 09:23
苺を食すにはコンデンスミルク(練乳)が付き物だと思っていました。所帯をもつまでは。我が母はそうして苺を出してくれました。ところが相方と同居を始めた当初彼女は砂糖だけをまぶして出したので、「コンデンスミルクは?」と言ったところそこに牛乳を注ぎました。それは違うだろう。そして、「粒が小さくて余り甘くない苺にはコンデンスミルクもわかるけどね」と言うのです。カチンときましたね。
そもそも私は苺をつぶして全体をドロドロにして食しますが、彼女は丸ごと食べます。
今でも私はコンデンスミルク無しには苺を食しません。当然、イボイボがついて底が少し持ち上がったスプーンは必須です。
文化の違いは恐ろしいものです。
Posted by マコトニイチャン at 2009年04月24日 12:47
マコトニイチャンさん、
コンデンスミルクと苺は、黄金のコンビです!(でも、バターを塗ったトーストにコンデンスミルクをうねうねかけるのも、禁断のおいしさですよ)
自分の好きな食べ方を通す、これこそ人生の大いなる楽しみですね。
Posted by まつむらゆりこ at 2009年04月24日 15:15
馬の話は、とても共感するものがありますね。
特に、若者や子供にモノを伝えるときに、自分の脳にしまっている「堅苦しい語彙」を砕いて、話す作業ですからね…。

でも、このような仕事をよくやっている「先生族」は、どうやって社会と同調していくのだろうか?また、出来ているのだろうか?と最近想う。

たぶん、「バランス」という普遍的な職業観がそうさせているのでしょうね。あっ、それと「光」が必要なんでしょうね!
Posted by ErwinRommel at 2009年04月24日 22:45
「苺」の中の「母」、「馬」「鬱」漢字って
なにか一種の象形文字みたいですね。
私が面白いと思ってる漢字は「囚」です。
いかにも、塀の中、檻の中、という感じがします。
英仏などでは「囚」の状態をユーモアを込めて「国家の賓客」というそうです。
「囚」も「国」もかまえが同じというのがまた面白いです。
Posted by SEMIMARU at 2009年04月25日 19:42
交響曲と翻訳したのは森鴎外(Wikipedia)、最近知りました。
『交』の字は、人と人(逆さ)のまじりあい、亠部は鍋蓋に綴じ蓋
『響』の字は、故「郷」(心)と「音」の二階建てバス
『曲』の字は、升目はドレミのおもちゃ箱、二本のひげは半音たち
人の心と心が交じりあう曲、それがシンフォニー(交響曲)。
(半可通でした)
Posted by ひろし at 2009年04月26日 13:46
こんにちは。
「苺」からの話題もいろいろですね^^
というのも、今回のお話しを拝見して、以前もこちらで「苺」をテーマにした歌をご案内いただいたことを思い出しました。
そうしたら、ちょうど一年前だったのですね^^
その時にご案内いただいた歌は

 早春の野のやさしさの染みとほる朝の苺はミルクに浮かす

苺とミルクから、春の風景を思い浮かべるといった趣旨のお話だったと思います。
しかし、今回のテーマはどちらかというと、その全く反対の方向を、しかも「私」に向けれていますね。もっとも、お馬さんと鬱の話題も入っていますが・・・。
「苺」つながりのお話でも、その違いがとても味わい深いと、そんなことを感じました。

そして、作品に「私」が入るということ。短歌に限らず、そういうものなんだろうなぁと、しみじみと感じています。
Posted by KobaChan at 2009年04月26日 19:08
土、日と仕事で留守にしておりました!
たくさんのコメントありがとうございます。

Rommelさん、
教えるというのは、「堅苦しい語彙」ではなくて、やっぱり気持ちが大事なのでは?

SEMIMARUさん、
本当に「囚」って、息苦しくなるような漢字ですね! 私は羊の大きいのが「美」というのが、中国の人の価値観を思わせて面白いです。

ひろしさん、
「交響曲」って、素晴らしいネーミングですね。鴎外はすごいです。円舞曲とか夜想曲とか、日本語の響きと漢字もいいものです。

KobaChanさん、
去年の苺の歌を思い出してくださって、とても嬉しいです。
ずっと愛読していただくしあわせをしみじみと思います。よい歌を紹介していかなければ!
Posted by まつむらゆりこ at 2009年04月27日 10:05
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