薄氷裸足で踏んでお互いに傷つくことがしたかったのだ
野口あや子
昔の恋を思い出すと、何とまあ残酷なことをしてきたのだろう、と自分にあきれてしまう。あんなことを言わなければよかった、一体どうしてあんな仕打ちができたのだろう……と他人の過去を顧みるような思いを味わうのだが、それが若さというものかもしれない。
この歌を読むと、遠い恋をまざまざと思い出す。ガラスの破片のような「薄氷」を、若い男女が「裸足で」踏みしだいている光景が目に浮かぶ。痛くて、冷たい。そんなことをしなければよいのに、とことん痛さと冷たさを味わうように、二人は自虐的に踏み続ける。その姿はリアルではなく、ぼんやりと霞がかかった裸身のダフニスとクロエのようなイメージである。
かすかな狂気を帯びたようなその二人は、「お互いに傷つくことがしたかったのだ」。これこそ、恋の本質ではないだろうか。生きている実感を確かめるために、自分も相手も傷つけてしまう。それは案外、人間が一人前になるうえで必要なプロセスなのかもしれない。
数日前に友人と話していて、若い後輩が「もう心が折れそうなんです」と弱音を吐くことが話題になった。「若いうちに折ってた方がいいよね。骨折と同じで、年取って折っちゃうとたいへんなんだから」と友人は言う。その話を聞きながら、この歌を思い出していた。
「心が折れる」という表現は最近流行している言い方で、「傷つく」よりも決定的なダメージを受けたという感じがする。でも、若いときは、傷ついたり折れたり、を繰り返しても大丈夫なのではないかしらと思う。そして誰もが、意図しなくても他人を傷つけているのだ。たくさん傷つくことで得るものがきっとある。
あのとき、あんなに傷つけた人は、今どうしているだろうか。取り返しのつかないことを重ねて今があることを深々と思う。
☆野口あや子歌集『くびすじの欠片』(短歌研究社、2009年3月)
「心が折れる」・・・そんな経験をした一人です。
若いうちに心が折れると強くなれるのかな?
骨折も、できることなら、
若いうちも年をとってからも、
経験しないことに越したことはしりません。
「心が折れる」という経験も、それと同じではないかと思います。
恋は「傷つく」ということを学ぶための、
大切な場になるかのかもしれません。
ただ、それでも「心が折れる」ということは、
経験しない方が良いと私は考えます。
「心が折れる」という経験を通して
学べることも確かにたくさんありますが、
その割には代償が大きすぎると思います。
「心が折れる」と、生きていることに意味を感じなくなります。
そして、生きているという感覚さえなくなってしまうので、
本当に怖いです。
それならば、できるだけ穏やかに、無難に生きられる方が
よっぽど幸せなのではないかと、私は考えます^^
多少傷つくことはあったにせよ、
擦り傷、切り傷程度におさえた方が良いでしょう^^
やっぱり、心は折らない方が良いと思います。
私もずいぶんとたくさんの人を傷つけました。
(恋だけではありませんが・・・)
そのために、年齢を重ねてからその報いとして、
心が折れたのだと思っています。
そういう自戒の思いもあり、
やはり若い世代には、穏やかになることを
薦めたいと思っています^^
ものの喩えのもうひつの例として「磨く」を考えるとき、ざらざらしたものをやすりなどで磨くと、つるつるになります。しかし、やすりをかけて磨くということは「あまたの傷をつけること」ともいえます。
人生の過程で人はあまたの傷を負います。そんなとき、歯を食いしばって立ち直ろうとする人と逆に刀折れ、矢尽きてしまう人がいます。体力、気力、柔軟性がある若いうちならば立ち直る力は勝るかもしれません。また考えようによっては「傷つく」ということは「今、自分を磨いている途中である」とするならば、前向きになれます。
松村さんがおっしゃる「たくさん傷つくことで得るものがきっとある」にうなずきながら、来し方の傷をふりかえってこの歌を鑑賞いたしました。
うーん。できれば経験しないほうが幸せ、という経験もあるので、それは何とも言えません。
KobaChanさん、
書いてくださったコメントを読み、「やっぱり折れるまで頑張ってはいけない! そして、折れるほどのダメージを受けないように防御することも大事だな」と思いました。流行の表現、ということで、ちょっと「折れる」に対して冷たかったかもしれません!
ろこさん、
「磨く」と「傷つく」を結びつけてくださったこと、自分では思いつきませんでしたので、とても嬉しいです。傷つき過ぎて折れてしまっては、元も子もないんだろうと、少しまた考えを改めております。
皆さんがいろいろ書いてくださると、一首や一つのことばへの思いが深まります。
大人になっていく過程で、その経験が、プラスになるのかマイナスになるのか、あえて言えばそれは結果論だと思います。
傷つけられたり、人を傷つけたことの悔悟から、人に優しくなる人もいれば、そうでない人もいます。酷なようだけど、その結果を負って、個々人はその長い人生を生きていくのではないでしょうか。
心が「傷つく」「折れる」と表現するのは楽である。
老いも、若きも、生きることの一つは、「傷つく」「折れる」を超える言葉を探し、その言葉を切磋琢磨して身につけることかもしれません。
ガラスや刃物では痛いし、傷跡が残るし、破片が体に入ったら病気にもなりそう(うっ、書いててぞっとする…)
でも、「薄氷」って…なんかパリっていう音、聞いてみたくもあるじゃない?
裸足に薄氷…つめたくもあり気持ちよくもあり。
「お互いに…したかった」というからには、そこまでつらい経験ではないのかも、という気もします。若くせつない恋を思い出すのは、痛痒い感触を楽しんでいるような、ある意味、「ふりかえってからの心のゆとり」を感じます。そんな意味でゆりこさんの「恋の本質」「必要なプロセス」という言葉にうなずきながら読んでいましたが…読み間違えていたらごめんなさいmm。
何事もその人自身による、ということ。とても深く受け止めました。
ひろしさん、
そうですね、「傷つけられた!」と言われてしまうと困ってしまうところがあります。本当に傷ついた人は、そんなふうには表明できないものかもしれません。
もなママさん、
「痛痒い感触を楽しんでいる」というのは、この歌を鑑賞するうえで最もぴったりの表現では?
相手を傷つけてしまった、というよりは、あのときの自分は自ら傷つくようなことばかり重ねてしまった、という感慨のように読みました。
私自身も、来ないとわかっている相手を長時間待ったり、見込みのない片思いをだらだら続けたり、裸足で氷を踏みまくるような経験がありました!
〜傷つくことで得るものがきっとある。
「きっと」という謙虚さが好きです♪
っと愛について、考えることが多くなった。
いまの若い人々の表現は「直線的でどっきっと」しますね。「心が折れる」という言葉を聞くと、さも挫折感で立ち直れない状況か?と思うのだが、当の本人の動きを観ていると、翌日はけろっとしている。
直線的な表現というのは、分かり易いと同時に、若かりし日の愛情表現(?)のような、鋭さも秘めている。
今の若人が、年老いたときに、当時のことをどのように表現するか?知りたいですなぁ!
いやいや、ときめきも痛みもまだまだあるかもしれませんよ。
ともあれ、痛みは大事な感覚ですよね!
Rommelさん、
言語感覚は世代によって明らかに違いますものね。でも普遍的な感情もあるし、そこが詩歌を読む面白さです。