悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず
寺山 修司
南島を旅して、マンゴーをたくさん見てきた。この果物は、柑橘類とはまた違った、みっしりとした重みが特徴だ。その中身の詰まった感じの重みは、どこか赤ん坊を思わせる。
甘い果汁を湛えた果実は、どんな種類であっても本当に美しい。けれども、種子を残すためにたくわえられた果汁であり果肉であることを考えると、果実自体が何ともけなげで悲しい存在に思えてくる。
寺山修司の作品は、短歌を作り始める前からよく読んでいた。あざとさが鼻につく歌もあるけれど、やっぱり好きな歌人である。寺山の歌は着想が豊かで、あまりこねくり回していないところがいい。
この歌は、「悲しみは一つの果実」という二句目まででもう出来上がっているようなものだ。三句目、四句目で淡々と情景説明をして、結句で「手渡しもせず」と着地を決めてみせるところが憎い。こういうのは、なかなか真似のできない巧さである。
中城ふみ子の「悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ」も思い出す。汗ばんだ小さな子は、果実そのもののようだ。抱いた子が寝入ってしまうと、どっと重たさが増すこともなつかしい。
寺山は青森出身だから、この「果実」は林檎のイメージかもしれない。しかし、林檎だと硬質な感じで、「熟れつつ」という語があまり効いてこないような気がする。果皮がやわらかく傷つきやすいマンゴーを、この歌で想像してみても面白いと思う。
☆寺山修司歌集『血と麦』(1962年、白玉書房)
赤ん坊、にはまいったな。
ただ重力と化した、重みだけが残りました。
うーん、ちょっと異常な連想でしたか??
でも、マンゴーって赤ちゃんっぽいですよ。
はなみずきさん、
しゃぼん玉の歌を思い出してくださってありがとうございます。
人それぞれに悲しみがあることをじんわりと思います。
私の個人的な体験であるが、過日(神戸風のごろ合わせのつもり)敬愛する友をAMIによる、ほぼ即死状態で、天に送る業に立ち会った。
昔は、赤の他人が相手であったので、年間何人も目の前でなくなっても、「最低限の自己抑制の儀式」をしてさえいれば、帰宅しても何とか心をリフレッシュできていた。
が、今回は流石にお通夜(彼はクリスチャンであったので棺前祈祷会)では、涙と鼻水を垂らしながら、唄った。
が、翌日の葬儀では、それこそ「おくりびと」と一緒に、まるでSecret Serviceのようないでたちで、交通整理に当たることが出来た。
最後には、そのプロ集団に、「手際が良いですね!」っと茶化されて(?)、前職の「最低限の自己抑制の儀式」を取っ払って当たったことが、その彼の発言にも表れたのだと、勝手に思った次第である。
いずれにせよ、私たちは死に向かってこの世を歓びをもって歩まされているということを、この一句から想起されるのである。
私にとって、名句の一つかもしれない。
食用果実系?が好きだったのでしょうか。
それとも「果実」「種子」ということで母子関係を隠喩してるのでしょうか、寺山は12歳で母親と別れて住んで、大人になるまで同居しなかったことをあわせて考えると、歌に深みを感じます。
身近な人の死に遭うと、本当に生は悲しみに満ちているのだと痛感しますね。
けれども、だからこそ美しいのだと思います。
SEMIMARUさん、
あっ、ほんとですね!
「悲しみは一つの果実」は「桃」だったかもしれないと思いました。
母子関係を考えるかどうかは、好みでしょうか。私は敢えて考えないで味わいたいです。
ほんとに、脱帽しているんだから。
両腕に残る感触が蘇えりました。
存在自体がけなげで悲しい…
守るべき実のまわりは、ときに恐ろしいほど苦かったりして。
でも、その分、はかなくあまくうつくしいんでしょうか。
両腕の感覚を蘇らせてくださったとのこと、嬉しいです。
Lucyさん、
なるほど、女性=果実。
美しいイメージです!