俺はいわゆる木ではないぞと言い張れる一本があり森が
ざわめく 渡辺 松男
植物の生命力は素晴らしい。トウモロコシの遺伝子を研究してノーベル賞を受賞したバーバラ・マクリントックは、非常に注意深く植物を観察し、動物とは異なる活動性に満ちていることを実感していた人だ。彼女は分子生物学が脚光を浴びた時代、若い研究者たちに、DNAの配列ばかりでなく、植物自体の姿をよく見るよう勧めたという。
私たちはつい、植物をじっと動かぬ、変化に乏しいものだと考えがちだ。しかしマクリントックは、葉をちぎったり茎や幹に触れたりすれば、それは電気パルスを発生させることになるのであり、植物は自分を取りまく環境に対してさまざまな反応を示すのだと指摘している。
この歌の作者は、「樹木の歌人」とも言うべき人だ。マクリントックと同じように木々を愛し、樹木をつぶさに見てきたことが歌から感じとれる。木の一本一本に個性があり、「俺はいわゆる木ではない」なんて言い張る妙なやつもいること、また不穏な森のざわめきを、この作者はちゃんと知っているのだ。
一本の樹が瞑想を開始して倒さるるまで立ちておりたり
瞑想中のわたしは歩く木とともに動かぬくらいゆっくりあるく
木よおまえ逃げろよ電飾などされて見ていてもはずかしき明滅
もう、自分が木なのか、木が自分なのか、わからないような歌の数々である。この作者が「木」という言葉を用いるときのイメージの豊かさに比べれば、自分は何とも貧しい経験しかなく、ぼんやりとしか木を捉えていない。幹の太さや木立の高さ、葉擦れの音などを実感できなければ、木の歌なんて作れないだろうな、と思う。もっともっと、謙虚にいろいろなものを見つめなければ。
☆渡辺松男歌集『寒気氾濫』(1997年12月、本阿弥書店)
ファンタジーの中にも木はよく登場人物として現れますよね。ナルニア物語で木が動き出すシーン、迫力あったなあ!
ナルニアのあのシーン、私もよく覚えています!
いろいろなファンタジーで、木は大事な役割を果たしていますよね。生まれ変わって木になるのもいいな、なんて思います。
山を歩くとき、植樹林と自然林の違いを感じるとき、自然林の偉大さ!を感じる。
各々の宗教観にも依るであろうが、シャーマニズムのようなモノを感じることがある。
樹皮を観察するだけでも、植樹の木と「自然に生えている」樹は、大きく異なる。
端的に違いを述べれば、自然の荒波をどれぐらい潜ってきたか?という違いであろう。樹皮の厚味等にも見て取れる。
人間に置き換えると、「木を見て森を見ず」ではなく、大自然(あるいは各々の信ずる信念や神)を観て、今の「与えられている業」を歩まされているという自覚が大切なのではないだろうか?
樹木への熱い思いに感じ入ります。
渡辺松男さんの歌集はお薦めですよ!
何かで読んだのですが、木にも感情があって、「大きくなあれ」と呼びかけながら水をやった木は本当に他の木より大きくなったそうです。
神々しいものを感じさせる木って、確かにありますね。植物には、まだまだ解明されていないことが、きっとたくさんあるに違いないと思います。
以来、樹木を見上げる度に、あなたはどんな辛い人生を背負っていたのですか、と問いかけていました。
でも、本解説にふれ少し思いが変わってきました☆
悲しくて怖いお話ですね。
人と木はそれほど違わない存在、ということなのかな、と思いました。