あおむけに水に浮くときひっそりと背中のまなこ開(あ)くと思えり
梅内美華子
今年の夏はあまり泳がなかった。もちろん室内プールで泳ぐことがほとんどだから季節は関係ないが、やっぱり夏は何となく水が恋しくなる。オリンピックや世界水泳が開催されている時期は公営プールも活況を呈し、誰もがちょっと張り切った表情で泳いでいるのがおかしい。
私は下手なりにまあまあ距離は泳げるのだが、実は背泳ぎだけはできない。いつか空を見ながらゆったりと水面を漂いたいものだと思いつつ、チャレンジすることなく今まできてしまった。入江陵介選手の美しいフォームを見ていると、何て優美な泳法なのだろうとうっとりしてしまう。
背泳ぎに憧れつつ何だか怖いのは、「あおむけ」という姿勢かもしれない。水の底から何か得体の知れないものが近づいてきやしないだろうか、あるいは……。この歌は、自分が「背中のまなこ」を持っていることをさらりと詠っているところが怖い。ふだんの自分が強いて見ようとしないものを、この「背中のまなこ」は、ひそやかに見開いて凝視するのだろうか。作者は、何か世界になじめず、自分を異形のもののように感じる繊細な人ではないかと思う。この人には、こんな歌もある。
魚のくず積まれし店裏過ぎてより体中の目の開く感じす
込み合う通勤電車のなかでは、常に感覚をシャットダウンしていたことを思い出す。目も耳も鼻も触覚もすべて閉じ、何も感じないかのようにふるまっていた。たぶん多くの人が、文庫本や携帯音楽機器などの助けも借り、同じようにして苦痛に耐えているに違いない。。
ひっそりと背中のまなこが開くとき、何が見えるのだろうか。
☆梅内美華子歌集『火太郎』(2003年12月、雁書館)
冒頭の歌は、背泳ぎという姿勢の一種不安な感情がよくわかります。やはり室内で立つ時にも壁を背にしたくなります。
子供のころ、息継ぎが上手くできなくて、なかなか水泳が好きになれませでした。しかし、背泳は息継ぎの必要がないので、私としては最も得意な泳ぎだったような気がします。
しかし、今から思うと、水の中で仰向けになって、ただもがいていただけだったかもしれません。
残念ながら、そういう状況の中では、「背中のまなこ」や「水の底から何か得体の知れないもの」を感じることはできませんでした。水の中にあっても、そういうことを感じたり、考えたりする心の余裕(ゆとり)が欲しいものです^^
指先に目があるような繊細な感覚の人もいますね!
あおむけが怖いわけではないでしょうが、私は寝るときもうつぶせです。
KobaChanさん、
おお、背泳ぎが一番得意だったとは!
素敵です。
泳ぐときだけでなく、何かが見えるときというのは、心の余裕があるときなんでしょうね。
それと、個人的には、「地獄先生ぬ〜べ〜」に出てくる「百々目鬼」という妖怪を思い出しました。
実は、古典の文献にもある妖怪で、盗みを働いた女が、そのやましい気持ちから、体中に目が増えて妖怪化した、というものですが、それをふまえているとは断言できないですよね。
しかし僕は、梅内さんの歌に、マイナスなコメントばかりしているようで、なんだか申し訳ない感じです。
面白い妖怪の話、ありがとうございました。仮に作者がその妖怪の話を知っていたとしても、歌の魅力は何ら変わらないと思いますし、「マイナスなコメント」とも思いません。ご安心を!
私は乱視のせいか、暗いところに行くと鳥目のように何も見えなくなってしまうんですけど、見えないくらいでちょうどいいと思うことも。
…でも、そういう時にかぎって余計なものが見えちゃうんだなあ。。。
「見えないくらいでちょうどいい」というのもなかなかに深いですね。結婚するときは片目をつぶるとか両目をつぶるとか、っていうアドバイス(?)もありましたよね!