2009年09月25日

浦河奈々さんの歌集

『マトリョーシカ』

KICX2505.JPG

 誰もが何かしら不安や所在なさといったものを抱えつつ、それに気づかぬふりをして日々をやり過ごしている。けれども、この歌集の作者はじっと凝視する。なかなかできないことである。

  白孔雀も月下美人も生きるとは展くことなり吾はくるしゑ
  ああマトリョーシカ開ければ無上なる怖さ 人より出でてまた人
  となる

 美しい羽を広げる白孔雀や見事な花を開く月下美人を眺めていると、「展くこと」を強いられるようだと作者は感じる。心をひらくことは、コンディションによっては本当に苦しくてつらい。じいっと閉じこもること、自分を守るにはそれが一番なのに、ひらかなければならないのだろうか……。
 そんな作者は、ロシアの入れ子人形マトリョーシカに恐怖感を抱く。開けても開けても、そこから「人」が出てくるとは、何て怖いのだろう。下の句は、分娩を連想させる。人が人を産む――それは、太古から繰り返されてきた営みであるが、作者からは遠い。

  成熟したる個体は卵もつといふこの世の一番ちひさな魚も
  わたくしの芯に湧きくる濃き痛み 母なる雉と卵おもへば
  母性とふ地下水脈のみつからぬ身体にまぼろしのリュート抱き
  しむ
  どうぶつは飼はない。天井に届くほど巨きくなつた植物と棲む

 歌集には、母になることのない欠損感、痛みが繰り返し詠われる。一首目には、メダカのような小さな小さな魚であっても成体は卵をもつのに、いまだ産んでいない私は成熟しているといえるのだろうか、という疑問が込められているようだ。二首目では、抱卵の季節に見かけたキジに胸が疼く作者である。三首目を読み、私はフェルメールの絵を思い出した。リュートという優美な古楽器は、母性の代わりに作者が見つけた詩歌の喩だろうか。「抱く」ではなく「抱きしむ」というのが哀切だ。
 四首目の詠いぶりは、前の三首とだいぶ異なる。動物を飼うくらいなら、巨大化した植物と暮らすのがいい、という強がりが詠われているのだ。具体的な植物名がないこと、また「天井に届くほど」という誇張から、宣言にも似たこの一首に奇妙なテイストを感じる。ここに見える作者特有の太い芯こそ、彼女の真価である。

  明日の米研ぎをるわれの指は今、田んぼのどぢやうのやうに生
  きをり
  スマトラオホコンニャクの巨きな巨きなスカートよ怨恨すべて吐
  き出したまへ
  腐つたおのれ肥やしにすれば後半生生きのびられるか山毛欅
  (ぶな)よ教へて

 大きな不安や怯えを抱えながらも、この作者は自らの醜い部分と向き合う強さを持っている。ひどく繊細な感覚を持て余しつつ、何かぬめぬめした「どぢやう」のような自分、また、「怨恨」のような感情や「腐つたおのれ」をもひたと見つめる強さに、圧倒される思いである。

  猫柳そろりとコップに根を出しぬ なんぼなんでもここでは死ね
  んわ
  ほんたうに良いといはるる花みればふしぎなれども自己主張なし
  ごみ出しは象のこころにどすどすと行くべし(自分を捨てないや
  うに)

 居直ったような猫柳のせりふは、作者自身の声と重なるのだろう。可笑しみにあふれていながら凄味がある。誰にでも好まれる花の面白みのなさを述べたり、ネズミのようにおどおどしているくせに「象のこころにどすどすと」歩いたりする作者の心の計りがたさ。この人は本当に面白い。詠う対象との距離や向き合い方が実に独特だ。繊くて弱々しい葉をそよがせながら、地に根をみっしりと張り巡らせる植物のような勁さ、といえばよいだろうか。読んでいると心を揺さぶられ、泣きたいような笑いたいような、何ともいえない気持ちになってしまう歌集である。

 ☆浦河奈々歌集『マトリョーシカ』(短歌研究社・2009年9月、2625円)


posted by まつむらゆりこ at 04:57| Comment(11) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あら、私のようなものにまで下さって・・・と思って奥付を見たら勤め先のすぐ近くにお住まいでした。ぼちぼち読ませていただいています。
Posted by morijiri at 2009年09月25日 08:31
すごいですね。

「抱きしむ」とは、痛切、ではないのでしょうか。

ともあれ、吹き上げる息吹を浴びる思いです。
Posted by ジュンジ at 2009年09月25日 08:41
morijiriさん、
とても素晴らしい歌集です。私も再読しているところです。

ジュンジさん、
もちろん「痛切」なので、読む者はその様子をいとおしく、かわいそうに感じるのだと思います。この歌に深く共感してくださって、とても嬉しいです。
Posted by まつむらゆりこ at 2009年09月25日 09:14
この歌集(少なくとも今ブログで選ばれたモノだけでも)は、女性の痛み、悲しみ、そして表現しづらい生のはかなさを、如実に語ってくれている。男性の私には、このような深遠な、生物学的なことから来る女性心理を受け止めるには、生を飛び越える広い心が必要なのではないかと、考えさせられてしまった。併せて、私自身の今までの経験と知識で女性と接していたことが、恥ずかしくなった。医学や自然科学ではなく、「生物学的心理(私の造語)」が底辺には流れているのだなぁとおもった。感謝
Posted by ErwinRommel at 2009年09月26日 08:56
Rommelさん、
この作者の悲しみが、すべて生物学的なところから来ているかどうかは分かりません。生の根源を問う勁さもあると感じますし、男性も男性にしか知り得ない深遠な痛みを抱えているのではないかなあと思います。
Posted by まつむらゆりこ at 2009年09月26日 14:13
子どものとき、母がプレゼントをくれました。
千代紙の柄の素敵な六角形の箱をあけてみると、中には別の柄の六角形の箱がすっぽりと。その箱の中にもまた…。
中身はなんだろうと首をかしげながら開け続け、箱はどんどん小さくなり「プレゼントはきっと指輪だ!」と思っていたら、最後の箱は空っぽでした。
大笑いした家族。その中で涙をこらえていた私。

マトリョーシカがこわいと思ったことはありませんが、あの人形を見ると、いつも六角形の箱のことを思い出します。
そして、さいごの空っぽの人形が、なんだかかわいそうになるのです。

Posted by もなママ at 2009年09月28日 17:39
もなママさん、
しんみりするエピソードですね。千代紙の箱とマトリョーシカが重なるって、とってもいいです。箱だけもらっても…という小さな女の子のお話を、私も今度マトリョーシカを見たときに思い出すことでしょう。
Posted by まつむらゆりこ at 2009年09月29日 10:16
社会人駆け出しのころ、マトリョーシカをロシアみやげでいただいたことがあります。
最後の箱に何が残っているか、何を残すかが生きるテーマであるということを教えていただいたような気がします。
Posted by ひろし at 2009年09月30日 22:30
ひろしさん、
私もマトリョーシカ持っています!
自分の「最後の箱」がひょいと出てくる瞬間を思うと、どきどきします。
Posted by まつむらゆりこ at 2009年09月30日 23:23
松村由利子さま
このたびは「マトリョーシカ」をご紹介いただきまことにありがとうございました。
ブログを読ませていただこうとして、みつけました。大変恐縮しております。どうもありがとうございました。
Posted by 浦河奈々 at 2009年10月09日 00:32
浦河さん!
歌集のご出版、本当におめでとうございます。これからも私たちを楽しませ揺さぶる歌を存分につくってくださいね。
Posted by まつむらゆりこ at 2009年10月09日 09:03
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