
テキストの向こうにいつもすけている普通の女という仮想敵
小川佳世子
「仮想敵」とは、また穏やかではない。しかし、気持ちはわかる。
「普通はもう結婚してもいいトシじゃないの?」「普通だったら、夫と子どもの2人くらいいる頃だよね〜」……ええい! 普通とは一体どこの、誰みたいな女なのだ。
先日、『国語教科書の中の「日本」』(石原千秋著、ちくま新書)を読んでいて、のけぞってしまった。小学六年生の教科書に、重松清の『カレーライス』という作品が掲載されたというくだりで、著者は「どうやら物語の少年は一人っ子のようだし、働く母親の家庭という設定も画期的とさえ言えるのではないだろうか。これまでの教材は、両親に子供二人という「標準家庭」を前提としたものばかりだったからである」と称賛するのだ。「はぁ?」という感じである。
母親の留守に「ぼく」が父親といっしょにカレーを作るという、その話について、著者はなおも「小学国語教科書にこういう現代物を採録するのにはそれなりの勇気が要ることだろうことは想像できる。さまざまな家庭があって、その違いに触れてしまうのは小学生にはまだきついという事情もある。その意味で、専業主婦率が五割を切ったいま、共働き家庭の物語で正解だった」と高く評価している。
この歌の「テキスト」は、たぶんさまざまな文書や作品を指しているのだが、図らずも実際の小学校のテキストの実態を知って驚いてしまった。教科書には「普通のおかあさん」が、「いつもすけている」どころか、恐ろしくはっきりと打ち出されているのだ。『カレーライス』の内容くらいで感心されているようでは、小学校の教科書に単親家庭が登場するのは、まだまだ先のことに思える。
いろいろな家庭があって、けっして「普通」の家庭、「普通」の子なんていうものはないのだということを知るのは、子どもにとって大事なことだと思うのだけれど。「あなたはあなた。たった一人の存在」ということと、「家族の在り方もいろいろ」というのは、あまり隔たっていないと思う。
☆小川佳世子歌集『水が見ていた』(2007年3月、ながらみ書房)
本当にそうですね。でも、小学生くらいの子が読む本には、とっくに働くお母さんも、シングルマザーやシングルファーザーも、自然な形で登場していますから、教科書が一番遅れているのでしょう。
でも、オトコの立場から云えば、「普通の女」とは、一言で云えば「私個人の人格を尊重してください!」という強いメッセージを感じる。オトコにとっては非常にやっかいな感情である。あるときは、夫婦間であれば、妻から夫への小言も、「言いがかり」に殆ど聞こえるときがある。
まあ、脳の作りが違うので、仕方ないと悟ったですけどね…。
永遠のテーマですね!
世相に少し遅れているくらいが、私は良いと思う。
理由は、世界が民族包括の教科書(例えば、聖書とかコーランなど)を使って、言葉や人生を教えるような高度教育をしない限り、国単位の教科書のあり方は、多少保守的な位が良いような気がする。
あとは、各都道府県レベルで複数の出版社の中で自分の地方自治体があるべきスタイルにあった文系教科書を選んで、現場の先生が運用すれば?と思うのだが…。ただ、PTAのあり方は、柔軟にした方がよいとは思う。
「私個人の人格を尊重してください!」というメッセージだという読みは、合っていると思います。教科書のあり方については、うーん、「世相に少し遅れている」「多少保守的」という域からも、かなり後退したところにあるように私は感じます。
すごくおもしろい、この歌。
「フツウの女」…
女はいつもこいつと戦っているのよね。
でも、その戦い方もいろいろよ。女は「フツウじゃなくて何が悪いの!?」と戦っているだけじゃないもの。
「ふん、あたしはフツウの女なんかじゃないからね!」というプライドと…
「あ、でも、フツウの女の幸せも欲しい」という気持ちと…
「ただのフツウの女って思われるの、やだな」っていう見栄と…
「フツウじゃない、って思われるのもいやだし…」
。。。
仮想敵って、外にも内にもいるのよね。女って厄介。
でも、女に生まれてよかったな〜。
現実の敵しか見えないフツウのオトコって、つまんなそうだも〜ん♪
おお、万全な読みをしてくださって、ありがとうございます。そうです、作者は「普通」に対するもろもろの思いを味わいつつ、何者かと戦っているのだと思います。
そういえば、減税などの例になる標準家庭は、夫婦に子ども2人で妻は専業主婦となってます。
これも一種の刷り込みでしょうか。
そうですね、昔の絵本に出てくるのも大抵エプロン姿のおかあさんで、おとうさんはあまり出てこなかったり……。でも、子どもの本も教科書も、そして「標準家庭」という概念も、少しずつ変わってゆくのだと思います。
初めてのコメントです^−^
いつも刺激になるトピックですね!
普通とは誰の視点からみたものか?
普通とは共有できそうで、まったく共有できなそうな言葉だなぁと思いました。
さまざまな家族のスタイルがあるなかで、教科書が、置いてきぼりな印象。教科書の位置づけについても考えさせられました。
他者との違い、それぞれの家族のあり方、を分かち合う場が限られている。プライバシーに触れる・・・などと言い、語られない。
なーぜー???
完全な家族・普通の家族なんてどこにもないし、いかに不完全な部分を補っていくのか考えていきたいです☆
「普通の○○」という言葉にのっからず、自分の色をしっかりもち、他の人の色も取り入れていって受容のココロを広げていきたいです☆
お話を本題に戻すと、やはり「標準家庭」というのが良くわかりません。実際、私が知る限りでも、様々な家庭があります。子供の目からみても、友達のうちとは、親の年齢も違えば、職業も違う。じいちゃん、ばあちゃんと同居している家もある。・・・などなど。
現実に、今の時代であっても、一昔、二昔といわれる時代にあっても、どの家庭も同じということはなく、それぞれの家庭にみな、それぞれの事情がありますね。ましてや「標準家庭」という曖昧な定義モドキに、うちはまさに「それ」と思えるような方は少ないのではないかと考えます。
そういう意味では、「普通の女」や「普通の男」も同様ですね。
ご案内の歌は真実をついていますね。一方、国語教科書の中から日本を見たという方には、まずは、現実を直視して、こと個々人の家庭については、簡単に「標準家庭」などというものは有り得ないということを知っていただきたいものだ、と思いました。統計学を否定するようで、申し訳ないけど^^;
普通とは誰の視点から見たものか、という問いかけ、鋭いです!
自分は、自分の視点で物事を見ているか、ということを考えました。
KobaChanさん、
「普通の男」は盲点でした! なるほど「普通の女」があれば「普通の男」があるわけで、男性たちも無理を強いられている部分があるのだと気づかされました。
「普通」だと意識しない部分で当たり前だと思ってしまっていることって、たぶんとても多いのだと省みています。