保育園は寂しかったかあの頃は粘土遊びをせぬ日のなくて
松村由利子
私の子どもは、保育園に通っていた頃、粘土で遊ぶのがひどく好きだった。小さな指でトリケラトプスなどの恐竜を精妙に作り、おとなたちを驚かせた。遊びに熱中するあまり、園児たち全員が日課の散歩に出かけるときも、自分はここで遊んでいると言い張り、一人の先生が彼のためだけに居残ったこともあったそうだ。
あの熱中を思うと、今もすまない気持ちでいっぱいになる。粘土遊びが好きだったことは間違いないが、幼児らしからぬ執着に、彼の抱く深い寂しさが投影されていたような気がしてならない。この歌は「寂しかったか」なんて当たり前すぎることを訊ねていて全くなっていないのだが、私の精一杯の謝罪のことばである。
今週発売の「週刊朝日」(11月13日号)で、小倉千加子さんが連載コラム「お代は見てのお帰りに」に私の歌を引用してくださった。「保育所の13時間保育は本当に必要か」と題された文章で、長時間保育は「企業に配慮した、雇用のための児童福祉政策」であり、こどもたちは疲労困憊している、と鋭く批判した内容だ。「子どもの権利条約」には、子どもたちが「家庭という『私的空間』でくつろいで過ごす必要性と権利」がちゃんと保障されているのだ、と小倉さんは指摘する。
このコラムの最後に、「愛それは閉まる間際の保育所へ腕を広げて駆け出すこころ」が置かれていて、私は嬉しいような泣きたいような気持ちになった。小倉さんが書いた「お友だちに次々に親のお迎えが来て自分が最後の一人になると、どんなこどもも強がって寂しくないふりをする」という、小さな意地っぱりさんこそ、私の息子だった。
長時間保育は、親の長時間労働を意味する。保育行政の充実は大切なことだが、雇用を巡るさまざまな制度の充実や働き方の改善が行われなければ、労働強化につながってしまう。また、それだけでなく、小さな人たちに過重な負担を与え、長きにわたってその子と家庭をじわじわと痛めつけることになる。そのことが国の将来に与える影響は決して小さくないと思う。豊かな時間を親と過ごした子どもは、自分を大切にする心、人への信頼感を持って人生に向かい合える。それは決して目に見えるものではないけれど、生きてゆくうえで最も基本的で大切な装備ではないかと、胸が詰まるように感じつつ考える。
☆『鳥女』(2005年11月、本阿弥書店)
近くに祖父母がいれば頼むことも出来るでしょうが・・・あまりにも保育所自体が抱え込む問題の複雑さが気になります。
同じ1時間でも、おとなにとっての1時間と子どもにとっての1時間って、すごく違いますものね。まるまる12時間なんて、本当に長すぎます!
「子どもの存在の薄さ」を何とかしたいと思うばかりです。
暗くなって、やっと迎えに行った私のもとに息子は決して飛び込むようには、来てくれませんでした。
「はい、お迎えですよ〜 ママ大好きでしょう」
との問いかけに、みんな好きとかたくなに言い続け、うんとは言ってもらえませんでした。
いやいや、過ぎてしまっても胸の痛む思いはそのままで、美しくなんてなりません。取り返しのつかないこともあるのです。
スマイル ママさん、
ああ!泣けますね。「みんなすき」っていう言葉は、「ママなんかきらいだよ!」っていうのを遠慮したんでしょうか。小さい子がそんな婉曲な表現をした心を思うと、たまらない気持ちになります。
働く母親が安心して預けられる施設を整備するのは大切ですが、夜間保育などがあるから長時間労働させる、などというのは本末転倒ではないでしょうか。
仕事を終えたおかあさんが子どもとお家に帰って、一緒にNHKの人形劇をみる、というふうになれたらいいですね。
子供が一人だったときは、保育園に預けて働いていて、お迎えが最後になったこともありました。もはや本人がそのころのことを覚えているかどうか、聞くこともありません。
子供のいない女は子供のいないことを悔やみ、子供のいる女はもっとやさしくしてやればよかったと悔やみます。
女にとって子供はいつまでも悩ましい存在です。
本当に! 子どもがお母さん(お父さんでも)とおうちに帰ってから、一緒に夕方のNHKの人形劇を見るって理想です。
かすみさん、
私も全くおんなじです。小学校に上がるまえの年齢の子どもを見ると、いつだって「ううっ」と熱いものがこみあげてきてしまいます。働くお母さんはみんな同じなんでしょうねえ。
お子様のことは、由利子さんの歌やエッセイ、またこのブログの中でも時々伺うことがあります。
さて、生意気を言って恐縮ですが、もし的外れなコメントになったらお許しください。本文中に書かれているお子様への「謝罪の気持ち」についてです。
やはり私は、由利子さんがこの「謝罪の気持ち」を持つ必要はないと思います。いや、あえて言うなら持ってはいけないと思います。
人それぞれに事情がある中で、長時間保育になったことも、お子様を待たせてしまったことも、全てはお子様のためですよね^^
お子様も寂しい思いをしたかもしれませんが、由利子さんだって辛かったでしょう。しかし、その時はそれがきっと一番の選択だったのではないでしょうか。由利子さんは頑張ったんですよね^^
ただですね、だれもが成長する過程で、何らかの辛さや寂しさなども、それぞれの事情の中で抱えるものだと考えます。
由利子さんとお子様のことは、由利子さんがお子様のために精一杯考えた中での、一番良い形を作ったのだろうと推察します。ですから、由利子さんが「謝罪の気持ち」を表明するよりも、「私なりに精一杯あなたを育てた。」という考え方を持つ方が良いと考えます。きっとその方が、お子様も喜ばれると思います。
お子様ももう大学生・・・お母様の頑張りと気持は、きっとわかっていらっしゃると思います。お子様は由利子さんに感謝しているでしょう。「謝罪」はいらないですよ^^
あたたかなコメント、本当にありがとうございます。はい! 謝罪の気持ちは、当時がんばった小さな息子に対しても失礼ですね。撤回することにします。そして、これから私のできることを考えます。いつも励ましてくださって、感謝するばかりです。
ひろしさん、
おお、またも雑誌を買わせてしまったようで恐縮です。いろいろな気持ちが凝縮された短歌を「31文字のおまじない」と表現してくださったこと、うれしいです。
社会性に富んだいい子たちに育ったと自負しています。少なくとも自分だけが特別だとは思っていないようです。
保育園育ちは保育園育ち同士、「働く親の子ども」として育った者たちの連帯感があるようですよ。
保育士の方々も本当によく育ててくれました。家族だけでなく、たくさんの人たちに愛情を注がれた子どもが、「かわいそう」なはずはないと思っています。
それに、たとえ24時間子どもと抱き合って過ごしたとしても、いつか離れていく分身たちに「育て方にも悔いはないし、いつ別れても悔いはない」と言える親はいないと思うのです。
(と、職場の先輩に言われたことがあります)
親以外のたくさんの人たちにかわいがられて育つというのは、本当にしあわせなことですね。しみじみと保育ママさんや保育園の先生たちのお顔を思い出しました。
morijiriさん、
なるほど「戦友」ですか。一緒に泣いたり笑ったりした仲ですものね。とても納得しました。嬉しいコメントをありがとうございました!
ご無沙汰しています。
いつかの日に、我が子とハンカチのねずみで遊んでいただいたことを懐かしく思い出しました。
息子も幼稚園に通う年齢になりました。
子供の食物アレルギーの関係で、毎日午前保育です。
友達が楽しそうにお弁当を広げている隣で、黙々と帰る仕度をしている我が子を見ると、いつも「ごめんね」という気持ちで胸が一杯になります。
子育てをしていると、嬉しかったり悩んだり、毎日いろいろありますね。
おお、あの坊やがもう幼稚園に!
食べさせられないものがあるというのは、親として本当につらいですよね。少しずつアレルギーが軽くなりますように。