かすかなるものなりければ言葉とはやはらかに花のごと
咲かしめよ 馬場あき子
ある人のブログに、国会図書館で歌集をコピーしようとしたら、章ごとに半分までしか許可されなかったということが批判的に書いてあった。これは著作権法に準じた適用である。通常、刊行後まもない一冊の本をすべてコピーすることは私的使用であっても許されず、運用上、一部(最大限、半分まで)とされることが多いようだが、短歌の場合、一首の半分しかコピーしないというのは、実際問題として不可能、無意味であり、こんな形でのコピー許可となったのだと思われる。
私がこの文章を読んで気になったのは、著作権法の問題点や運用の仕方ではない。「歌集をコピーする」ということの意味である。ブログの作成者は、結局、近所の公立図書館で同じ歌集を借り、コンビニエンスストアで全部コピーすることができたという。「悪いとは思わなかった」と書いている。それを読んで、少し寂しい気持ちになった。
今月21日さいたま市で行われた現代短歌新人賞の授賞式で、永田和宏さんの特別講演「短歌を読むよろこび」を聴いた。その中で永田さんは、学生時代には歌集を買う余裕があまりなく、たくさんの歌集を一冊まるごと書き写したことを話された。そして「そのことによって歌を深く味わうことになり、とてもよかった」と皆に勧められた。
これには本当に共感する。私も学生時代に、祖父の蔵書の与謝野晶子全集から気に入った歌をいくつも書き抜いた。祖父が愛書家で、孫娘であろうと決して本を貸さなかったから仕方なかったという事情が大きいのだが、これがきっかけになったのか好きな歌をよく写す。
いま引っ越しの準備のため、毎日片付けている。数日前、三橋鷹女の句集『魚の鰭』をまるまる一冊書き写したノートが出てきたのには驚いた。「歌集だけじゃなくて、句集まで……」。確か歌をつくるときのヒントにしようと、会社の情報調査部にあった文学全集を借りて写したのであった。
そうしようと思えば夜中にこっそり会社でコピーできなくもなかったが、そんなことは考えなかった。本が傷むし、私は書き写したかったのだ。お金はあったが、時間はない時期だった。でも、書き写す時間を惜しいとは思わなかった。それこそが、自分にとって大事な時間だったのだと思う。
ことばにはリズムや呼吸がこもっている。書き写すことで、それがより明確に感じられる。いろいろな方から歌集が送られてくると、できるだけお礼状を書くようにしているのは、自分のためでもあるからだ。付箋をつけた歌を便箋に書き写していると、「ああ、本当にいい歌だなあ」としみじみとする。
たまたま読んだブログの作成者は、とても忙しい人で、真面目に短歌を勉強したい思いが強いのだろう。その人に限らず、たぶん書き写すということは、経験がない人にとっては「ええ〜っ!」と思うほど迂遠な方法なのかもしれない。でも、ここに挙げた歌のように、ことばという「かすかなるもの」を十分に味わうには、とてもよい。やわらかな花びらのようなことばを、丁寧に一文字ずつ書き写すとき、歌を詠んだ人の心に少し近づけるような気がしている。
☆馬場あき子歌集『阿古父』(砂子屋書房、1993年)



ああ! その手もありますね。うっかり者の私は変換ミスがコワいですが。
冷奴さん、
コピーすることに罪悪感を抱くこと自体、古い古い人間なのだろうなあと思います。
引っ越し準備はぼちぼち。本を入れる段ボールが足りなくなって、追加しました!
ご苦労様です。書き写すと見えないものが見えてきたり、とても良いこともありますよね。やわらかな花びらを書き写すってすてきな言葉ですね。
ご配慮ありがとうございます。このブログは、私にとって大切な仕事と思って書いています。「書き写すと見えないものが見えてきたり」という言葉に、うん、うん、とうなずいてしまいました!
私もはじめの頃は万葉集の半分くらい書き写しましたね〜
その後、好きな歌人の好きな一首を書き写した大學ノートもすでに14冊目です・・・もちろん松村さんの作品も10首位入っています。オレも早くうまくなりたいと思いつつガンバっている状況です。
わぁ、14冊目! きっと中村さんの歌の栄養になって、いつか花開くはずです。私も万葉集に挑戦しようかなと思います。
久々に書き込みさせていただきます。
私も、morijiri さんと同じような感想です。
先日、仕事でレポートをまとめなければいけないことがあって、他部署で書かれた報告書を要約して引用するため、その報告書を読みながら、キーボードを叩きました。
それまで、何度か読んでいたものなのですが、要約するため、文章の論理構成を吟味し、何が書き手の言いたいことなのかを考えるという作業を繰り返すことで、結果的にその報告書をより深く読み込むことになりました。
それまで、なんとなく頭の中で霧がかかったような感じで読んでいたものが、霧が晴れたようにすっと理解できました。
書き写すということは、原文を書いた書き手に寄り添い、書き手の気持ちを理解しようとする行為なのだろうと思います。
所謂、まねごとのうちハードになったものは著作権になる。でも、私も由利子さんのように「芸術感覚」に浸り、多くの隣人に表現して、そのレスポンスを感じれている限り、当人にとっては問題ないのではないかと、最近想う。
昨日、某教会にてBass-Bariton solo with Pipe OrganでHymnを表現し、夜のPartyで映画「Gran Torino」のClint Eastwoondのパートを歌いJeremmie Cullumに絡んでの1曲のステージを与えて頂いた。
自分自身は不出来であったと悔やんでいたが、参加者からは喜びの握手を求められた。そのギャップは何だろうと思いながら、めずらしくオルガニストと「反省会」をしていた。
要は、表現者は欲を持ち過ぎない。その中でも、由利子さんは後塵が一所懸命になれない環境になっているのではという、閉塞感に憂いておられるのでしょうね。
やっぱり貴女にはV. Ferrariの「マドンナの宝石」がお似合いですね!?
子育てに仕事にと、今思えばよくそんな余裕があったものだと、ふりかえっています。
いただいたコメントを読んで、「読む」ということにはいろいろなレベルがあるのだなあ、と思いました。
Rommelさん、
著作権の問題はまた複雑なんですよね。すべて書き写すわけには行かないのが難しいところ。やっぱりコピーしたい時もあります。
ひろしさん、
いえいえ、私もコピーしますよ! ただ歌集を一冊書き写すというのは、案外いいものだよ、とお勧めしたくて。
スマイル ママさん、
忙しいときほど、手をかけ時間をかけて何かしたくなるのは不思議ですね。何か豊かなものがそこにあるのでしょう。