先日、旅の途中で、津和野にある安野光雅美術館を訪れた。絵が素晴らしいのはもちろんだが、パネルの一つに、安野さんが絵を描くときの「おまじない」が書いてあったのが、特に心に残った。
「わたしは下手 まだこども」というのが、そのおまじないである。「わたしは下手 好きなだけ いま美術の時間」というのもあった。ああ、いいなあ、これは自分も使えるなあと思った。「わたしは下手 好きなだけ いま国語の時間」
歌は技術的にうまくなったからといって、いいものにならないのが難しいところだ。いつまでも「まだこども」と思える驚きや敏感さを持ち続けなければ詠めない。
そんなふうに年齢を重ねられる人は、多くはないが、興津甲種さんもその一人だと思う。93歳のこの歌人の歌の何と自由で、伸びやかなことだろう。
起き出した<着衣のマハ>が裾を蹴り歩いてゐるよ銀座の夏を
花好きのひとが意外と非情なり少し萎えたるを容赦なく捨つ
この瑞々しい感性、鋭い人間観察には、ただただ感服するばかりである。
とりわけ歌人の心がやわらかく揺れるのは、亡き妻を思うときである。挽歌というのは究極の相聞歌でもあるのだと、胸を詰まらせながら読んだ。
黄泉路ゆく君は手ぶらか愛用のバッグ五つが残りて並ぶ
一抜けた大きな大きな一抜けた梅雨の紫陽花藍のしたたり
この頬に触れる頬なくいたづらに春夏秋冬頬の髯剃る
稲妻が鋭く光り弾けたり 抱きつくひとがかつてはをりき
夫婦という形の美しさを、しみじみと思う。こんなにも人は愛し合うことができるのだなあと胸がいっぱいになる。そして、自分もまた、こんなふうに一人を愛し続けたいと願う。
妻がいなくなって残されたバッグを見て、「手ぶら」の妻を思う一首目、童心そのままに人を恋う二首目、そして、明るく品のよいエロティシズムの漂う、三、四首目。どれも胸がきゅっと詰まるようだ。
観覧車回れよ回れ九十歳越したるこの世ゆつくり回れ
老いてなほ地下水のごとき春愁や梅・桃・桜散りて沁み出す
栗木京子の名歌を本歌とした一首目の軽妙さ、「地下水」に喩えられた深いところにある心動きの詠われた二首目の切なさ、どれも読む者を立ち止まらせる。
この歌人のよさは、余裕ある詠いぶり、ユーモアによく表れている。
風呂に入り役目果せしもの洗ふ遺物なれども余生を共に
人体の骨格模型が立つてゐる 湯上りに見る鏡の中に
「これがふんどし」ナース珍奇の声あぐる 俺は「さうだ」と英雄きどり
何ともいえない可笑しみは、作者の人柄、人生経験の豊かさから来るのだろう。人生の滋味あふれる歌集は、読めば読むほど、味わいが深まるのであった。
☆興津甲種歌集『楕円形』(角川書店・2010年3月、2700円)
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スゴイですね〜一体、石垣島到着はいつになるんだろう・・・と思ったり到着までにお身体の方は大丈夫かな?と心配したりします。
では・・・
ご無事で新居に到着なさいましたか?
前置きで仰っている、「わたしは下手…」は、私も心がけているところである。某野球選手がマイクを向けられて「恐れを持ってひとつひとつの試合に立ち向かっています!」という、言葉にも通じるところかもしれないと思う。それが、バランスよく世渡りをすることかも知れない…。
また、3,4首は(同姓として?)微笑ましくも、この気持ちを保てる「環境作りと生き様」を果たしたいものだ。
う〜ん。深イイ歌である
30日のお昼すぎに石垣島に着きました。
いまは、またしても片付けの日々ですが、今度の片付けは楽しいです!
中村ケンジさん、
島はもう夏です。若いカップルやグループの姿があちこちに見られます。何だかまだ旅の途中のような気分です。
chiharuさん、
こんなお父様がいらして、詩歌を楽しまれた由、その思い出はいつまでもご家族の宝物ですね。私はお蔭さまで元気に旅を終え、片づけに燃えています!
Rommelさん、
「こども」でいることは、「バランスよく世渡り」の反対のような気がします。世の中的なバランスを考えないで、自分の心のままに行動、表現する勇気や強さを持ちたいと願っています。
本当は由利ちゃんのように、また「少年のように」心のままに行動できるよう、戻りたいと渇望している今日この頃です…。
津和野はとても美しく、萩、秋芳洞を含めもう一度訪れたい街ですね。
島の生活楽しみですね。息子も今伊豆の海へ潜りにいっています。めんこさんのお話をしたら羨ましいといってました。(笑)
引用歌も石垣島も、時間がゆったりと流れているようですね。
こちらは、総理の沖縄訪問関係の報道ばかりです。
石垣島に着かれたのですね。
お疲れさまでした。
あらためて・・・
どうぞお幸せに^^
ご案内いただいたたような素敵な歌を、
由利子さんもたくさん詠んでくださいね^^