もの食へず苦しむわれの傍にゐてパンを食べゐる夫あはれなり
河野 裕子
河野裕子さんの最近のエッセイに、食べるということは、人生の楽しみのかなり多くの部分を占めるのだと、ご自分が食べられなくなって初めて気づいた、と書かれていて胸が痛んだ。
三度三度、ありあわせのものであろうと、果物ひとつであろうと、何かしら口にできるというのは幸せなことだ。そして、家族や友人など大切な人と食事を共にする場の、何と心やすまる豊かなものだろうか。食卓を囲んで同じものを味わうというのは、同じ体験、同じ時間を共有することだ。レストランへ行って各々好きなものを注文するのも楽しいが、それはあくまでも、同じものを分かち合う日常があっての楽しさなのだと思う。
石垣島へ引っ越して、近隣の方たちや知り合いから、パイナップルやトマト、きゅうり、パパイヤなど、さまざまなものをいただくようになった。除湿機や冷蔵庫を買った電器店では、何度目かに行ったとき、店長さんから魚をもらって感激した。
パイナップルなんて、これまでは特別な果物だったから丁寧に皮を削ぎ、「そうそう、らせん状にトゲがあるから、そのラインに沿って包丁で切れ目を入れればトゲが取れるんだよね。本で読んだもん!」なんて考えつつ、斜めに細い溝を刻んでトゲを取っていた。ところが、島の人たちはそんなことはしない。豪快に皮を厚めにざくざく落として、あっという間に切り分けてしまう。「えーと、らせん状のトゲは…」なんて悩んだりしないのだ。
食べ物を分け合う、というのは、何だかとても温かいことだなあ、と思う。経済的に自立することを「食べていけるようになる」と表現するのも面白い。困っている人を苦境から救い出すのは難しいことだが、「一緒にごはん食べましょう」と誘うくらいはできる。
人が生きていくうえで、「食べる」というのは本当に基本なのだ。だからこそ、「もの食へず苦しむ」という状況のつらさが思われて悲しくなる。
☆「短歌」2010年5月号(角川書店)
本当に「食べる」ということは大事なんですよね。大切な人と「わしわしと」食べるって、最高のしあわせだと思います。
パイナップル・・・子どもの頃、親戚の畑に収穫に行って天然パイナップルジュースを作って飲んでたのがなつかしいな〜
「人はパンのみに生くるものにあらず」とおっしゃったイエスさまも、神様に食べることを求めなさい、とすすめてくださっているのは、心安らぐことですね。
ご闘病の歌、胸をえぐられるようです……。島ではパイナップルがおいしい季節です。もうすぐマンゴーも!
もなママさん、
「日ごとの糧」という慎ましい表現について、いろいろ考えさせられます。
うれしかったときは、まったくの一見サンにも拘らず、ある集いにて昼ごはんをご一緒して、手作りのご飯を食べながら、談笑することである。私の心を癒してくれた。
苦しみの中からの生還の食事は、マイナス25度位の寒さの中を数キロ彷徨い(時間にして数時間もたった感覚、腹も減って体内温度も冷え込んできて死にそうなとき?)、目の前に現れた工場給食所にて、靴下の中に忍ばせていた$10を出して、何か食べるものを!と訴え山のように出てきた食事。
いずれにせよ、食は健康を大事にすることの基本要素ですよね?
「マイナス25度位の寒さ」の中から戻ってきたときの食事のありがたさは、想像できないほどです。
健康を維持するにも、食は大事にしないといけませんね!
新入社員だった頃(四半世紀前^^)に、
当時の人事部長が言われていた
「良く食べて、良く寝ること。これに勝る健康法はなし。」
という言葉を思い出しました。
生きるために、食べることは不可欠ですね。
また、ご案内いただいたように、
食べることは、本当に楽しいですね。
食べることは生きること。それはすなわち、生きることは食べること。
そして、
食べることは楽しむこと。それはすなわち、楽しむことは食べること。
ならば・・・
生きることは楽しむこと。それはすなわち、楽しむことは生きること。
禅問答のようになってしまいました。
ごちゃごちゃ言いましたが、
「食べる」という基本的なことを心から楽しみ、感謝したいと思います。
「食べる」ことが不自由になってしまったこと、本当につらいと思います。
「食べる」ことが自由にできることに感謝しつつ、
人生そのものを楽しく過ごして行きたいと思います。、
「食べる」ことの深さについて書いてくださて、ありがとうございました。
喜ぶ、楽しむ、ということは自分から働きかけるものだと、最近思うようになりました。待っていても、いいことがそれほどたくさん起こるはずもなく、自ら愉快な気分になる、おいしいものを誰かのために作る、というのが大事なのかなぁ、なんて思いました。
おいしく楽しく食べる、って本当にしあわせなことです。
「何を食べても美味しい」のは、しあわせなことです! 味や食感がどうしても好きになれなくて食べられないものが多い方も気の毒に思います。どしどし食べて人生を楽しみたいです。
当時仕事にかまけていた私は看病もままならず、付き添いの方をお願いしておりました。
ある晩、その方が夜食にとリンゴの皮をむかれていたとき、母がひと口食べさせてほしいと懇願したそうです。
許可が出るはずもなく、今も心残りな日々をすごしています。
でも、昨今のグルメブームや大食い番組など
を見てると、飽食時代のおごりのような気がします。
禅宗では、調理(精進料理)や、それを食べること自体が修行の一部で、食は欲ではなく、心身を健全に保つための薬餌(やくじ)と言います。
言葉にならない思いで読みました。私の祖母は、亡くなる間際にアイスクリームが食べたいと言い、母が病院の売店で母が買ってきたものをひと口食べて、とても喜んだと聞いています。でもスマイル ママさん、どうぞ、お母様の最期ばかりでなく、楽しく召し上がっていたときの思い出を反芻なさってくださいね。
SEMIMARUさん、
本当にそうですね。「薬餌」という言葉は初めて知りました。米川千嘉子さんの最近作「食べさせたものから出来てゐる息子駅まで送り申し訳なし」を思い出しました。
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。