きりわけしマンゴー皿にひしめきてわが体内に現れし手よ
江戸 雪
島に住むようになって一番変わったのは、食生活である。これまでめったに食べることのなかったパパイヤやマンゴー、パイナップルを、日常的に大量消費(消化?)している。ここ2か月で、私はそれ以前に食べた総計よりも、はるかに多くの南の果実を食べていると思う。
確か数年前までは、マンゴーとパパイヤを「あれ、どっちだっけ」と混同することがあったと思う。それが今では、平気な顔をして青パパイヤの炒めものなんか作っているのだから、我ながらおかしくなる。
マンゴーの存在を初めて知ったのは、子どものころにシャンソン歌手、石井好子のエッセイ『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』を読んだときだったと思う(母の本棚にあったのを読んだのである)。マンゴーのあまりのおいしさに思わず種までしゃぶってしまったという描写が、本当に生き生きとしていて、「マンゴーってそんなにおいしいんだ。食べてみたいなあ。どんな果物なんだろう」と想像したのを覚えている。
マンゴーは高価なので、自分で買って食べることはない。いただきものを有り難く頂戴するばかりである。時々、大きめのビワくらいの愛らしい小さなマンゴーをもらうこともある。よく見かける大きさのマンゴーとは種が違うのかと思っていたら、そうではなくて、同じ木でも大きくなる実と小さいままで熟す実があるのだそうだ。味は大きなものと変わらず、1個まるまるひとりで食べてしまえる満足感がいい。
このミニ・マンゴーは、最近は島の公設市場などでも見かけるようになった。以前は「売り物にならないから」と、農家の人が自分たちで食べてしまうことがほとんどだったという。割高感はあるものの、形がかわいいし、お土産にも喜ばれそうだ。
歌のマンゴーは「きりわけし」とあるから、大ぶりのものだろう。太陽の光がそのまま果実になったようなマンゴーが、切り分けられて皿いっぱいに盛りつけてある。そのおいしそうな様子に、「体内」から手が延びてくるような食欲を感じた作者なのだろうか。独特の身体感覚が艶めかしく、「手」にどきどきさせられる。
グリム童話の「ラプンツェル」は、おなかに子を宿したおかみさんが隣の庭の野菜(ラプンツェル)を食べたがったことが発端となる物語である。女性の「体内に現れし手」は、肉体のかなしみ、人間の業の形でもあるようで、この歌はマンゴーの明るさはあるものの、少し陰翳を帯びているように感じてしまう。
☆江戸雪歌集『椿夜』(砂子屋書房、2001年6月)
家の畑に植えていましたよ〜
あとはパパイヤ、シークヮーサー、アセロラ、グァバなども・・・
きっと松村さんも庭に植えているんだろうな〜
ええっ、おうちの畑にマンゴーが!! いいなあ。
わが家には、まだシークヮーサーとバナナしか植わっていません。頑張らなくちゃ。
今度お会いしたときにお話しますね。
ゆりこさんのお庭にマンゴーがなるころ、ぜひお伺いさせてくださいね。
みかんの缶詰! そういえば、パイナップルの缶詰も最近見かけませんねえ。子どものころの食べものの記憶は、本当に鮮やかです。
Lucyさん、
どんな物語がマンゴーに隠されているのでしょう。ぜひぜひお聞かせください。あっ、わが家にマンゴーも植えなくちゃ。
売ってる果実は大きすぎて、一人で食べきれないことが多いです。小さくても一個は一個なので、小さい方がいいです。
石井好子の「巴里の空・・・」は私も読んだ
記憶があります、石井さんが公演の前に楽屋でアイスクリームを食べてしまい。声がでなくなって困った、というくだりを今でも覚えてます。(冷たいものは声帯によくないらしい)
ミニ・マンゴーは1人暮らしの方にはお薦めです!
石井好子さんのエッセイは、本当におしゃれで、外国というかヨーロッパの雰囲気を楽しめる内容でしたねえ。
僕は、1年のうち半分は、カンボジアを中心に他に中国雲南省や、インド、ベトナムなどを放浪するような生活ですが、それらの国では、マンゴーは安いです。特に、ミニマンゴーは、一山いくら、という感じで、日本の感覚でいえばタダに近い感じに安いです。
あと、南国のひとは、青い(実際はほぼ黄緑色)マンゴーを皮を剥き、切って唐辛子の入った塩をつけて食べますが、最初、何だ、渋くてショッパクテ、全く人間の食べるものではないとおもいましたが、今は、食べられるようになりました。
わくわくするようなお話をありがとうございます。完熟していないマンゴーに唐辛子入りの塩をつけて食べるのは面白いですね。
石垣島のミニマンゴーは6個入り1000円などで売られています。私は知人からもらっては至福のときを過ごしているのであります。