
蒟蒻をさげて隣人のきたる朝まだあたたかく蒟蒻はづむ
前 登志夫
私が一番好きな沖縄の言葉は、「イチャリバチョーデー(会えば、きょうだい)」である。
初めて聞いたとき、胸がじーんとした。それを聞かせてくれたのは、私が石垣島に住む前から、そして今も一番お世話になっている人である。自宅に招いてごちそうしたり、あちこち案内したり……見ず知らずの人間に、どうしてここまで親切にしてくれるのだろう、と不思議に思っていたときだったから、よけいに響くものがあった。
「遠くの親戚より近くの隣人」というが、島の人の親切なことといったら、今まで経験したことがないほどだ。先日も、お昼ちょっと前にお隣さんが訪ねてきて、湯気の立っているご飯と炒めもの(写真)を届けてくださった。ちょうど昼食の準備を始めようかというタイミングだったので、実にありがたかった。
別のお隣さんは数年前に移り住んだ方たちだが、こちらも朝早くに焼きたてのパンを分けてくださったり、草取りを手伝ってくださったり、と実のきょうだい以上に親切にしてもらっている。
今週、本島に住む知人から本が送られてきた。先日、那覇で開かれた小さな読書会で会った方である。「面白い本があるから、送りましょうね〜」と言われたのをすっかり失念していた。『おきなわルーツ紀行』(球陽出版)という本なのだが、このサブタイトルが「聖書でひも解く沖縄の風習」。決してトンデモ本ではない。クリスチャンである沖縄の女性と、北海道出身のノンフィクションライターが、ごくごく真面目に沖縄の年中行事を、聖書の内容と突き合わせたものである。
この本に、新約聖書にあるイエスの言葉、「神のみこころを行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」は、「イチャリバチョーデー」そのものだと書かれた箇所があって面白かった。確かに、教会ではお互いを「兄弟姉妹」と呼びかける。筆者らは、沖縄では親戚でなくても「ニーニー(兄さん)」「ネーネー(姉さん)」と呼ぶことを思い出させると書いている。
前登志夫の一首は、できたての蒟蒻の温かみが人情と重なり、何ともいえない味わいがある。蒟蒻という、ずっしりした重みも効いている。そして、「はづむ」のは蒟蒻だけでは勿論なく、作者自身の心がゴムまりのように弾んだに違いない。
「イチャリバチョーデー」はどこにでもあるのに、千葉に住んでいたときの私は気づかなかっただけかもしれない。心をゆったりと開放していると、人との関係も風通しがよくなる。そして、いまツイッターが面白いと思うのは、見知らぬ人同士であっても、いろいろな情報を惜しみなくやりとりする関係が成り立っていることだ。インターネットによって出現した新しい形の「イチャリバチョーデー」が知識や情報の共有を生み、何かの力になってゆくのは、本当に豊かな進化だと思う。
☆前登志夫歌集『落人の家』(2007年、雁書館)
僕はまだ石垣島には行ったことありませんが、
南国へ行けばいくほど、田舎に行けば行くほど、
人情の深さを感じることが多いし、自分自身の心も
自然と解き放たれていくような感じ。
昔は何処でもそうだったのかも知れませんけど。。。
僕もこっそりtwitter始めましたよ。
そしたらブログのアクセスが増えた気がします(笑)
心が自由になると、人との関係が断然よくなりますね。私もこちらに来て、だいぶ開放的になった気がします。
ブログのタイトル、よろしかった今度教えてくださいね。
コビアンさん、
赤米を炊きこんだご飯なんです。おいしいですよ!
最初の頃は遠慮していましたが、今では「バナナ? 要る!」「あっ、パン欲しい欲しい」と即答する素直さ(図々しさ?)です。
あたしたちだって、電話で知り合ってすぐに姉妹になったじゃない(笑)。
おかずの交換はできないけど、今も通じる心はあつあつですよ♪
イチャリバチョーデーをここまで取り上げてくださってありがとうございます。
どんどん沖縄のコトバを紹介してもらえると幸いです。
トゥンジャーモーヤー・・・うれしい様子の事。
ウッサスンともいいます。
ちなみに沖縄県民はみんなイジャーです。
どんな意味かは近所の人に聞いてもらえればすぐに分かると思います。
ああ、本当に! 実際に会う前から意気投合するということがあるのですよねえ。
出会いはいつも幸福なものです。
中村ケンジさん、
わぁー、宿題がいっぱい出された感じです。
若い方たちもまだそういう言葉を使うんだ、という発見が感動なのでした。
前にリンクが貼ってありました。
あっ、ここにも善き隣人が!
本当にありがとうございます。早速アクセスしてみます。