
繊細にして大胆−−。そういう生き方に憧れる。そして、そんな歌をつくりたいと願っている。だから、この歌集を読み、とても心を揺さぶられた。
昼と夜つくりし神のくちびるが幽かうごきて水面(みなも)をゆらす
浅間山火口を満たす月光の嵩深ければねむるたましひ
夏山のみどりにハッときづく朝 愛宕山こそ抹香鯨
一首目は、「神のくちびる」の上下が「昼」と「夜」であるかのような見立てで、どきどきさせられる。そして、それが触れあうところとして「水面」がある。薄暮の中でかすかにゆらめく水面が、この上なく美しく表現されている歌だ。二首目は、火口に月光が満たされているというスケールの大きさと儚さに、うっとりさせられる。三首目の下の句には、もう脱帽するほかない。何とまあ語調のよく、大とかなフレーズだろう。敢えて言えば、上の句の「ハッと」が少しばかり古くさく、ない方がよかったと思うが、それはこの歌の本当に小さな欠点だ。「抹香鯨」の存在感には、ただただ舌を巻くのみである。
葉脈がまだまだ弱いこの町に去年(こぞ)の秘密はいまだに漏れず
おづおづと寒立馬(かんだちめ)の目のひらくとき見えてくるのは愛だとよいが
この人の想像力は、何もかも飛び越える強さがある。謎と飛躍に満ちた一首は、人を陶然とさせる。町と葉脈、馬と愛……、分からないけれど分かりそうな感じに惹きつけられてしまう。こうした歌に比べれば、「千年をアルコール液に棲む蜥蜴ちひさきゆびを瓶に当てをり」なんていう歌は、ごくごく当たり前に見えてしまう。この蜥蜴の歌にしても、かなり細部にまで観察眼がゆき届き、巧者な作品なのだが。
空からの雨の粒子に囲はれてきつとわたしはこはい顔です
わたくしは灯台守の妻となりきみの一生(ひとよ)を狂はせたかつた
自分にもわからない自己というものがある。また、「あったかもしれない自分」という無数の存在もある。たいていの人は、そんなものは見ないようにして日々の生活を送っているのだが、この作者はそれを凝視する。そこに詩が生まれる。
「こはい顔」をしている自分は、何を思っているのだろう。怒っているのか、悲しんでいるのか。何の説明もないのだけれど、降りしきる雨の中、読者もまた険しい顔をしている自分を発見するに違いない。そして、心底なりたいものがあるとすれば「灯台守の妻」であったことも、しみじみと思うはずだ。それがなぜなのか、「わたくし」が「きみ」がどういう関係なのか、何も示されていないのだけれど、渇きにも似た思いで「きみの一生を狂はせたかつた」と思わされる自分がいる。
ゆふやけがあんなにひかつてあれはなに あれは天使よかへつてゆくわ
詩歌は日々の糧である。こんなにも人の心を慰め、豊かにする。自分の翼が心もとなくて、地上から1センチも飛び上がることができないとき、かろがろと夕雲のあたりまで連れていってくれる詩があればこそ、人生は楽しい。
☆黒沢忍歌集『遠(ゑん)』(ながらみ書房、2010年11月)
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そんなに褒めていただいて恐縮です!
自分にないものを持った方たちの歌を紹介するのは本当に楽しいことです。
夕暮れ時にこんな風に思える感性があったら・・・
これからも優れた詩歌の紹介をお願いします。
自分の歌は「理が勝っている」と評されることが多いので、こんな作風に惹かれます。好みはいろいろあるでしょうが。いただいた歌集のすべてを紹介できないのが申しわけないばかりです。
心からほとばしりでるような詩歌でした。
ああ、歌ってこうやって生まれるんだなあ、って思いました。
挽歌は見送る人への最後の贈りものかしら、と初めて思いました。そして、歌によって悲しみを分かち合えたことが嬉しくもありました。
『大女伝説』、拝見させて頂きました。歌というのは解明するものではないと思うのですが、一つだけどうしてもお尋ねしたいと思う歌があってコメントさせて頂こうと思いました。
われという孤島に誰か流れ来よ牧師夫人の読む漂流記
これは牧師夫人が孤島であって、誰かが流れてくるのを待っているという感じでしょうか?
もしそうだとしたら、この歌は、非常に洞察力に優れた歌だと思いました。
私も牧師の妻という立場にいる者なので・・。
モンゴメリの夫はプロテスタントの牧師で鬱病を病んでいたそうですが、その夫を支えて歩んだモンゴメリは最後自殺したようですね。公にはされなかったようですが。
牧師の妻というのは、実際、孤島のようなものだろうと思います。自分自身、小さな沈みそうな孤島でありながら、漂流してくる者を抱えようとずっと待っているというような・・。
『大女伝説』は私の宝物になりそうです。
はじめまして!
拙著を読んでくださって、ありがとうございます。本物の牧師夫人からのコメントにどきどきしてしまいました。
「自分自身、小さな沈みそうな孤島でありながら」という文章に、うっとりします。それこそまさに正統な牧師夫人です!その解釈はとても素敵ですが、別の解釈もできるかと思います。作者は少しよこしまな人で、「牧師夫人であっても、ほのかな恋に恋するような気持ちを抱くことがあるのではないかしら」なんて想像して、まだ見ぬ恋人を夢見る(実際にはあり得ない)牧師夫人を作り上げたようです。何て罪深いんでしょう!!
そうでしたか。それだと、下句の「牧師夫人の読む漂流記」が、しっくりきますね。そぉかぁ、恋かぁ。全く思い浮かびませんでした。いかに“恋”というようなものから遠く離れてしまっていたかと・・。
『大女伝説』の物事の多角的なとらえ方が素晴らしいですね。それから、物語について言及されている「あとがき」も。
私も、孤島という現実ではなくて、大女という物語を心に紡ぎながら生きていきたいと思いました。身長150pしかありませんが。
いえいえ、「解答」ではありません。短歌の解釈は人それぞれで、正答などないのですから。
よるべない人を救おうとする解釈は、実に魅力的だと思います。