
女はおしゃべりな方がいい。
時々、口の重い自分をもどかしく思うことがある。そして、他愛のないことを楽しそうに、小鳥がさえずるように話す女の人を、とても羨ましく眺めてしまう。河野裕子のエッセイには、彼女が帰宅した夫にくっついて家の中を歩き、その日の出来事をあれこれと話す様子がつづられていて、なんてかわいい人だったんだろう、と思う。
鈍色の夜明けに思ふ 暮らすとはそれを言はずに暮らしゆくこと
もの言はぬことが楽なりうらおもてふとんに秋の陽を当てながら
貝の吐く夜の更けの水 母もわれもつくづく本音を言はぬと思ふ
朝井さとる
歌を批評するには、その文体や韻律の美しさ、新しさ、テーマ性などを多面的に客観視することが必要とされる。けれども、どうしようもなく自分の深奥と響き合うものを感じ、うまく批評できないような歌もある。上に挙げた三首などはその好例だ。
夜明けにふと目を覚まし、「それ」を言わずに日々を送っている自分を思う。「それ」は読む人それぞれが思い描けばよい。「昔の恋」か「親戚のトラブル」か、はたまた「相手の欠点」か……。家族であっても触れてはならないことが在る。そのことの悲しさ、切なさがじんわりと沁みてくる。
私も以前、「もの言わぬことのしあわせ休日はしんと黙って手を動かせり」という歌を作ったが、この時は職場でいろいろと指示しなければならない立場にあり、その重圧が大きかった。一首の奥深さで言えば、職場の人間でなく、家族に「もの言はぬ」屈託の方が数倍まさっている。
海を遠く離れたシジミやアサリでさえ、素直に水や砂を吐くのに、どうして私は近しい人にさえ「本音」をうまく伝えられないのだろう――。歌を読んで泣きそうになりながら、「ああ、ここに自分と同じような人がいた」と何とも言えない安堵を覚える。詩歌を読む喜びは、こんなところにある。
*朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
本音がとびかう職場を想像してみました。
家族に言えないとなれば、傷つけあうことへの恐れ?でしょうか。
他人には損得勘定がはたらきますが。
本音を言われない相手も近い関係であればさみしいでしょうね。信頼関係が無いようで。
貝の歌がなんとなしにわかりました、ぼそっと言って終わらせる、よくあります。
自分の思いのすべてを話すことは、もともと不可能だと思います。人は常に、他者に対して何を話すか選択しているのではないでしょうか。
ミルトスさん、
「手」などの動作、表情が、言葉以上に思いを伝えることもあるかもしれません。
でも、
話しても話しても話し足りないのは、
本音を言っていないからだと思う。
だから、書き続けています。
自分の中から本音を引き出すために。
誰かに見せる文章でなくても
いつまでも遠慮している自分に気づきます。
本音ってあの世まで持っていくものなんだろうか・・・と思います。
「自分の中から本音を引き出す」という言葉にはっとしました。書くことによって、自分でも気づいていなかった思いを発見するということがありますね。人は話したり書いたりして、自分と向き合うのかもしれません。祈る、ということも自分と話す、自分と向き合うことかな、と思いつきました。