オオオニバスの葉には子どもがひとりずつ
座りてとおい母を待ちおり 中津 昌子
出産直後だって、自分の子どもが自分から生まれてきたとは信じられなかった。「ふーむ、この60兆個の細胞のすべてが私の体内で形成されたとは(赤ん坊はもうちょっと少ないと思うけれど)」なんて思いながらしげしげと眺め、不思議でならなかった。
オオオニバスは、直径1メートル以上にも及ぶ葉を水面に浮かべる。子どもならその上に乗ることができる、ということが確か小学校の教科書に載っていた覚えがある。何の教科だっただろう。巨大な湖面にぽつんぽつんと浮かぶ大きな葉に、幼い子どもが体操座りをして何かを待っているイメージには、何ともいえず胸に迫るものがある。根源的なさみしさ、とでも言おうか。
この世界は、ひどく不完全で痛みに満ちたものだから、誰もが「とおい母」を待っているのではないだろうか。最初に読んだころは、「子どもたちを育てるのはその親だけではないのだ」なんていう理屈を考えもしたが、今はオオオニバスの葉の上で膝をかかえている自分の姿が見える。不安と寒さにふるえながら「とおい母」を待っているのは、自分も、自分の子どもも同じなのである。親であっても、子どもの乗っている葉には一緒に乗れない。
「とおい母」はゴドーみたいなものかもしれない。
☆中津昌子歌集『風を残せり』(1993年、短歌新聞社)
ラフレシアもありました。ふしぎな植物の絵を見て、とおい国に思いをはせたものでした。一年生くらいだったんじゃないかなあ。。。。
もうひとつの花はおじぎそうだったと思います。こちらは、身近な世界が急にエキゾチックになったような気がしました。
やっぱり! 私も国語かな、と思っていたのです。
同じ教科書だったんだぁ(感動……)。
「めもあある美術館」とかいうお話があったのは、覚えていらっしゃいますか?
いろいろな記憶が絵になった幻の美術館なのですが……あっ、オオオニバスからはずれちゃった。すみません。