
私より10歳ほど若い友人と話していて、彼女がパートナーについて「もう最近、『死ね!』とか思っちゃうことがある」と明るく言うので、笑ってしまった。そして、それも愛なんだよね、としんみりした気持ちになった。
一緒に暮らすようになると、本当につまらないことで苛立ったり、ぶつかり合ったりする。「死ね」とは思わないまでも、「もう、こんな人、いなければいいのに」と思う瞬間は、多くの人が経験しているのではないだろうか。初めてそんな気持ちになったとき、自分自身に対して情けなくて、心底悲しくなったのを覚えている。あんなに大切に思っていた人、誰よりも大好きな人に対して、どうしてこんな感情を抱かなければならないのか、あのとき関係がダメになっていた方がよっぽどよかった――そう思うと、とめどなく気持ちが落ち込んだ。
けれども、相反する感情を抱くのもまた、恋の不思議さなのだろう。
一度だけ「好き」と思った一度だけ「死ね」と思った 非常階段
東 直子
最初に読んだ1997年当時、私は歌の意味がよく分からなかった。「東さんって、おもしろい歌をつくるなー。映画みたい」なんて思っただけだった。
この「死ね」は、暮らしを共にした結果の憎らしさではなく、かなり深く鋭い感情だ。それほど激しい「好き」なのだ。「一度だけ」の繰り返しから、その恋が短期間だったことが分かる。「非常階段」がさらに切羽詰まった雰囲気を演出しているのが巧みだ。
馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
塚本邦雄
恋は怖い。本気の恋は、激しい愛憎の両極を行ったり来たりする。そして、めでたく成就して共に暮らすようになってからも、日常の「好き」の合間に「死ね」と思う瞬間が混じったりする。
あっけらかんと「『死ね!』とか思っちゃう」と言った友人に、東さんの一首をメモ用紙に書いて渡すと、一読して「ね、これ、不倫の恋じゃない?」と首をかしげる。理系出身の彼女は、短歌とは何の縁もない人だ。おぬし、やるな。
*東直子歌集『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店・1996年12月刊行)
*塚本邦雄歌集『感幻樂』(白玉書房・1969年9月刊行)
ん〜、「恋の歌は、歌の基本」とよく言われますので、いくつになっても作ると思います(今も作っておりますよ)。東直子さんの歌は、「非常階段」がホント効いているんです!
一人で生きる孤独というのは大変なものかもしれませんが、二人で生き続けるというのも並大抵のことではないと思います。しかも最後はどちらかが一人になりますしね。
松村さんのブログに与謝野晶子の短歌を書き込むのもどうかと思いますが、一人になったら一人になったでこんな悲しみも味わわなくてはならないかもしれませんし・・。
君知らで終りぬかかる悲しみもかかる涙もかかる寒さも
東直子さんの短歌と塚本邦雄の短歌とでは、随分時代が違うという感じがしますね。
一人でも二人でも、ひとは寂しいものなのかもしれません。強い言葉はあるカタルシスをもたらすので、口にすることで解消されるものがあるのかな、と思ったりもします。沖縄の人は結構よく「死なすよ〜」と言うんですよ!
言葉に対して敏感なお立場、石垣島の生活の中で沢山の新発見をされているのではないでしょうか。
確かに沖縄では殺す、死なすという言葉をいとも簡単に口にします。
「クルサリンドー(殺すぞ)」とか、「シナサリンドー(死なすぞ)」とか。
石垣在中の私の周辺での経験はあまり無いのですが、「ブツわよ」くらいの意味だと思います。
「ブツわよ」くらいの意味、というご指摘に、「あ、そうだよね!」と瞬時に納得しました。若いお母さんが子供に「ちゃんと片づけないと〜」という場合に言ったりしていますもの。言葉は生きものだから、その場の雰囲気も知らないと理解できないですね。
素敵なコメントをありがとうございました。気づくのが遅くなってすみませんでした(仕事に追われておりました!)。言葉選びの的確さは、東さんならではだと思います。