
相変わらず、締め切りの合間に全く仕事と関係ない本を読んでは、「はぁ〜、至福」とうっとりしている毎日だ。ブログ更新もサボりにサボってしまった。
先日読んでまずまず面白かったのが、『野口英世とメリー・ダージス』(飯沼信子著、水曜社)である。サブタイトルは「明治・大正 偉人たちの国際結婚」で、野口のほかに、ジアスターゼやアドレナリン抽出で知られる高峰譲吉、エフェドリンの発見者である長井長義、仏教学者の鈴木大拙らのケースが紹介されている。
何が面白いかというと、やはり彼らのなれそめというか出会いだ。今から百年ほど前の日本人男性が、どんなふうに外国人女性との愛を育んだかというところに、俗な好奇心がそそられる(この本がその意味で少々物足りないのは、一柳満喜子とW.メレル・ヴォーリズのような「日本人女性と外国人男性」のケースを取り上げていないことだ)。彼らの関係に少なからず惹かれるのは、はじめから相容れない部分があることを互いに認識し合ったところからスタートしているからである。国際結婚した友達が数人いるが、いずれも相手との違いについて「まぁ、エクアドル出身だからね〜」「アメリカ人だから仕方ないっしょ」とさばさばとあきらめている。
本当のところ、男女というものは、そうそう簡単には分かり合えない。なのに日本人同士だと、つい「分かってくれるはず」と期待してしまう。そこに甘さがあるのだと思う。異性には異性の文化、価値観、思考方法があり、自分とは全く異なる存在なのである。
野心だけが支えであった 精緻なる野口英世の細胞スケッチ
男性がかなり年上であるケースが多い中、野口英世は同い年(年上という説もある)のメリーと35歳の時に結婚しており、実生活のうえでも対等な関係を築いたようだ。浪費癖があり毀誉褒貶相半ばする野口だが、情濃やかな妻宛ての手紙の数々を見ると、「案外いい人だったんだな」という気になる。見当違いの方向でしゃにむに努力を重ねた野口を、わかったふうに作った自分の一首を読み返し、「申しわけない!」と思うのであった。
*松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社、2010年5月刊行)
これぞ以心伝心。さすが腹心の友♪
『アン』の最終章読みましたか?美枝さん翻訳で11月に刊行されました。
モンゴメリが「日本人と結婚」なんて聞いたら卒倒するんだろうなあ(笑)。
またまたご無沙汰してしまってゴメンナサイ!村岡美枝さんの『アンの想い出の日々』は、お楽しみにとってあります。いま慌ただしいので、少し落ち着いたらちびちびと惜しみつつ読むつもりです♪
野口シカの手紙は、文学史上に残る手紙だと思います。あれを読むと、母親というものは賢しらにアドバイスなどせず、愚かしく一心に子を愛するだけでよいのだ、と思わされます。
河合隼雄氏がどこかで書いておられたのですが、似たもの同士の夫婦は狭い川の両岸に立って網をかける漁師達のようなもので、安全だけど収穫は少ないけれど、全く対照的な夫婦は大きな川の両岸に立って網をかけるようなもので、網を引っ張り合ったりして川に落ちそうになったり危険がいっぱいなんだけど、漁をし終えた後の収穫が多い、と。
こんなことを考えていると人間というのは、なかなかだと思いますよね。「なかなか」って、どういう意味だろうと、自分で書いておいて考えている。
河合隼雄氏のたとえ話、とても面白いですね!そして、かなり違ったタイプの夫婦が、長年連れ添ううちに少しずつ似てくるということにも妙味があると思います。「なかなか」のニュアンス、すこーし分かるような気がします♪
うーん、本当は私もそう思いたいのですが、やっぱり生物学的な違いというものは存在すると思います。思考のクセというか、論理の立て方の違いというものは、教育を受けてもなお残るような気がします。