
毎週土曜日の午後には、近所の小さな女の子が2人やってくる。ピアノのおけいこなのだ。
私は音楽学校を出たわけでもないので、初めは「教えられない」と断ったのだが、親御さんは「ピアノが好きで、ひいてみたい気持ちがあるので、それを伸ばしてくれるだけでよい」という。責任重大だなあ、と思いつつ、譜読みができるくらいになれば…と引き受けた。
昨春くらいから小学5年生、秋からは4歳の子も来るようになった。4歳の子はまだ音符が読めないので、鍵盤に色をつけたマークを貼って何とかバイエルを始めたところである。
いとけなきものの小さき掌を取りて悪にみちびくごとくピアノへ
鳴海 宥
私の大好きな一首。鳴海さんは音楽学校を卒業されたプロである。小さなお弟子さんにピアノを教える情景を、こんなふうに妖しげに詠ってみせた技とセンスに魅せられる。
音楽は時に、麻薬のような「悪」になり得る。それは絵や小説も同じだろう。耽溺するくらい何かに魅了されることは必ずしも幸福ではないのだと思う。そんなことを思いつつ、昔なつかしい練習曲集や、ディズニーのキャラクターが載っている今どきの教則本を使って、毎回レッスンの真似ごとをしている。
*鳴海 宥歌集『Barcarolle ― 舟唄』(砂子屋書房、1992年10月刊行)
この歌のように、日常の場面から全く違うものを見せられたらなあ、と私も思います。ちっぽけな自分のぐだぐだした悩みやら些細なことを詠わず、詩の世界を豊かに広げたいです。
ホント、「こんなに素晴らしい歌がたくさんあるから、もう私とか作らなくていいんじゃ…」と思ってしまう時も多々あります。でも、自分にしか詠めないものがあると信じたいです。
ところで。年末におすすめした石牟礼道子のエッセイ「花の文を」はいかがでしたか。この中央公論2013年1月号に載った僅か四頁の文章が昨年のマイベストでした。これほど胸に沁みる言葉は滅多にありません。
お久しぶりです。教えてくださった石牟礼道子さんの文章、背筋がぴんと伸ばされるような思いで読みました。美しく、力ある文章に言葉を失います。駄文を綴る己の日常を省みるばかり…。
冷奴さん、
短歌を教えるよりはピアノを教える方が私には楽かもしれません。一段ずつ上ってゆくプロセスが分かりやすいので。習う方にとっても、それは同じかもしれません。ぜひ再開を♪
教えるというのは、そのもの自体があまり良く出来る人でない方が良いようですね。勉強なんかも良く出来る人は、出来ない人間の「分からない部分」が理解できないので上手く教えられないということでしょうか。もちろん、例外もあるでしょうが。
天才は人に教えたりしないで、自分で先にどんどん進んでいくほうが良いのでしょうね。そういう意味でも凡人の方が幸福なのかも知れませんね。
二人のお子さんと松村さんのピアノの時が喜びに満ちたものになりますように祈りつつ・・。
俳句の世界も多彩だと思いますが、その中に入ってしまうと客観的にはなかなか見られませんね。ピアノも数学も、ふつうの子に教えるには凡人の方がよいのでしょう。女の子たちが今よりもっとピアノが好きになれるよう、ベストを尽くしたいと思います。