恐竜の滅亡を子よとくと見よ楽しい日には終わりがあるの
先日、数年ぶりに再会した友人から、しみじみと「あの歌、好きだわ〜〜」と言われたのが、この「恐竜の滅亡」の歌である。
自分が作った歌でも、10年以上たつと他人が作った歌のように思える。確か当時は離婚して間もない頃で、私はうんとペシミスティックだった。4歳くらいだった子どもを大恐竜館なるところに連れて行った帰り、ふっと浮かんだ思いを歌にした。「結婚にも、楽しい休日にも、終わりがあるんだよ。君はそんなこと分かんないだろうけれど」
しかし、いま読み直してみると、自分の歌ながらしみじみしてしまう。「楽しい日」というのは、子どもがとても小さかった日々のように思えてならない。赤ん坊の頃、よちよち歩きの頃……子どもというものは、本当に手がかかる。けれども、あれこれ面倒を見てやれるのは、限られた時間でしかない。あっという間に大きくなり、外の世界へ出て行ってしまうのだから。
歌をつくっていて不思議なのは、こういうときだ。全く予想しなかったことが起こり、しかも、それが歌の形で先に現れていた、というとき。自分が何気なく選んだ言葉が、あとで深いところにじわじわとしみ込んでいくとき……。恐竜の滅亡を、とくと見るべきだったのは私の方であった。もっともっと、小さかった子どもを抱きしめ、一緒に絵本を読んだり歌ったりする時間が欲しかった。
☆松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(1998年、短歌研究社)
哀しい歌のはずなのに、なぜか癒される。作者が子をいとおしむ気持ちが伝わるからかしら。
うちは娘が二人、今度、高2と中1です。
十分に個性を発揮する娘たちになりました。
同時に、私の楽しい日々も・・・。
子供が小さかった頃は、私も無条件に楽しんでいました。
また、歌をつくる不思議につて、なるほどと感じました。
日記ではありませんが、今この時の気付きや思いを、
歌の形で残しておくと、自分自身にとっても
貴重な財産になるのですね。
良いお話を伺いました。
ありがとうございました。
PS
今日のお話は、先日の八朔のお話から続いているのですね。
本日の記事を、もう一度じっくり拝見し、
さらに感慨深いものがありました。
松村さんは、「恐竜の滅亡を」と十分にご覧になっていたと思いますよ。
子育ての事情は、人それぞれ・・・。
きっと松村さんは、その限られた時間の中で、
それこそ十二分にお子様に愛情を注がれて来られたはずです。
松村さんご自身の思い出としては、
もう少しという強い気持ちがあるかもしれませんが、
お子様には、きっと大きな愛情が伝わっていることでしょう。
様々な事情を言い訳にして、
子育てを放棄しているような親御さんも、たまに見受けます。
松村さんの場合は、とても忙しい仕事を持ながら、
お子様には、
八朔の皮を剥いてあげる優しさをあげて、
大恐竜館にも連れていってあげて。
その中から、人生の教訓もしっかり教えてあげようとして。
・・・
忙しい仕事ゆえ、時間が少なくなってしまうという現実さえも、
お子様に注ぐ愛の形のひとつだったのではないでしょうか。
その上、もっといろいろと思われるのは、
松村さんの更なる優しさの表れでしょう。
わが子には 十分愛情 注いでも
あれもこれもと 足りぬと感じ
ということで、十二分だと思います。
生意気言い過ぎましたね <m(__)m>
今日は寒い一日でしたが、雨上がりの夜、千鳥が淵に行ってきました。
もうピークはすぎてましたが、ライトアップされた桜、水面に揺れる桜は十分綺麗で、今年の花見のラストチャンスを楽しめました。
ところで、この歌の最初の印象ですが、なんだか大げさで大人げないなと思いました。
小さな子供をつかまえて、「恐竜の滅亡」とか、「とくと見よ」とか、ちょっといい大人が、そこまで構えなくてもいいんじゃないかなと。 いずれ子供もサンタさんがこの世に実在しないことを知る日が来るように、恐竜の滅亡を知る日がくるまでは、楽しませてあげればいいんじゃないのいう印象でした。 でも松村さんのコメントを読んで納得。 これは子供にではなく、自分に宛て読んだ歌なんだと。 それならすっきりと納得いきました。 でも、そういう松村さんが、「一つの楽しい日は終ったけれど、そのうちまた別の楽しい一日が来るんだよ。」と子供につぶやいてる姿が、下の句の優しさから感じられましたよ。
なかなか味わいのあるいい歌ですね。
わたしは子供(今は20代)に全精力をつぎ込んだと思える時期がありましたが、まだ足りない感じがあります。精神的に不安で余裕がなかったと思います。親というのはそういうものなんですよ、きっと。
それと、短歌で何か不幸なことを、フィクションとして作った場合、それが現実になるんじゃないかという不安もときどき感じます。言霊が現実を呼ぶようなこと。非科学的なのですが、その辺りが気になって、歌の内容、深く踏み込めていないと思うことありますね。
KobaChanさん、いろいろ慰めてくださってありがとうございます(涙)。本当にあたたかな言葉の数々に感激しました。
けんたろうさんの「大げさで大人げない」という評は、「あたり!」ですね。あの頃はこういう歌を恥ずかしげもなく作っていたっていうのは自覚しております。
かすみさん、「何か不孝なことを、フィクションとして作った場合、それが現実になるんじゃないかという不安」には、すごく共感します。言葉の力、ってコワイ。自分の気づかぬ潜在的な思いが、ふっと出ちゃうというような面がありますし。
ところで明日からちょっと旅に出ます。
書き込みしてくださった方にお返事できないと思いますが、ごめんなさいね。ではでは。
わかるなぁ…昔は理屈抜きで楽しかった。でもまぁ、子供との関係は私にとっては今も悩みは多いんですが(多分…笑)楽しいです。10年経てばまたあの頃は楽しかったなぁと言えるんじゃないかと思います。
男親はノウテンキにできているのかもしれません。
旅に出られるとか…お気をつけて!
私も来週はテキサス→カリフォルニアです。
短歌というものは、本当に色々な解釈ができるところが楽しく、味わい深いものだと思います。なので、ここで皆さんがコメントされていることは、それぞれにもっともで、また中には「ふ〜ん、そういう感じ方もあるのね〜」と思ったものもあって、楽しく拝見しました。
ちなみに、私の場合、自分の子どもがいないので「子育ての実感」を共有しているわけではありません。しかし、この歌からは「無情」と「有限であるからこその輝き」を理屈抜きで感じるのです。そして、だからこそ、目の前の時間を大切にしなくてはならない、ということも。
そうなんですよ、子どものいないあなたが共感してくださったことが、私にはひとしお嬉しくて。
そのことまで、あの日の文章には書ききれなくて、ちょっと気になっていました。
書き込んでくださって感激です。