2007年08月31日

ほころび

KICX1323.JPG

 一日(ひとひ)にて別るる吾子のほころびを着たるままにてつくろひやれり
                 三ヶ島 葭子


 三ヶ島葭子は、明治の生まれ。明治三十年ごろから大正にかけて「女子文壇」や「アララギ」で活躍した歌人である。病気がちで、幼い一人娘も夫の実家に預けなければならない境遇だった。この歌は、子どもが6歳だったころ、久しぶりに再会した際につくられたものと思われる。
 「一日にて別るる吾子」というのは誠に哀切である。そして、「着たるままにてつくろひ」は、子どもと過ごす時間が限られていることを何よりも示していると思う。というのも、ほころびは本来「着たるまま」でなんて繕ってはいけないものであり、きちんと着物を脱いでから繕うべきものだからである。
 外出する間際になって、もう身につけてしまった服のボタンが取れていたりスカートの裾がほつれていたりするのを発見!という事態はよくあることだ。私が子どものころ、こういう状況が生じると、母は針と糸をもってきて玄関先で繕いながら、立ったままの私に必ずある文句を唱えさせた。
 「わたくしは つねにいそもじひまもなく
    きてほころびぬうも めでたしめでたし」
 「いそもじ」は「急文字」で忙しいこと。「しゃもじ」や「ゆもじ」などと同様、女房ことばである。「私はいつも忙しくて暇がないので、こんなふうに着たままで綻びを縫う時間を持てるのも喜ばしいことです」といった意味だろうか。
 母は、この文句を江戸っ子だった祖母(私からすると曾祖母)から教わったそうだ。恐らく、着たままで繕うというお行儀の悪いことをする言いわけのような、あるいはおまじないのような言葉だと思うが、出典などはまるで分からない。どなたかにご教示いただければありがたい。
 先日、三ヶ島葭子の作品鑑賞を読んでいたのだが、この歌に関しては上の句の哀れさが強調され、下の句については「よくある場面だが」という感じでさらりと済まされていた。けれども私は、「着たるままにて」には、幼い子の世話を思うようにしてやれない後ろめたさ、無念な気持ちが濃く表われていると感じる。私の曾祖母と同世代だった葭子は、「ああ、着物を着たままで繕ってやるなんて……」と嘆息する思いだったのではないかと思うのである。
posted by まつむらゆりこ at 10:36| Comment(17) | TrackBack(1) | 元気の出る子育て短歌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ご案内の作品について、作者の境遇や事情などを伺うと、また色々なことを考えるものですね。
上の句と下の句との比較については、松村さんの解説を拝見し、後ろめたさや、無念な気持ちというのを、作者は感じていたのだろうなぁと、私も思いました。そして同時に、そのよくある場面との遭遇を、とても素直に喜ぶ気持ちもあったかもしれないと感じました。
本当のところは、作者ご本人のみが知るところだと思いますが、そのようにいろいろな捉え方、感じ方ができるということに、短歌の奥の深さを感じました。
Posted by KobaChan at 2007年08月31日 21:53
KobaChanさん、
「よくある場面との遭遇を、とても素直に喜ぶ気持ちもあったかもしれない」に、じんとしました。そうですね。小さい子をもてば、そうそう原則どおりには生活できませんものね。
下の句には、喜びと後ろめたさとがないまぜになった心境がある、と読むのが一番いいみたいです! ご指摘ありがとうございます。
Posted by まつむらゆりこ at 2007年09月01日 08:50
ご無沙汰いたしました。拝見はしておりましたが気が落ち着かぬことが続きコメントは控えさせていただいておりました。
<着縫い>は忌み事としてしてはいけないこと。と明治生まれの祖母に言われていたのを思い出し懐かしく思いました。でも、これからは松村家伝来の呪文をお借りして事なきを得たいと思います。
歌の母としての切なさもさることながら個人的には女としての哀切にも胸が塞がれます。
Posted by noko-chan at 2007年09月02日 08:35
noko-chanさん、
うわぁ、「着縫い」という言葉、初めて知りました。
そして、やっぱり「忌み事」だったんですね! とても心強く思いました。
民俗学的にこれはどういうことなんだろう、ともっと調べたくもなりました。
貴重なコメント、本当にありがとうございました。
Posted by まつむらゆりこ at 2007年09月02日 08:53
たびたび失礼します。
「忌み事」という観点から見ますと、うちの母は良く、
「出掛ける前に針を持つな。」
ということを言っていました。先程、あらためてその理由を母に確認してみたら、特に根拠らしいものはなく、
「そういうことはするもんじゃない。」
という返事しか返って来ませんでした^^;
そのことを、「出縫い針」と表現するようです。しかし、「出縫い針」を辞書で見てもそういう言葉は見当たらず、Webでも引っ掛かりませんでした。ただ、「出掛け 繕い 縁起」というキーワードで検索してみると、やはりお母様から同じような事を言われたという方の、ブログの記事が見つかりました。

http://d.hatena.ne.jp/nori-go/20061102
(「T家の日記」 2006-11-02 出掛けに針を持つな)

noko-chan様が教えてくださった「着繕い」という言葉で表現される、日常で良く見かける場面の中にも、様々な捉え方があるものですね。こういうのを調べてみるのも、面白いですね。
Posted by KobaChan at 2007年09月02日 11:57
KobaChanさん、
さっそく教えていただいたブログの記事、読んでみました。
なかなか面白いですね!
「出縫い針」という言葉にも初めて出合いました。
何だかとっても得したような気持ちです。
Posted by まつむらゆりこ at 2007年09月02日 13:07
お邪魔します。
実は私の亡き母も、「出がけに針は縁起が悪いのよ」と言い、着たままの繕いを(ぬいだたび、ぬいだたび)と、となえながらしてくれました。
それは、縫い終わるまでつづき、子ども心にも、なにか魔法のようで不思議な、父にはないオーラのようなものを、母にみたような気がいたしました。

今では、確かめようもない言葉ですが・・・
Posted by スマイル ママ at 2007年09月03日 13:28
スマイルママさん、
「ぬいだたび、ぬいだたび」と際限なく唱えるのって、何かコワイですね!
繕っているのは「足袋」ではないけれど、「足袋」に衣服全般を代表させておいて、どこかから見ているコワイ存在に「ちゃんと脱いだもん! 脱いだ足袋なんですから」と聞こえよがしに言っているんでしょうか。
「わたくしはつねにいそもじ…」より呪文みたいで面白いです。
貴重なご報告、ありがとうございました!
Posted by まつむらゆりこ at 2007年09月03日 19:30
久しぶりにコメントさせていただきます。
私の母も、呪文は唱えなかったけど、
着たまま、繕いをしようとしたときは
必ず、“脱ぎなさ〜い!”と言って脱がされてました。どんなに時間が無くても・・・。
そして、着たままはダメよ。と言われてました^。^  なんらかのいわれがあるのでしょうね!   おもしろい♪
Posted by kaorin at 2007年09月03日 21:33
「着縫い」を載せていただいた手前、事の言い出しが気に掛かり・・ずっと実家の近くに住んでいる妹に電話したのですが解りませんでした。祖母はもう居ませんし・・とにかく折があったらお年寄りに聞いてみてと頼んでおきました。「出縫い針」は私の田舎の方で「出針」と言っていたのと同じですね。歌から逸れたかもしれませんが嬉しかったです。
Posted by noko-chan at 2007年09月03日 22:08
Kaorinさん、
そうか、やっぱり「脱ぎなさ〜い!」なんですね。
呪文を唱えるよりも、きちんとしたお母様だ!

noko-chanさん、
お年寄りの方への取材、私もしてみましょう。歌の解釈としても大事なことだと思いますよ。百年たったら、分からなくなってしまうことかもしれませんし。
Posted by まつむらゆりこ at 2007年09月04日 13:44
着たまま縫ったり、出掛けの気がせいているときに縫ったりすると、けがをしやすいからだと聞いています。
「夜爪を切ると蛇が出る」という言い伝えも、昔は暗くて鋏をもつのが危なかったから、「夜口笛を吹くと蛇が出る」という諺は人に迷惑をかけないため、等々、単なる迷信みたいなものにも、それぞれ理由があるのだとか。昔の人の知恵なんでしょうね。

なにはともあれ、Tシャツも靴下も、ほころびたらすぐに捨ててしまう昨今、着たままであろうが何であろうが、子どものために針をもつ母の愛情に、懐かしさと憧れとを感じてしまいます。
Posted by もなママ at 2007年09月07日 00:39
はじめまして。
私の祖母が、着たまま服を縫う時に唱えていた歌を調べたくて、こちらに辿り着きました。
祖母の歌は「一日の御奉公忙しければ着せて着物を縫うぞめでたし」というものでした。
他にもあるのでしょうかね。
祖母にあらためて聞いてみようと思いました。
Posted by チェシャネコ at 2007年11月15日 16:33
チェシャネコさん、
初めておなじような「歌(呪文?)」をご存知の方に出会えて感激です。
ほかに、どんなバージョンがあるか、私も調べ続けようと思います。
Posted by まつむらゆりこ at 2007年11月15日 17:47
初めまして。どうぞよろしく!!

「弘法は旅の衣にイソガレテ着ていてものを縫うぞめでたし」というのです。イソガレテなんて言葉が少し怪しいとは思いますが。弘法様までひっぱりださないと、駄目なんでしょうね。
Posted by ジュピター at 2010年11月23日 14:24
ジュピターさん、
おお、弘法が登場するバージョンは初めてです!
ちゃんと三十一文字になっているし、「イソガレテ」という敬語も可笑しくて味わい深いですね。
「こんなこと書いたんだ」「うわぁ、皆さんにいろいろ教えていただいたんだ」と久しぶりに思い出しました。こんな昔のものまで読んでくださって、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
Posted by まつむらゆりこ at 2010年11月23日 16:51
初めまして。会社で着たままボタン付けをしていた人がいて、ふと・・・
着たまま縫いの時の歌を思い出しましたが、
忘れていて、調べてみたら、ここにたどり着きました。
私も、ジュピターさんと前半は同じだったように思います。
「♪弘法は旅の衣にイソガレテ着て〜縫うぞ〜縫うぞ〜よろしく〜」
だったと、思います。
縫うぞ〜縫うぞ〜よろしく〜
だけは、はっきり覚えてます。(笑)
Posted by みえっぴ♪ at 2013年10月01日 21:00
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

着たまま服のほころびを縫うときの呪文
Excerpt: 一日の 御奉公忙しければ 着せて着物を縫うぞめでたし 私が子どもの頃、着ていた服のボタンが取れたりした時に、父方の祖母がこの歌を唱えながら縫ってくれていました。 着たまま服を縫うことは縁起が悪いか..
Weblog: チェシャネコの日々。
Tracked: 2007-11-15 16:36
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。