一日(ひとひ)にて別るる吾子のほころびを着たるままにてつくろひやれり
三ヶ島 葭子
三ヶ島葭子は、明治の生まれ。明治三十年ごろから大正にかけて「女子文壇」や「アララギ」で活躍した歌人である。病気がちで、幼い一人娘も夫の実家に預けなければならない境遇だった。この歌は、子どもが6歳だったころ、久しぶりに再会した際につくられたものと思われる。
「一日にて別るる吾子」というのは誠に哀切である。そして、「着たるままにてつくろひ」は、子どもと過ごす時間が限られていることを何よりも示していると思う。というのも、ほころびは本来「着たるまま」でなんて繕ってはいけないものであり、きちんと着物を脱いでから繕うべきものだからである。
外出する間際になって、もう身につけてしまった服のボタンが取れていたりスカートの裾がほつれていたりするのを発見!という事態はよくあることだ。私が子どものころ、こういう状況が生じると、母は針と糸をもってきて玄関先で繕いながら、立ったままの私に必ずある文句を唱えさせた。
「わたくしは つねにいそもじひまもなく
きてほころびぬうも めでたしめでたし」
「いそもじ」は「急文字」で忙しいこと。「しゃもじ」や「ゆもじ」などと同様、女房ことばである。「私はいつも忙しくて暇がないので、こんなふうに着たままで綻びを縫う時間を持てるのも喜ばしいことです」といった意味だろうか。
母は、この文句を江戸っ子だった祖母(私からすると曾祖母)から教わったそうだ。恐らく、着たままで繕うというお行儀の悪いことをする言いわけのような、あるいはおまじないのような言葉だと思うが、出典などはまるで分からない。どなたかにご教示いただければありがたい。
先日、三ヶ島葭子の作品鑑賞を読んでいたのだが、この歌に関しては上の句の哀れさが強調され、下の句については「よくある場面だが」という感じでさらりと済まされていた。けれども私は、「着たるままにて」には、幼い子の世話を思うようにしてやれない後ろめたさ、無念な気持ちが濃く表われていると感じる。私の曾祖母と同世代だった葭子は、「ああ、着物を着たままで繕ってやるなんて……」と嘆息する思いだったのではないかと思うのである。
上の句と下の句との比較については、松村さんの解説を拝見し、後ろめたさや、無念な気持ちというのを、作者は感じていたのだろうなぁと、私も思いました。そして同時に、そのよくある場面との遭遇を、とても素直に喜ぶ気持ちもあったかもしれないと感じました。
本当のところは、作者ご本人のみが知るところだと思いますが、そのようにいろいろな捉え方、感じ方ができるということに、短歌の奥の深さを感じました。
「よくある場面との遭遇を、とても素直に喜ぶ気持ちもあったかもしれない」に、じんとしました。そうですね。小さい子をもてば、そうそう原則どおりには生活できませんものね。
下の句には、喜びと後ろめたさとがないまぜになった心境がある、と読むのが一番いいみたいです! ご指摘ありがとうございます。
<着縫い>は忌み事としてしてはいけないこと。と明治生まれの祖母に言われていたのを思い出し懐かしく思いました。でも、これからは松村家伝来の呪文をお借りして事なきを得たいと思います。
歌の母としての切なさもさることながら個人的には女としての哀切にも胸が塞がれます。
うわぁ、「着縫い」という言葉、初めて知りました。
そして、やっぱり「忌み事」だったんですね! とても心強く思いました。
民俗学的にこれはどういうことなんだろう、ともっと調べたくもなりました。
貴重なコメント、本当にありがとうございました。
「忌み事」という観点から見ますと、うちの母は良く、
「出掛ける前に針を持つな。」
ということを言っていました。先程、あらためてその理由を母に確認してみたら、特に根拠らしいものはなく、
「そういうことはするもんじゃない。」
という返事しか返って来ませんでした^^;
そのことを、「出縫い針」と表現するようです。しかし、「出縫い針」を辞書で見てもそういう言葉は見当たらず、Webでも引っ掛かりませんでした。ただ、「出掛け 繕い 縁起」というキーワードで検索してみると、やはりお母様から同じような事を言われたという方の、ブログの記事が見つかりました。
http://d.hatena.ne.jp/nori-go/20061102
(「T家の日記」 2006-11-02 出掛けに針を持つな)
noko-chan様が教えてくださった「着繕い」という言葉で表現される、日常で良く見かける場面の中にも、様々な捉え方があるものですね。こういうのを調べてみるのも、面白いですね。
さっそく教えていただいたブログの記事、読んでみました。
なかなか面白いですね!
「出縫い針」という言葉にも初めて出合いました。
何だかとっても得したような気持ちです。
実は私の亡き母も、「出がけに針は縁起が悪いのよ」と言い、着たままの繕いを(ぬいだたび、ぬいだたび)と、となえながらしてくれました。
それは、縫い終わるまでつづき、子ども心にも、なにか魔法のようで不思議な、父にはないオーラのようなものを、母にみたような気がいたしました。
今では、確かめようもない言葉ですが・・・
「ぬいだたび、ぬいだたび」と際限なく唱えるのって、何かコワイですね!
繕っているのは「足袋」ではないけれど、「足袋」に衣服全般を代表させておいて、どこかから見ているコワイ存在に「ちゃんと脱いだもん! 脱いだ足袋なんですから」と聞こえよがしに言っているんでしょうか。
「わたくしはつねにいそもじ…」より呪文みたいで面白いです。
貴重なご報告、ありがとうございました!
私の母も、呪文は唱えなかったけど、
着たまま、繕いをしようとしたときは
必ず、“脱ぎなさ〜い!”と言って脱がされてました。どんなに時間が無くても・・・。
そして、着たままはダメよ。と言われてました^。^ なんらかのいわれがあるのでしょうね! おもしろい♪
そうか、やっぱり「脱ぎなさ〜い!」なんですね。
呪文を唱えるよりも、きちんとしたお母様だ!
noko-chanさん、
お年寄りの方への取材、私もしてみましょう。歌の解釈としても大事なことだと思いますよ。百年たったら、分からなくなってしまうことかもしれませんし。
「夜爪を切ると蛇が出る」という言い伝えも、昔は暗くて鋏をもつのが危なかったから、「夜口笛を吹くと蛇が出る」という諺は人に迷惑をかけないため、等々、単なる迷信みたいなものにも、それぞれ理由があるのだとか。昔の人の知恵なんでしょうね。
なにはともあれ、Tシャツも靴下も、ほころびたらすぐに捨ててしまう昨今、着たままであろうが何であろうが、子どものために針をもつ母の愛情に、懐かしさと憧れとを感じてしまいます。
私の祖母が、着たまま服を縫う時に唱えていた歌を調べたくて、こちらに辿り着きました。
祖母の歌は「一日の御奉公忙しければ着せて着物を縫うぞめでたし」というものでした。
他にもあるのでしょうかね。
祖母にあらためて聞いてみようと思いました。
初めておなじような「歌(呪文?)」をご存知の方に出会えて感激です。
ほかに、どんなバージョンがあるか、私も調べ続けようと思います。
「弘法は旅の衣にイソガレテ着ていてものを縫うぞめでたし」というのです。イソガレテなんて言葉が少し怪しいとは思いますが。弘法様までひっぱりださないと、駄目なんでしょうね。
おお、弘法が登場するバージョンは初めてです!
ちゃんと三十一文字になっているし、「イソガレテ」という敬語も可笑しくて味わい深いですね。
「こんなこと書いたんだ」「うわぁ、皆さんにいろいろ教えていただいたんだ」と久しぶりに思い出しました。こんな昔のものまで読んでくださって、本当にありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
着たまま縫いの時の歌を思い出しましたが、
忘れていて、調べてみたら、ここにたどり着きました。
私も、ジュピターさんと前半は同じだったように思います。
「♪弘法は旅の衣にイソガレテ着て〜縫うぞ〜縫うぞ〜よろしく〜」
だったと、思います。
縫うぞ〜縫うぞ〜よろしく〜
だけは、はっきり覚えてます。(笑)