紅玉のような母たち子らよりもつやつや悦楽の心光らす
古谷 円
リンゴの中では、何と言っても紅玉がおいしいと思う。傷みやすいのか、店頭に並ぶ時期は短く、あまり大量に出回らない。そして、他の品種よりもやや高いのがカナシイ。焼きリンゴやジャムに適している品種なのだが、これを丸かじりするのが好きである。
オルコットの『若草物語』の初めの方に、次女のジョーが屋根裏部屋で本を読みながらリンゴをかじるシーンがあり、子どものころからジョーになりきってリンゴをかじっていた。エリナー・ファージョンの『リンゴ畑のマーティン・ピピン』も大好きな物語で、紅玉を食べるたびに「イギリス人が自慢するコックス・オレンジ・ピピンというのは、こんな味ではないかしら」と想像する。
そんな紅玉ファンの私だが、この歌には戸惑った。「紅玉のような母たち」とは、どんな女たちなのだろう。甘ったるくなくて、適度な酸っぱさを備え、きびきびと立ち働く……? よく子どもの頬を「リンゴのようなほっぺた」と形容するが、ここでは、母親たちの方が子どもたちよりもリンゴのようにつややかに、「悦楽」を得ようと貪欲に生きている、といった意味にとった(ルビーの意味の「紅玉」ではないだろう)。「悦楽」の内容は読む人次第。女性のしたたかな一面を鋭く突いているが、作者はよい人なので、それほど意地悪な気分ではなく、同性のそういう面をおもしろがって詠んだように感じる。だから、酸味のさわやかな「紅玉」なのだと思う。ちょっと小ぎれいで、ちゃっかりしていて憎めない「母たち」。「私も紅玉かもね」と思う作者の、おっとりとしたやさしさも感じられ、不思議な魅力が漂う。
☆古谷円『千の家族』(角川書店、2007年1月出版)
私にしてはめずらしく、「紅玉」という言葉を辞書で引いてみましたら、ルビーという意味の他に、「若く、肌がつやつやして血色のよいこと。また、美しい容貌のたとえ。」とありました。したがいまして、この言葉をそのまま「母」につなげてよろしいのではないでしょうか^^
端的に言えば、「若々しい母」という表現が無難(?)なところかも^^;
その「紅玉のような母」を演出する「悦楽の心」には、ドキっとするような憶測も生まれますが、まあそういった読み手の計らいごとはともかく、「若々しい母」と解釈した場合には、りんごのイメージと重なった爽やかな印象を持つことが出来ると思いますが、いかがでしょうか。
その「りんごのイメージ」というのは、「リンゴの唄」という名曲に代表されるくらい、明るいものがあると思います。
リンゴについて個人的には、学生時代のマラソン大会のあとに食べたリンゴが、本当に美味しかったぁ、という思い出があります。
あっ、今日はなんか、肌がつやつや!
by 紅玉のような父 からでした^^;
私は毎年必ず紅玉を買ってお酒をつくるの。
もちろん生でもいただきます。「すっぱい」って子ども達は言うけれど。
これはつかのまの芳醇さなのだよ。若さと成熟を同時に感じさせてくれる特別なリンゴなんだから♪君たちにはまだわからないだろうけどね☆
・・・って言って内心楽しんでる、若さと成熟のはざまの「母」なのかしらん(笑)。
一方、時を経ておいしいリンゴ酒になる紅玉たちは、台所のタイムカプセルです♪また飲みに来てね☆
リンゴ酒、本当においしいものね♪
(去年はすぐに飲んじゃいました。ごちそうさまでした)
KobaChanさん、
うわぁ、マラソン大会のあとに食べたリンゴの思い出、ってさわやかですねえ。
「紅玉」が「美しい容貌のたとえ」というのは知りませんでした! 紅顔の美少年、みたいな「紅」なのでしょうか。
いろいろ教えてくださって、ありがとうございます。
『千の家族』のなかで好きな歌は沢山ありますが「風景は目の奥へ手を伸ばしきてわが心棒をゆさりとつかむ」「東海の小島の道をひた走る人は微力であるから楽しい」などが心にあります。
ざっくり作ったきんとんと紅玉りんご、おいしそうですね! 私の母も、時々お正月に作っていましたっけ。彩りもいいんですよね♪
古谷さんの歌集、ほかにもいい歌がたくさんありますから、また皆さんに紹介しなくては。
子らよりも、という点と、
悦楽の心、という表現のなかみに、
思いをめぐらしています。
小さい紅玉りんごを子供のほうではなくママたちの比ゆにもってきていて、子連れの集いで、ママのほうたちが場の主役のような雰囲気でしょうか。ママたちは、まだ若めのような気もします。笑いさざめきながらお喋りに興じているのかしら?悦楽の心・・・これは、悦楽を求める、ではなくて、心そのものの状態を示しているのではないかしら?
場面を直観的に描いている中に、作者のものごとの気づき方の特徴がよく出ているようです。明暗にさとく、ネガティブなものを抉る目もあるようです。それをあまり舌鋒鋭く批判せず、現実受容しながらも、やはり作者はけして彼女達を優しくは見ていない、作者は輪の中にいながらも、意外と冷静な距離をとって傍観している、そう感じ取りました。
とってもシャープな批評をありがとうございます!
現実の場の雰囲気を詠ったものだというのは、全くそうだなあ、と思いました。「明暗にさとく、ネガティブなものを抉る目」「あまり舌鋒鋭く批判せず、現実受容しながらも……けして優しくは見ていない」という分析にも感服です。この歌の作者もきっと「わが意を得たり!」と思うに違いありません。
すっぱくて小さな紅玉を食べながら、ああ私たちにそっくりという気がしていました。
まつむらさんの文章、皆さんの素敵なコメント、楽しく拝見しました。
「紅玉」は「美しい容貌」という意味なんですね。
まつむらさん、皆さん
どうもありがとうございました。
ご本人の自解を聞いてしまうと、あらら、でした。
どんぐり拾いや松ぼっくり採り、という内容に、とりわけびっくりしました。パーティー会場で着飾ったセレブママを連想していた自分の世界との異質性に、作品はひとりあるきする、ということ、解釈は思い込みである、ということ、よくわかりました。
ママになっても、必ずしも子育てオンリーにはならず、自己実現欲求がくすぶる・・・フルタイムキャリアであっても、
それでおさまらない・・・
短歌という自己表現に多くの女性が賭ける背景の現実を、かいまみた気もしました。
シャープだなんて、恐縮でした。いやいや、甘かったです。天国のようなところにいて、言葉が紡ぐ世界を、作者を捨象してニュートラルに楽しむ、そんな読者もうけいれてくださって、松村さん、ありがとうございました。
みんなであなたの歌を楽しみました。
古谷さんの独特の喩は本当に魅力的で、謎めいているところもまたよいのです。
くるみさん、
ここで力説しておきますが、歌に関しては自解がベストとは思いません。
ご本人の「松ぼっくり採り」というコメントには、私も「あらら…」と肩すかしをくった感じでした。
それはそれで微笑ましいエピソードですが、「悦楽」という言葉には、作者が何と言おうと、ちょっぴり「悪の華」的な、いけない(!)ニュアンスが含まれると思います。
くるみさんの解釈、とっても素敵です。
古谷さんは、たまたまこのタイミングで書き込んでくださったのだと思います。歌を楽しむうえで「失礼」なんてことありませんよ。
一生懸命読むのですが、まだまだとんちんかんです。人生/読書経験豊かな松村さんの「歌をふくよかにする読み」に、毎度膝を打っています。
偶々ぽろりと素顔をのぞかせてくださった作者も、松村さんの「いけないニュアンス」との解釈には、笑ってくださってるでしょう。魅力ある一首でしたね。「悪の華」なんて持ち出されると、早や松ぼっくりはかき消え、妄想の中で妖しいくちなわと林檎が絡み合っております。
当該歌集からの紹介、また期待しますね。
作者さんの、その時々の想いから作られる短歌。
それを、それぞれの想いで共感したり、解釈したりする読者。
三十一音のシンプルな歌から、無限の楽しさが広がりますね。
短歌って素晴らしいなあと、またあらためて感じた次第です。