宮崎の豊かな自然に親しみ、その中で抒情を育んできた歌人の、円熟味あふれる第十歌集。
特に惹かれたのが、月を詠った作品である。作者の第二歌集のタイトルは『月語抄』であり、第五歌集には「月光が訛りて降るとわれ言へど誰も誰も信じてくれぬ」という、ちょっと不思議な名歌が収められている。この歌集でも、月がさまざまに詠われていて、「月の歌人」と呼びたくなってしまう。
人の世の人みなさがれといふごとく月輝けばどこにさがらむ
月光に照らされ白き鹿の妻 近づくことをわれ遠慮せり
寒の夜半交尾を終へてやすらへるかたちにしづむ上弦の月
一首目は、「みな下がれ」と言わんばかりに皓々と照る月への畏れが伝わってくる。美しさを称えつつ、どことなく飄逸な感じも漂わせていて楽しい。二首目は、本当の牝鹿ではなく、白い鹿のような作者の妻であろう。神話のような趣と共に、慎ましい夫婦関係を思わせて味わい深い。三首目は、全く思いがけない比喩であり、作者ならではの発想である。もっと細い三日月ならば、魚を連想して「交尾」という言葉が出てきても不思議ではないが、「上弦の月」の充足感を感じとっているところが面白い。
夜のふけをわれの矢的に帰る道はるかに高き月とひきあふ
神の矢はするどかりけむ高千穂峰より的となりたるこの地
「われの矢」を詠った一首目は、「高き月とひきあふ」という見えない緊張感がリアルに迫ってくる。二首目は「高千穂峰(たかちほのみね)」という、天孫降臨の伝説のある地名が「神の矢」と豊かに響きあっている。「的」という捉え方は独特であり、「われの矢」「神の矢」とは何だろう、といろいろに想像させる。
わがうちに熊襲棲むはずがこの頃は留守の多しよ人に言はねど
気味悪き人とふものの一人とし原生林を傘さし歩む
人間的な弱さや自身の存在への違和などを詠った作品もユニークで、一首一首立ち止まるようにして読んだ。歌集の後記には「私の暮らす宮崎の空は広く、大きく、いつもなぜかなつかしい。毎日眺めていて、その豊かな刻々の表情は見倦きることがない」と記されている。まさに、宮崎の空を思わせる大どかな一冊といえよう。
☆伊藤一彦歌集『微笑の空』(角川書店・2007年12月出版・税別2571円)
【関連する記事】
うつくしく、冷たく、妖しく、それでいてどこか温かく…。
いつも同じ顔しか見せないくせに、いつまで見つめていても飽きさせないのよね。
そんな女になりたいなあ。。。(笑)
衛星「かぐや」の映像は本当に素晴らしかったですね!
月って、いろいろな国のことばで女性名詞なのが不思議なような、納得するような……。
幸い今日は晴天なので、散歩をしながら眺めて来ようと思います。
それはさておき、月の光はとても神秘的ですね。聞いた話によれば、月の光からは癒しが得られるとか。
ご案内の伊藤一彦さんは、月に対して様々な捉え方をお持ちなのだと思いますが、歌を詠みながら、きっとたくさんの癒しも得ていらっしゃるのだろうと思いました。
冬の夜空はとても綺麗ですね。寒いけど^^
関東の冬の空は、日中も夜も澄みわたっていて、本当にきれいですね! 私の郷里の福岡は、日本海側だから冬は曇天が多かった記憶があります。
もっと空を見上げて、ぼんやりといろいろなことを考えたいな、と私も思いました。
月、自らは光を放つことが出来ない悲しさが、なんだか良いです。。。
「どうして?」って聞いたら、「だってうしろからついてくるもん」って(笑)。
それ以来、月はわが家のお友達です。
娘は忘れちゃってるかもしれませんけど。
すてきなコメントをありがとうございます!
いろいろな分野のことを短歌と重ねて読む豊かさを思いました。
もなママさん、
いい話! 小さい子にとって、月は不思議なお友達ですね。なんだかアンデルセンの「絵のない絵本」を思い出しました。