2008年01月04日

永田紅さんの歌集

『ぼんやりしているうちに』

ぼんやり.JPG

 ふんわりとした上質のカステラのような歌集だと思う。混ぜものがなく、控えめな甘みがやさしくて、読むほどに心が慰められる。

  ローソンへ夜食を買いに 図書館へ本を返しに ついてゆきけり
  一瞬のああそのような印象を大切として人を記憶す
  忙しきほうが時間のあるほうをさびしくさせて葉を毟らしむ


 この作者の恋の歌には、「言ってしまわない巧さ」のようなものがある。
 「ローソンへ」の歌では、夜食を買ったり図書館へ行ったりするのが作者自身なのかな、と思っていると、最後で、そういう誰かに作者が嬉々としてついて行っていたことが分かる。
 「一瞬の」の歌は、どんな場面の「印象」か言わないところに、読む人がさまざまに自分の思いを重ねられるよさがある。ちょっと照れたように笑う、とか、ふとした瞬間の孤独な面持ちだとか、いろいろあるだろうが、それを「大切として人を記憶す」と穏やかに収めた表現に余韻を感じる。
 三首目の「忙しきほう」は、恐らく恋人、ないしは憎からず思う人である。歌集の前後の歌を読むと、大学院生の作者と就職を果たした彼が再会する、という場面であり、学生時代と少し変化した彼を寂しむ思いが滲んでいるからだ。「私はさびしくて葉をむしる」と言ってしまわず、双方を公平に見つめているのが、この人らしい。

  夕闇の培養室に居てわれはセレンディピティを夢見ていたり
  誰に見せる顔でもなくて自らの作業へ向けたる集中ぞよき
  精神は物質なれば苛立ちもそんなものかとやり過ごすべし


 ライフサイエンスの分野で研究する作者である。大きな新発見を夢見る気持ちや、実験などの作業への集中は、門外漢にもすがすがしい印象を抱かせる。三首目は、シュレディンガーの名著『精神と物質』を思い出したりもするが、心の動きも物質の働きによるものだという認識と、そうは言っても割り切れない思いがない交ぜになっていて面白い。
 この歌集の大きな魅力は、研究生活と個人の日常がごく自然に描かれていることだろう。世界中の研究者たちが実験に用いる細胞株「HeLa細胞」を素材にした一連や、実験動物や酵素を詠った作品には、作者独自の世界の把握、深い考察がよく表われており、惹きつけられる。
 
  試験管のアルミの蓋をぶちまけて じゃん・ばるじゃんと洗う週末
  岡村孝子に似たると言われ菱沼聖子のような生活をながく続ける


 おっとりしたユーモアと明るさは、この作者の魅力の一つである。「じゃん・ばるじゃん」の音の楽しさ、人気コミック『動物のお医者さん』の登場人物、菱沼さんをもってきてしまうところ(性格は違うが、本当に似ていると思う!)など、思わずにこにこしてしまう。
 何度も繰り返し読みたくなる、大らかで温かな一冊である。

☆永田紅歌集『ぼんやりしているうちに』(角川書店・2007年12月出版・税別2571円)


posted by まつむらゆりこ at 12:12| Comment(9) | TrackBack(0) | 歌集・句集の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
松村さん、こんにちは。
とても深みのある歌集のようですね。
恋や日常を詠った作品には、とても親しみが感じられます。
また、作者の方の研究者の面を歌った作品と、それをご紹介される松村さんの文章、すごいですねぇ。
松村さんの著書「物語のはじまり」で、松村さんが、科学の分野の歌をご紹介された箇所を思い出しました。
今回ご案内いただいた科学の作品には、作者自身の専門分野を率直に表現され、一般の読者にも科学の世界の一端と、その楽しさを伝えている素晴らしさがあるように思います。そして、それをご紹介される松村さんの文章も、まさに松村さんならではのもので、本当に素晴らしいです。

今年も「そらいろ短歌通信」を楽しませていただきます。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
Posted by KobaChan at 2008年01月05日 11:25
あけましておめでとうございます。当分「き」を取ってこの名前でよろしくお願いします。
永田紅さんの歌集読んでみたいなと思っていたので、紹介いただいてうれしいです。
培養室とセレンディピティの取り合わせ、精神は物質。。じゃんばるじゃんも面白いです。
科学者にして歌人、やっぱりDNAが違うのかな。
Posted by いぶ at 2008年01月05日 14:19
KobaChanさん、
この歌集、本当にお薦めなんですよ!
飾らない作者の人柄が感じられ、じんわりあったかくなります。
今年もどうぞよろしくお願いします。

いぶさん、
「いぶき」もよい響きですが、新しいお名前はEve みたいで、とても素敵です。
専業の歌人というのは、ほとんどいないといってよいと思います。誰もがみな、「○○にして歌人」なのだから、お互いに頑張りましょう!
Posted by まつむらゆりこ at 2008年01月05日 15:17
ああ、本当だなあ、と思いながら味わいました。
「忙しきほうが時間のあるほうをさびしくさせる」のよね。

そして、変わっていくほうが、変わらないほうをさびしくさせる…。

たぶん、千年経っても男と女は変わらないんでしょうね。
Posted by Lucy at 2008年01月05日 17:17
Lucyさん、
深い! 深いです。「変わっていくほうが、変わらないほうをさびしくさせる」ところまで読み取るとは。
忙しいと悪しき変化を遂げてしまうのかな、人間は。
Posted by まつむらゆりこ at 2008年01月05日 22:23
菱沼聖子は永田和宏さんの歌集にも出てきます。人気のキャラなんでしょうね。
Posted by もりじり at 2008年01月06日 18:16
もりじりさん、
あっ、そういえば……うーむ、探したけれど見つかりません。どの歌集だったかな。
もしかすると、お父上への挨拶歌だったのかもしれませんね。
Posted by まつむらゆりこ at 2008年01月07日 10:01
「菱沼聖子」!!!

なつかし〜い!!!(絶叫)


似てるって言われたことがありますが、残念ながら顔じゃなかった。
Posted by もなママ at 2008年01月09日 09:49
もなママさん、
まあ、菱沼さんに似ていると言われたことがあるなんて。ちょっと舌足らずなところかしらん。個人的には、ゆっくりしゃべる(大竹しのぶみたいな)イメージを彼女に抱いています。雰囲気が似ているなんていいじゃありませんか。
Posted by まつむらゆりこ at 2008年01月09日 11:14
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