りんてん機今こそ響け。うれしくも、東京版に雪のふりいづ。
土岐 善麿
輪転機が高速で印刷しているところを見るのは、いくつになっても心躍るものである。勤めていた新聞社の社屋にまだ輪転機があった頃、夜遅く地階へ降りると印刷の始まった鈍い音が響き、胸がわくわくした。地階にはインキが強く匂っていた。
社内では、輪転機のことを「りんてん」と略して呼んでいた。「昨日はとんでもない間違いが見つかったもんで、りんてん止めて大変だったんだ」などと使う。働いた20年の間に「訂正」や「おわび」は何回か出したが、「りんてん」を止めるようなことにはならなかったことを喜ぶばかりである。
メディアの仕事は、ある意味「虚業」だと言ってよい。自分では何ひとつ作り出さないからだ。取材先に行って得た情報を加工して流す仕事に、何か後ろめたさを感じることは多々あった。ある人が長い年月をかけて研究した成果を、たった1時間の取材で手早く原稿にまとめるときなど、自分が略奪者になったような気がしたものだ。けれども、輪転機が回る様子を見ると、「自分もモノ作りの一環にかかわっているんだ」という気持ちになれた。
この歌は、「りんてん機」という言葉の響きが不思議に「雪」の明るさと合っている。下の句は、最終版である「東京版」が刷り上がる頃になって、雪が降り出した、という意味だろう。けれども、「都内に雪が降ったという記事が東京版に載っている」と、紙面の中に雪が降っているように解釈しても悪くない気がする。
作者は全国紙の記者として勤務した。この歌はまだ20代の頃に作られたものだから、彼は輪転機の音に十分わくわくさせられたと思う。作者の撮った雪景色の写真が東京版に掲載されていたのかな、なんて想像してしまう。インキの匂いと雪片が舞う様子が一緒に感じられ、とても好きな歌である。
輪転機の歌で、石川啄木の「京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかな」を思い出しました。新聞(社)を歌ったものってけっこうあるのかな?
善麿と啄木は別の新聞社だったのに、つながりは深かったようで、啄木の死後刊行された第2歌集「哀しき玩具」のタイトルは善麿がつけたとか。歌人同士の交流もけっこうあったんでしょうね。
勤務先にて、コピー機が主流の時代にあって、
それでも経費節減の大号令がかかった時に、
大量の印刷物は輪転機で行うようにと、
指示されたことがあります。
その時は確か、(記憶に間違いがなければ^^)
今は懐かしい「藁半紙」に印刷していたような・・・。
私見ですが「輪転機」と「藁半紙」とは、
妙に絶妙のコンビのように思えます。
今日は「輪転機」という言葉から、
そんな懐かしさを感じました。
うわぁ、いろいろお詳しいですね。啄木の歌集を読み返してみなければ。
冷奴さん、
「七人の刑事」……さすがに知りませんが、見てみたかった!
「もう輪転が回ってます」というのは、カッコいい台詞ですねえ。
KobaChanさん、
「藁半紙」もまた懐かしいものです。
新聞の巨大なロール紙が回る様子しか知りませんが、小さな輪転機もあるんですね!
メディアは「虚業」?
そんなことはないでしょう…常に現実とむきあっているのだから!
あら、南天ですか? 千両かな、万両かな、なんて思っていたのですが。
満点、進展……何だか楽しくなりました。
という一言に作者の心躍るような、気持ちが弾んでいるような、「動」を感じました。
「りんてん機」という言葉は宮澤賢治の「ポラーノの広場」のラストに出てきたような記憶があります。
「メディアの仕事は、ある意味「虚業」だと言ってよい」「けれども、輪転機が回る様子を見ると、「自分もモノ作りの一環にかかわっているんだ」という気持ちになれた」というお気持ち、なるほどと思いました。
やはり記者出身の作家・横山秀夫さんが「クライマーズ・ハイ」という小説の中で、新聞社の各部署どうしの軋轢を描いている場面を読んで、新聞社の仕事というと真っ先に記事を書く人を連想しますが、配達する人がいて、広告営業する人がいて、印刷する人がいて、配送する人がいて、成り立っているんだと思いました。
当時鉄筆で下書きしたものを、輪転機に
かけるのですが、必ず紙詰まりしたり
インキ切れになったり、手を真っ黒にしながらの格闘でした。
「女はいいよな、ちょっとベソかくと誰かが助けてくれるから〜」
と陰口をいわれるのが嫌で、人けの無くなった夜、孤独に対決していました。
勿論、新聞社にあるような大きな輪転機ではなかったのですが・・・。
賢治の「ポラーノの広場」の場面を思い出してくださったなんて、感激です!
そして、新聞社のいろいろな部署の人のことまで考えてくださったこと、すごく嬉しいです。活版の職場のおじさんたちのことなど、今もなつかしく思い出す私です。
スマイル ママさん、
おお! 貴重な輪転機の思い出を記してくださって、ありがとうございます。きりりと働く女性の姿が浮かんできて、切なくも誇らしいような気持ちになりました。いいお話です。
メディアはむしろ、おそろしいほどの責任あるモノつくり業だと思います。言葉や情報は凶器にもなりますから。松村さんの短歌紹介は有意義な実業でらっしゃいますね。先日からとても楽しく愛読中です。洗濯機いまこそ回れ、という日々は、虚業か実業か、しばし考え込みました。この歌の心踊りや責任感のようなものは共有できるのかどうか。虚しい単純労働、という気分は否めないまま、この歌を口ずさんでみました。白く洗いあがったシャツが、わが東京版、というわけです。詩歌を創ることも実業では?と思える瞬間です。読者をも解釈をも狭く限定しないことで、この職場の歌も、第一級の実業の産物に思われるのでした。
「洗濯機いまこそ回れ」というフレーズ、傑作ですね! 東京版よりも「白く洗いあがったシャツ」の方が素敵です。
子どもの本の専門店という大切なお仕事をなさっていても「後ろめたさ」を感じることがおありだなんて、驚きました。
子どもと直接話ができるのが強みですね。
私も、このブログはいろいろな方が率直に意見や感想を書いてくださるので、とても励みになります。特に短歌になじみのない方がいろいろ書いてくださるのが、すごく嬉しいのです。
時々「見当違いのことを書いてゴメンナサイ」などと恐縮して書き添えてくださる方もいますが、そんなことは決してないのです。ことばは生きものですし、人の感受性はそれぞれ。私だって、とてもへんてこな解釈をしているときが、きっとあるに違いありません。
どうぞ、ご自由に書き込んでくださいね。
そういう楽しい場にしたいと考えて、このブログをつくっているのですから。