象の前で幼い私を笑わせてシャッターを押した母の歳になり
小林さやか
明るくて、元気者のおかあさんの様子が髣髴される。作者が幼稚園か小学校に通っていたころに、動物園で撮影した写真があるのだろう。そこには、屈託なく笑った、とてもいい顔の作者が写っている。写真を写されることをほとんど意識していない子どもの笑顔は、本当にいいものだ。
作者は、小さかったときの自分の姿を見るのも嬉しいが、写されたときのおかしかった状況もよく覚えていて、飄軽なことを言って自分を笑わせた母の若さを思う。そして、現在の自分が、その時の母と同じ年齢になってしまったのだという驚きをしみじみと感じる。歌集を読むと、この歌は作者が出産を経験する前の作品なので、感慨もひとしおだったに違いない。
「象の前で」というのが、とても具体的であたたかな感じを出している。丁寧に描写された全体から、「さやちゃーん、写すよ!」と声ものびやかにカメラを構える若い母親の姿が浮かんでくる。同時に、同一人物である小さい女の子と若い女性の姿が重なり合う、という効果も図られていて味わい深い。
ところで、私が生まれたとき母方の祖母は年女だったのだが、今年、私は同じ年齢の年女になる。昔の人は、結婚も出産も早かったのだが、「祖母の歳になり」には複雑な思いに駆られる。この歌では、「母」が恐らく20代と若いことが一つの魅力になっていると思う。かつての母の若さ、というものは、どうしてこんなに切なく思えるのだろう。
☆小林さやか歌集『空から来た子』(ながらみ書房、2007年7月刊行)
しっかり年輪を刻んできたんですね。
歌やコメントへの感想でなくてゴメンナサイ。
そうなんですよ、「しっかり」かどうかは分かりませんが。
年齢と共に、歌の読み方も作り方も変わってくるということを楽しもうと思っています。
私は自分の妻より若い母と一緒に並んで土手に座っている写真が好きです。
子供のころもその写真は好きでしたが、その写真を見たときに心の中にわきあがる思いは齢を重ねるにつれにつれ変わっていきますね。
ちなみに当然ながら私も年男です…
という考えを広げた時、やはり人は常に新しい日を迎える毎に、新しい何かを学ぶのかもしれませんね。
「母の歳」のお話を伺いながら、そういうことを感じました。
幼い日の1枚の写真を前に、過去と現在という2つ時間と、写真を写した動物園とその写真を眺めている自分のいる場所という2つの空間が、作者の中で融合していく様が見えるようです。
そしてそこに込められた母親への思い。
素晴らしい歌をご紹介いただき、ありがとうございます。
ご結婚なさった当時の奥様よりも若いお母様のお写真、ということでしょうか。しみじみしますね。
年男、年女として頑張りましょう!
KobaChanさん、
昔の親の年齢に追いつきつつ年を重ねていける幸せってありますね。早く親を亡くした友達のことを思うと、本当に感謝の気持ちでいっぱいになります。
共感してくださり、嬉しいです。この歌、本当にさりげなくて凝った感じもしませんが、すごく工夫されています。
何よりも、あたたかくって、幸せな子ども時代というものが凝縮されていて、とても好きな歌です。
でも、その時の母と今の自分を重ね合わせ、「母もこうだったのか」と思う瞬間、なんともいえない感情で胸がいっぱいになります。「母の若さが切ない」と言った由利子さんの言葉がすべてを言い表してくれています。
母もまた、今の私を見て、昔の自分と重ね合わせることがあるのでしょうか。
そのとき、母はやっぱり切なくなるのでしょうか。
母が「今の私」を「昔の自分」と重ね合わせることがあるか、というところには気づきませんでした!
それは大いにあり得ますね。娘をもっていない私は、ちょっぴり残念だなあ。
母の子への一途な思いは、子の自立を考えるとき毒とも妨げともなると、先人は思い至ったのでしょうか、、、
被害者の方々のご快復をお祈り申し上げながら、母という存在の哀しさをおもいました。
本当に「毒」という字は不思議です!
「苺」の母はかわいいけれど、なぜ「悔」の中にも母が?!
今度きちんと調べてみたいと思います。