元旦のパンにひそめる干葡萄みなひんやりと冷えている食う
奥田 亡羊
お正月は過ぎてしまったのだが、ぶどうパンを食べていて、この歌を思い出した。
この歌の作者は、寒い日にパンを食べていて、干しぶどうが「ひんやりと冷えている」ことに何とも言えない寂しみを覚える繊細な人である。「ひんやりと冷えている」のは、「干葡萄」だけではなくもろもろの事柄なのだろう。思いがけない冷たさにたじろいでも、それを含めて人生というパンを「食う」ほかないことを思わされる。
一首の最後に「食う」が独立して置かれているのが、非常に効果的だ。一字あけにしなかったところに、食わねばならぬ現実が切迫する感じが出ている。
「ぶどうパン」「レーズンパン」「レーズンブレッド」……呼び方はいろいろだが、干しぶどうがたくさん入ったパンは私の好物である。バーネットの『小公女』を読んで以来、特に bun と呼ばれる丸いパンを食べるときは、セーラのことを思い出す。
冷たい雨のそぼ降る日、父を亡くし学校で使い走りのようなことをさせられていたセーラは、4ペンス銀貨を拾う。空腹だったセーラは、そのお金を落としはしなかったかパン屋のおかみさんに訊ねたうえで、干しぶどうの入ったパンを6個買う。焼きたてでふわふわのパンは、どんなにいい匂いを放っただろう。しかし、彼女はパン屋の店先にいた、見るからにおなかをすかせた乞食の女の子に5個与えるのである。ああ、その高貴さ!
ぶどうパンをかじりながら、いつもセーラを思い出してきた。空想が苛酷な現実を耐える力をくれること、友達を大切にすること、そしていつも誇り高くいること。私は何と多くのことをセーラに教わってきたのだろう。ぶどうパンが好きなのは、『小公女』のせいかもしれない。
☆奥田亡羊歌集『亡羊』(短歌研究社、2007年6月・2800円)
☆作品掲載のお知らせ
・「短歌研究」3月号に「月と女」30首
・「短歌往来」3月号に「魚となるまで」33首
(3首目に誤植があります)
よろしかったらご覧ください。
「レーズンパン」より「ぶどうパン」のほうが趣がありますね。
それにしても、「冷えている・食う」の七文字に人生の苛酷さと寂しさを読み取るなんて、由利子さんの感受性にもただただ感じ入るばかりです。
いやぁ、「記憶力」とかでなく、本の中に食べものが出てくると印象が強かったんでしょう、食いしん坊の子どもでしたから!
一粒くらいふわっと暖かいといいのに。
ごくたまに給食にぶどうパンが出ました。ちょっと嬉しかったです。(きな粉をまぶした揚げパンのほうがもっと嬉しかったですけどね…)
ぶどうパンを良く買って食べました。
いや、弁当を持って通っていたのですが、
さらに購買のパンにお世話になってたのです。
確かそのぶどうパンは、
「栄養パン」という商品名だったと記憶しているのですが、
食べごたえのあるとても美味しいパンでした。
と、すっかり思い出話になってしまい、失礼しました。
人生のぶどうパンは、日によっても温かさや味が違うと思いますから、「みな冷えている」日ばかりではないと……。
私の小学校では、ぶどうパンはあったけれど、揚げパンはなかったなぁ。
KobaChanさん、
「栄養パン」という名前、おいしそうですね!
小学校のときは、ぶどうパンの嫌いな子が結構いたような記憶があります。自分の好きなものを誰かが嫌いだとちょっと悲しかったです。
でもどうしてぶどうパンなんだろ、もしかしたら、常温でも冷たく感じる干しブドウの感触がほしかったのか。
小公女のパンの場面はよく覚えてます。
4ペンスではパン4ケなんだけど、パン屋のおばさんが、2ケおまけをくれる、でも5ケを乞食の女の子にあげてしまい、ヒロインは最後の1ケをちびちび食べる。
「このパンが魔法のパンでいつまでもなくならないといいな」と独白しながら。
たしか、そんな感じでした。
余談ながら、子供のころ読んだ物語で出てくる食べ物で、いつも思い出すのは、モーパッサンの短編「ジュール伯父さん」に出てくる生牡蠣です。
この季節、殻付き生牡蠣を食べる機会があると、必ずといっていいほど、あの作品を思い出します。
PS 短歌研究最新号の貴作品、拝読しまし た。月はやはり女性なのでしょうか、
民族によっては太陽が女性、月が男性
というところもありますね。
「短歌研究」3月号読んでみました。30首のうちから2首気になった歌について、記事を書いてみたので、TBさせていただきます。
「短歌研究」はこれからしばらく連載なのですね。楽しみです。
「短歌研究」読んでくださってありがとうございます。
「月見橋」はどこと読んでくださってもよいのですが、桂離宮をイメージしました。「運河」は、目前の景色でもあり、自分でもあるつもりです。
トラックバック、ありがとうございます。
SEMIMARUさん、
生牡蠣を食べる度に「ジュール伯父さん」を思い出される由、私と同じだなぁとうれしくなりました。
「月」のとらえ方もいろいろですね。男性名詞である言語があるのは知っていましたが、今回は女(自分)の老い、をテーマにしたかったので、少しありきたりかしら、と思いつつ「月と女」をテーマにしてみました。
短歌研究、短歌往来、それぞれ読みました。
短歌研究は、テーマに沿って作られていてわかりやすい一連でした。観月の・・、いつまでも乳房あること・・の歌や、最後の4首など身に迫るものがありました。
短歌往来は、3首目の誤植、くやしいですね。「吾→告」ですね。
動物の親子の絵本の歌など、一読ぐっと来る歌でした。
ひと月に合計63首発表するのは、すごくエネルギーの要ることと思います。
私は短歌研究詠草にやっと3首載りました。ほそぼそ・・です。
ますますのご活躍を期待しています。
短歌は直球、ずばり迫ってくるスピードをかんじます。今後もますますご活躍ください!
さて、この紹介されている歌も「みなひんやりと冷えている食う」も俳句なら「冷えているか食うかどっちかにしろ!」って感じでしょうか。短歌の強みをかんじます。
短歌誌、2つとも読んでくださってありがとうございます! 誤植はご指摘の通りです。
「月と女」の最後の方は力を込めたものですので、共感していただいてとてもうれしいです。
塩見恵介さん、
「直球」というのは、「短歌全般」でなく「私の短歌」ではないかと思います。直球以外の球種をマスターするのは私の大きな課題です。
「冷えているか食うかどっちかにしろ!」っていうのには、笑ってしまいました。俳句、短歌それぞれの持ち味を楽しみ、句集や句誌を積極的に読みたいと思います。
『短歌研究』3月号拝読いたしました。「女」は好むと好まざるとに関わらず常に「月のもの」と対峙し意識下におくものであることを指し示しているようで焦点の照射があざやかだと感心しきりです。
「女」を歌う手法はさまざまなれどこんな切り口もあったのかと目を覚まされました。
三月も近いというのに雪が舞っています。
温かくして風邪など召しませぬように。
拙作を読んでくださって、どうもありがとうございます。少々テーマが露骨で、戸惑いや不快感を味わう方もいるかもしれないと思いましたが、せっかくの連載なので冒険してみようと考えた次第です。
風はまだ冷たいですが、ほんの少し春の気配が感じられるようになりましたね!
遅くなりましたが、「短歌往来」3月号の「魚となるまで」33首読みました。
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