シベリアへ行く無蓋貨車の列あれば軍帽汚れし父の若き耳
森 松子
長野に住む友人が数日前、信濃毎日新聞の記事のコピーを送ってくれた。シベリアに抑留された経験をもつ詩人、石原吉郎の生涯を追いつつ、抑留者たちの戦後を克明に描き出す連載「石原吉郎 沈黙の言葉」(毎週金曜日掲載、畑谷史代記者)である。昨年10月から始まった連載は今も続いている。
これまで私は石原吉郎という名前しか知らなかった。引用された数々の詩を読み、またシベリア抑留の実態や石原の生涯を知り、大きな衝撃を受けた。極寒の地で受けた辛苦にも増して石原を苦しめたのは、帰国後に遭遇した人々の無理解、それに対する憤りや疎外感、虚無感だったというのだ。連載には「石原にとって、真の『戦争』が始まるのは、戦争が終わった後だった」と記されている。何ということだろう。
シベリアで生き残るためには、人間らしさを捨てなければならなかった。第二次世界大戦中、アウシュビッツ強制収容所へ送られ、奇跡的に生還したフランクルの手記『夜と霧』に、「すなわち最もよき人びとは帰ってはこなかった」という文章がある。この言葉を「疼くような思いで読んだ」という石原は書いている。「あるいは、こういうこともできるであろう。<最もよき私自身も帰ってはこなかった>と。」
敗戦後、シベリアへ連れてゆかれ、抑留された日本人は厚生労働省の推計で57万人を超えるという。そのうち10万人は帰国することなく亡くなった。この歌の作者の父も、その一人だった。作者は1945年生まれであり、この歌を含む「父の木霊」30首で、2006年「かりん力作賞」を受賞した。
恐らくほとんど記憶にない父を、そして父の経験した苦しみを、戦後60年たった段階で細い糸をたぐるようにして作られた作品である。見たことのない父の耳、垢じみた軍帽の何とリアルなことだろう。「若き耳」に対する作者の深い愛情が、切々と迫ってくる。「俘虜死せし父に転生あるならば暖衣飽食こころゆくまで」「父の木霊つくづくほうし水ほうしと啼かぬ日はなし一生を啼かむ」といった歌にも胸を打たれる。
歌の作者、森さんが60歳を過ぎてようやく、戦死した父親を歌にしたこと、石原吉郎が長い年月、思いを言葉にできなかったこと――その沈黙の重みを思うとき、歴史というものは行間を読まなければならないのだと痛感する。語られなかったことは、なかったことではない。沖縄の「集団自決」も、語ることができないほど体験者の心を苛み続けている。戦争は今も終わっていないのだ。
しかし最近、不思議なことに戦争を身近に感じるようになりました、それは、戦争が終わってから自分が生まれるまでの年月より、
これまで生きてきた人生の長さが、いつのまにか倍になってたのに気づいたからです。
自分の人生の起点が、戦争からさほど遠くなかった、そしてこれからは、ますますその
感覚が強くなるかもしれません。
年齢を重ね、「戦争を身近に感じるように」なられた由、同感します。
宮柊二の「中国に兵なりし日の五ケ年をしみじと思ふ戦争は悪だ」という歌の結句を、私は「当たり前じゃない!」と思っていました。しかし、今回、石原吉郎の苦しみを知り、戦争がさまざまな形で人の精神を致命的に損なうことを本当に恐ろしく感じました。人間の弱さ、「悪」のいろいろな様相を思うとき、戦争という極限状態をなんとしてでも避けたいと思います。
そしてつい先日、もうひとつのことに気がつきました。この子たちは「戦争体験者と同時代に生きる最後の世代」。生きている戦争体験者の生の声を聞くことができる子どもは、あと数年で絶えるな、と…。そんなときにちょうどこの文章を読んで、なんだか不思議な気持ちになりました。
1996年生まれの末娘は、104歳まで生きれば3つの世紀をまたいで生きることになります。22世紀までも、戦争の恐ろしさと愚かさは伝わるでしょうか。伝えてもらわなければならないと思います。
新聞社で「戦後60年」の特集づくりに関わったときに痛感したのが、「戦争体験者の生の声」が聞けるのはあと少し、ということでした。
語られぬままに埋もれてはいけない話を聞いて次世代に伝えるのは、本当に大切なことだと思います。
「歌でしか言えない」という言葉に、深いものを感じます。
「偽りの無い気持ち」から少しずれてしまう危険性も孕みながら、歌は多くの人の支えや慰めとなってきたのだと思います。
私は森松子さんの歌に、見たことのないものを見る力こそ、詩歌をつくる原点だろうか、と思わされました。