早春の野のやさしさの染みとほる朝の苺はミルクに浮かす
佐々木艶子
色彩感あふれる一首である。作者の前には白いミルクと紅い苺しかないのだが、その美しさを「早春の野のやさしさ」に喩えたため、読む人にはやわらかな浅い緑色も鮮やかに見える。春が訪れた喜び、また、一日の始まりのさわやかな気分がとてもよく伝わってくる。
この歌を読み、「ああ、最近は苺とミルクを一緒に食べなくなったなあ」と感慨深く思った。子どもの頃の苺は酸っぱかった。苺は砂糖とミルクをかけ、スプーンでつぶして食べるものだった。つぶした苺を食べ終わって、ほんのりピンクに染まったミルクを飲むのがまた美味しかった。コンデンスミルクをかけることもあった。チューブ入りの製品ではなく、缶入りだったのがなつかしい。
今の苺はそれだけで十分に甘いので、何もかけずに食べるのが一番おいしいようだ。第一、つぶすのが難しいほど大粒になってしまった。先日、うんと小粒の苺が大盛りで売られていたので、つい買ってしまった。ジャムを煮るために買ったのだが、いくつか食べてみたらとても甘いので驚いた。
それにしても、この歌のように景をきちんと描けたらなあ、と思う。どうも私はスケッチのような写実詠が苦手で、大きな風景も小さな動植物の様子も、うまく詠えない。それは多分、ものをよく観察していないからだろう。目の前にある「苺」をきっちりと捉え、さらに「早春の野」を想像する力がまだまだ不足している。
☆佐々木艶子歌集『椿の杜』(ながらみ書房・2008年3月、税別2600円)
そうそう。苺はつぶして食べたものでした。ちなみにうちには、実家を出るときにもってきた「苺のスプーン」があります。苺をつぶしやすいように平べったくなっているんですが、その部分が苺の型になってるんですよ。そういえば、今では本来の用途に使われていないような…。
由利子さんは写実詠が不得意だなんて謙遜する必要ないですよ!ロープウェイの歌では、眼前に山の風景が広がり、飛び立ちたくなるほどの感動をおぼえました。
苺スプーンってありましたね!
底面がいちごのように、つぶつぶになっているのが、かわいかったような……。
「いちごミルク」という単語は、今も生きていますね。
爽やかな歌ですね。
苺の赤、ミルクの白、それらをたとえる早春の野の緑。色彩がぱっと一気にイメージの中に広がります。
「ああ、最近は苺とミルクを一緒に食べなくなったなあ」と感慨深く思った。を読んでびっくり!今朝わが家でかわした会話そのままだったからです。苺のハウスが近くにあるので毎食後苺を食べている日々です。苺本来がもつ酢っぱさは改良されて甘くなりました。
さて、ここを訪れる楽しみの一つは松村さんの歌の読み解きにありますが、もう一つ。歌に寄せて展開する松村さんの様々な思いがとても面白く「そうそう」と思ったり、「へー」そんな事象があるのねと思うところにあります。
時には「サツまわり」などと言う言葉が飛び出したりして事件記者時代から、国会での記事、NY出張とあらゆる部署で活躍なさった記者時代を彷彿できて面白くてわくわくします。
歌の解説だけにとどまらず、松村さんが持つさまざまなポケットからこぼれおちる感性のしずくをここで読める喜びにひたっています。
掲載歌を読み解きつつもご自分の反省の一助としている謙虚さにも打たれます。
早春の爽やかさを引き連れた朝の苺の歌。
堪能いたしました。ありがとうございました。
心象詠でも写実でもいいと思います。カップルの仲むつまじい様子がのちにつづくものと思います。ひじょうに解りやすい御解説と思います。心象を写真に現すとこのようになると思います。
解説も腹八分目というのが、しとやかでいいです。
苺が一番おいしいのは、やっぱりこの季節ですよね! 朝のさわやかさと苺はとても合います。
過分なお褒めのことば、恐縮です。これからもお楽しみいただけるように、よい歌を探したいと思います。
阿南龍子さん、
この歌に満ちる幸福感から「カップル」まで想像してくださったこと、とても嬉しい驚きでした。私は作者が一人で苺を目の前にしているのかと思いましたが、阿南さんの読みによって、ますます味わいが深まりました。
目の前の「苺」から「早春の野」を想像する力・・・なるほど。
この場合、「苺」という小さな食べ物がモチーフとなって、壮大な「早春の野」の表現へと見事に展開されていると解釈してよろしいでしょうか。由利子さんの解説を拝見し、あらためて短い言葉の連なりで作られる短歌の、奥深さ、雄大さみたいなものを感じました。
ところで、スケッチのような写実詠・・・。
由利子さんの場合は、第一歌集の「薄荷色の朝に」に収められている、「白木連の卵」の歌など、まさにその類の作品になるのではないでしょうか?
「大地の祭り」に繋がるあたりに、私は小さな芽の変化から、雄大な自然の姿を想像させられました。「白木蓮の卵」の背景には、そのような単純な読み方とは別の、深い意味もあるのかもしれませんが・・・。
スケッチのような歌が苦手とおっしゃる由利子さんですが、ご自身の第一歌集に収められている、まさに由利子さんの原点とも言えるであろうこの歌こそ、まさに素晴らしいスケッチをモチーフにされた作品だと、私は思います。
僭越なコメント、どうぞご容赦を^^
白木蓮の歌から、「雄大な自然の姿」を想像してくださったとのこと、とても嬉しいです。
そうでした! 確かにあのときは、木蓮の蕾が大きな卵に思えて、わくわくする気持ちをどうしても表したかったのです。
これからも、そういう気持ちを大切にいろいろなものをスケッチしなければ、と思います。どうもありがとうございます。
白玉の歯にしみとほる秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり
この一首を連想しました。飲食のときも、感性の鋭い人は、様々な思いをめぐらすのでしょう。
ハウス栽培で、苺はいつでも食べられ、季節感がなくなりました。
やはり春の果実ですね。
私も苺をミルクに入れてつぶして(むろんイボイボの専用スプーンで)食べるのが好きです。そして最後に色づいたミルクを飲むのも。
粒が不ぞろいだったり、形がゆがんだりした苺が安く売られていると、ついつい買って苺ミルクにします。
掲載歌は、これから苺をつぶすプチプチ音が聞こえてくるようですね。
まあ! 今もあの専用スプーンを持っていらっしゃるとは。
ほんのりピンクになったミルクは、本当においしいですよね!
牧水の歌を連想なさったことも、とても興味深く読みました。何か飲食を大事にする人の思いが共通しているのかもしれません。
皆様にお知らせしたく割りこむことをお許しくださいませ。
4月30日(水)毎日新聞の朝刊に松村由利子さんの記事が載ります。
児童文学者で翻訳者であった石井桃子さんがお亡くなりになりました。
その石井桃子さんを偲ぶ追悼文を松村由利子さんが4月30日(水)毎日新聞の朝刊に寄稿なさいます。
※北海道から静岡までの地域では30日朝刊に掲載。
あとの地域は掲載日が若干ずれる可能性があります。
すみません以上お知らせでした。
この歌は、もしかすると年上の女性が年下の彼をいつくしむ朝のような官能路線かもしれません。
>早春の野
ここを年下の彼と解釈すれば、そう思います。
この苺の歌、幼い自分が両親や兄弟たちと一緒だった頃の風景を思い出しました。
ここで色んな歌〜私の知らない世界〜を紹介してくださることで、何かと忙しい日常の潤いになっています。ありがとうございます。これからもよろしくおねがいします・・・。
「年下の彼」で思い出したのですが、内田樹さんが『先生はえらい』(ちくプリマー新書)で、「誤読する自由」について触れています。
文章において、すみからすみまで意味を理解するということはあり得ない。読み手の「主体的な踏み込み」があってこそ、その文章は読者の中に強く深く浸透する−−という内容です。
短歌においては、なおのこと「主体的な読み」の面白さがあるのではないかと考えました。誰も「それは間違った解釈だよ!」なんていえないはずです。阿南さんの官能的な読み、とてもどきどきしますね!
あつこさん、
あったかい子ども時代を思い出してくださったとのこと、私も嬉しくなりました。実は私も、祖母の家で一所懸命、苺をつぶしていた小さかった頃の自分を思い出したのです。
ろこさん、
いつもありがとうございます。
ちょっと照れますが、お目に留まったら、どうぞお読みくださいね。
今朝はやや焦って書いたため、お名前を間違ったコメントを書き、失礼しました。
慌て者ですが、これからもよろしくお付き合いください。
■誰とは言いませんが、かなりの焦りを感じるコメントが面白いです。
一つお知らせがあります。
4月30日毎日新聞朝刊に石井桃子さんの追悼文掲載のお知らせをいたしましたが、掲載日の変更が今日、判明しました。
1週間遅れの5月7日朝刊の予定とのことです。
「言葉の泉」さまもです。
すみません。
リンクを張ってくださった由、いろいろな方に見ていただく機会が増えます。
どうもありがとうございました。
リンクを張ってくださったようで、ありがとうございました。
あまり御礼を言われたことがないので恐縮します。事後報告となりすみませんでした。
こちらこそありがとうございます。