ことばの本質について、深く考えさせる歌集である。脳と心、ことばと心という問題を思い、何度となく立ち止まるような気持ちで読み進んだ。
「月」と言つてごらんと病窓に丸きもの母は教へる四十歳(しじふ) のわれに
失くしたる文語文法ふたたびを暗記してゆく夕べ かなかな
作者は、40歳のときにクモ膜下出血で倒れ、言葉を失った。そのときは自分の名前も言えず、月や林檎といった日常の言葉も、ほとんど分からなくなったという。愛唱していた短歌も、自分の作った歌も忘れてしまった。
一首目は、窓から見える月を指して、作者の母親が幼い子どもに言うように「あれは月よ。つき、って言ってごらん」とやさしく語りかけた場面である。立派な大人である自分がそんなことを言われている状況も悲しいが、母はそれ以上に切ないだろうと、この作者は胸がいっぱいになっているようだ。
二首目は、忘れてしまった文語文法をまた学び直している夕方の、もの悲しい気分が詠われている。詠嘆を表す終助詞「かな」を重ねることで、「かな」の用法を覚えようと口ずさんでいるような、「カナカナ」という蜩のさみしそうな鳴き声のような不思議な感じが出ている。「失くした」ものは文語文法だけではなかったはずである。治療や闘病に費やした時間や、屈託なく過ごしていた頃の時間を思う作者の悲しみが、せつせつと伝わってくる。
ことばよりこころがよかつた失くすなら束ねゐるクリップが言へぬ 真夜中
たましひの頼りなきころ我が名さへ言へざりしこと忘れがたしも
湿り気を持てる日本語「うちみづ」と言へばベランダに涼風生(あ) れる
私は失語症というものをよく知らなかった。外傷や脳血管障害によって言語能力が失われ、訓練次第である程度は回復するものだ、というくらいの理解しかしていなかった。その回復は、肢がマヒして歩けなくなった人が再び歩けるようになるようなものだろうと思っていた。しかし、神経内科医を取材して初めて、失語症がどんなに大変な病気であるか知ったのである。
専門医によると、いったん失われた母語を獲得するのは、外国語を学ぶようなものだという。穏やかな面立ちの医師から「あなたが海外で英語のスピーチをすることを想像してごらんなさい。気持ちの細かいひだや心の奥底まで表現できず、もどかしくて苛立つでしょう? 失語症の人は、日々そうした苦しみを抱えているんです」と言われ、心底驚いた。
何ということだろう。高村典子さんが短歌を作るのは、例えてみれば私が英語でソネットを作るような営みなのだ。彼女の生活は、これから先ずっと外国語を用いて暮らすような日々なのだ。倒れてから5年、彼女がどれほどつらいリハビリを重ねて歌をまた作り始めたのか、と思うと胸が痛む。
「ことばよりこころがよかつた失くすなら」「たましひの頼りなきころ」の哀しみ、所在なさには、読む方も悲しくなってしまう。しかし三首目には、「うちみづ」という言葉に、初めて出合う喜びがあふれている。その響きに湿度やかすかな涼しさを感じる感性は、もともと作者に備わっていた優れた資質にほかならない。
幾千のこころとふもの詰めこみてポストの中は吹雪きてをらむ
モーツアルトはモーツアルトらしく弾くされど正攻法といふつまらなさ
私といふ本に目次はありません好きな所からお読みください
この歌集は闘病記のようなものではない。作者は時にきっぱりとした顔を見せるかと思えば、おどけた顔も見せ、詠いぶりは自在である。思いがけない魅力的な喩や、口語と文語を使い分けた文体も見事であり、ことばという美しい贈りものを存分に楽しめる一冊となっている。
☆高村典子『わらふ樹』(角川書店・2008年5月)
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高村さんの歌、なかなかいいですね。特に最後に挙げた3首。
はじめまして。高村さんの最後の3首を特に気に入ってくださった由、私も嬉しいです。
もっともっと別の歌も引用したかったのですが、まずは失語症の克服というところをぜひ書いておきたかったので。
でも、何も知らずに読んでも感動する歌ばかりですね。
「わたしという本に目次はない」…。いろいろ考えさせられてしまいました。
本当に彼女の歌は素晴らしいでしょう!
ことばを失うことの怖さ、悲しさを想像すると、あいさつ一つでも大事にしたいなあと思うのです。
私は健康に恵まれているので、想像の及ばないところが多いと思います。いぶさんは、きっと私より深くいろいろな作品を理解なさっているに違いありません。
しかし、その苦しみをうたわず、そういった日常のなかに立ち顕れる「雅」をうたう、そこに歌の奥行きが生まれるのでしょうね。
また、それらを懸命に掬い取ろうとする姿勢に、強く惹かれます。
あ、そうだ。
青磁社の「週間時評」、楽しみにしていま〜す。
失語症についてのご説明も合わせて拝見すると、「すごい」としか言いようがありません。
本当にすごいですね。
そうなんです。病気と闘うことは、勿論それ自体素晴らしいことなんですが、その先まで行った地点から詠う姿に惹かれました。
KobaChanさん、
よいご質問をありがとうございます。私がきちんと書いておけばよかったと思います。
作者がご病気になる前の歌は、最後の「ポスト」「モーツアルト」の2首のみ。あとは、病後の作品です。
専門医に取材して驚いたのは、失語症の人と筆談する場合、ひらがなばかりで書くのでなく漢字交じりにした方が圧倒的に伝わりやすいということです。表意文字の豊かさを再認識しました。アルファベットの世界の人が失語症になったら、随分と大変だろうな、と思います。
お父様の晩年、おつらかったでしょうね。活字のお好きだった姿が浮かびます。
私も6年前入浴中にくも膜下出血になり浴槽に沈んでいたところを発見され救急車で運ばれ手術。危篤状態のところを生還しました。集中治療室から一般病棟に移って毎日「名前は?生年月日は?」と聞かれてこのまま名まえも分からない状態になるのだろうかと絶望したものです。
・たましひの頼りなきころ我が名さへ言へざりしこと忘れがたしも
の一首が胸に染みました。
失語症を克服するだけでも大変なのにこうして歌集を上梓されるまでになった克己心にも打たれます。
一方、(「うちみづ」と言へばベランダに涼風生(あ)れる)という言葉への感性は松村さんもおっしゃるとおり天性の美質。
心がふるえてしまうばかりです。
こんな素晴らしい歌集をご紹介くださって感謝いたします。
「名まえも分からない状態」から回復なさり、今に至っていらっしゃるんですね。コメントを読み、胸をぎゅっとつかまれたような気持ちです。ろこさんもどれほど苦しまれたことでしょう。
高村さんのような経験をした方はそれほど多くないと思っていましたが、似た経験をした方は少なくないのだ、と省みました。失語症という見えない障害をもっている人の存在にも、いつも気を配らなければと思います。