2008年06月06日

KICX1818.JPG

  なだれつつたぎち泡だつ滝水の音さへあをき幻聴として
                   日高 堯子


 滝の豪快さ、清冽さというのは、独特のものである。実際に滝に打たれなくても、そのとどろくような音と水しぶきに、心が洗われるように感じる。
 しかし、この歌の作者が見ているのは現実の滝ではない。どうやら歌川広重の「名所江戸百景」の中の作品「王子滝の川」を見たときの感動を詠ったものらしい。

 広重の版画のなかを霊魂のぬけみちのやうな滝がまつさを
 広重はなにに渇きてこんなにも真青に透く滝を描きしや


 広重の用いた青は非常に鮮やかで、ヨーロッパの美術界にも影響を与えたといわれる。「あをき幻聴」で私たちは、作者が眼前の版画から流れ落ちる滝の音をリアルに聴いていることがわかる。その耳の豊かさが羨ましい。
 聴覚だけではない。描かれた滝に作者は「霊魂のぬけみち」というものを思う。広重の渇きをも思う。一枚の絵から、歌人は何と多くのものを読み取っていることだろう。優れた作品からインスピレーションを受けたということであるのはもちろんだが、常に魂のことを考えたり、自らの渇きを意識したりせずには出てこない発想ではないかと思わされる。
 この作者は、自然と交感するような不思議な感覚、おおどかな抒情が持ち味の歌人である。いま彼女は、滝というものと波長が合っているのかもしれない。歌集にはいくつかの滝の歌があり、どれにも強く惹かれた。

 天涯にしろき裸身を架ける滝あるとき遠きキリストのごと

 ☆日高堯子『睡蓮記』(短歌研究社・2008年5月)



posted by まつむらゆりこ at 12:44| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
子どものころから、なぜかいつも本物の滝は「こわい」ものだった。どうしてかな。

絵や歌のなかの滝ならこわくないかも。
「清冽」という由利子さんの言葉に惹かれました。せっかくおとなになったから、今度は滝がくれるインスピレーションと向き合ってみたいものだと思います。
Posted by Lucy at 2008年06月06日 17:13
一読して、涼しくなる感覚ですね。
これを独立した一首として読むと、なんてオドロキな逆転の発想だろう、と思ったんですが、絵画展なら、納得です。
しかし、「幻聴」というリアルな比喩も巧いんですが、「あをき」という形容、また、臨場感あふれる上句。
感想を、決して二言三言では語らせない、奥行きの広さを感じさせます。
Posted by 森 at 2008年06月07日 02:24
Lucyさん、
あっ、実は私「浄蓮の滝」と聞くと、つい「情念の滝」みたいな気がして、ちょっと怖いのです。女性っぽい滝ですよね。

森さん、
確かに、一首だけで読むと解釈が変わって面白いですね。
私は最後に挙げた、滝にキリストを重ねた一首にとても強いインパクトを受けました。
Posted by まつむらゆりこ at 2008年06月07日 08:29
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