2015年01月05日

2015年♪

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 新しい年を迎えると、清々しい思いに満たされる。そして、仕事への新たな意欲も湧いてくる。並行して進めている仕事の中には、年内に形になるものがいくつかあり、自分でも楽しみでならない。誠実に書いてゆこうと思う。
 細々と続けてきたこのブログについては、今年はほとんど更新できない見込みである。というのも、砂子屋書房のサイトで「一首鑑賞*日々のクオリア」という連載を担当することになったからだ。さいかち真さんと組んで、交互に書いてゆく。私は月・水・金を担当することになった。
  http://www.sunagoya.com/tanka/

 これまでの執筆者のなかには、「一首鑑賞」というよりは読み応えのある歌集評、という感じで、毎回とても力のこもった長文をしたためた方も多いが、私は「一首鑑賞」の形を大事にしたい。読んだ方に「今日、この一首に出合えてよかったな!」と思っていただけるような、そんな「日々のクオリア」を目指したい。

 
 商人(あきんど)のような声出し携帯の向こうの部下に夫は指示する
                                  前田康子

 初回の1月5日には、昨年「日々のクオリア」を執筆した前田康子さんの歌を紹介した。「ああ、『塔』の人らしい、いい歌だな。自分にはこういう詠い方はできないなぁ」と思う一首である。


 *前田康子歌集『黄あやめの頃』(2011年、砂子屋書房)

  
 
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2014年11月25日

普天間・辺野古

 先週、沖縄本島へ行く用事があり、帰りに普天間基地と辺野古の海を見てきた。
 ずっとニュースを読んできて、おおよそのことは理解しているつもりだったが、実際に見るとやはり大きな衝撃を受けた。
 宜野湾市の高台から市内を見渡すと、市の真ん中に基地が居すわっていることが実によくわかる。基地は市の4分の1もの面積を占めているのだ。オスプレイがたくさん並んでいるのも見える。

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 今月届いたばかりの、小高賢さんの遺歌集『秋の茱萸坂』に収められている歌を思い出した。

  冬の牡蠣にケチャップを振るアメリカの手の上にいる普天間・
 辺野古                            小高 賢
                           

 「茱萸坂」は国会議事堂の南側を下る坂である。官邸前の反原発デモの際に通ることの多い道だ。最後の歌集となった一冊をまとめたのは夫人の鷲尾三枝子さんだが、小高さんのパソコンには既に歌集の草稿とタイトルが入っていたのだという。「あとがき」さえ書けば、もう完全稿だったその原稿が最後に手を入れられたのは、亡くなる三日前だった。
 三枝子さんの「あとがきに代えて」によると、小高さんは毎週金曜日、ほとんど欠かさず官邸前のデモに参加していた。言葉の力を誰よりも信じていた彼が、行動することの大切さを自ら示していたのだと思うと胸が詰まる。
 歴史の痛みをよく知る小高さんは、ついに沖縄の地を踏むことがなかった。戦後日本の豊かさを享受した世代として、「責任」や「後ろめたさ」をひしひしと感じていたからではないだろうか。それが反原発デモへの参加であり、沖縄への思いの深さだったのだと思う。

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 辺野古の海は、生物多様性が高く、さまざまなサンゴ、ジュゴンやウミガメなどが棲息している。なぜ辺野古なのか、という思いもあるが、そもそもなぜ「移設ありき」なのか。
 小高さん、普天間と辺野古を見てきましたよ、と報告したら、「で、君はどうするの。何も行動しないの?」と言われてしまうだろう。できることは小さくても、何か行動しなければ、と思う。

   *小高賢遺歌集『秋の茱萸坂』(2014年11月、砂子屋書房刊)
posted by まつむらゆりこ at 10:59| Comment(5) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年10月30日

フリスク1粒の思い

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 ミント風味の清涼菓子「フリスク」のテレビCMは、いろいろなバージョンがあって、どれにも妙なおかしさが漂う。ちょっとアブナイ感じのものもあるのだが、それだけ売れているのだろうな、と思う。
 だからだろう、若者の歌にも多く登場する。

  福島の雪ではないがFRISKをがりがり嚙んで初校をめくる
                                齋藤 芳生
  プラシーボ効果を狙い「ぱきしる」とつぶやきながら食べるフリスク
                                月原 真幸

 1首目の作者は福島出身の人。この歌は、東京で編集の仕事をしながら、ふるさとの雪を思った場面だ。しんみり懐かしみたいところだろうが、職場は多忙を極め「がりがり」とミント菓子を噛み砕くようなストレスの中で思い返している。
 子どものころ雪のかたまりを口に含んだ記憶がよみがえったのだろうか。心情的には結構つらい感じだが、白い「雪」と「FRISK」の重なり具合が美しい。
 2首目の「ぱきしる」は、うつや強迫性障害などの患者に処方されるパキシルのことだろう。この作者はかつてパキシルを服用していたことがあり、今は薬を飲まなくてもよい状態にまで回復した――と解釈した。けれども、思わぬときに不安やうつ状態に襲われ、「これはパキシル。パキシルなんだから、飲めば落ち着くはず!」と自分に言い聞かせつつ、フリスクを口に含むという場面である。
 プラシーボ効果は偽薬効果とも呼ばれる。人間は不思議なもので、「これは実によく効く薬ですよ」などと言われて服用すると、効能のないものでも痛みや不眠が改善する場合があるのだ。しかし、それはあくまでも他者に渡されて信じた場合であって、自ら「プラシーボ効果を狙い」なんて言うところに、この歌の可笑しさと切なさがある。

  ★齋藤芳生『湖水の南』(本阿弥書店、2014年9月)
  ★月原真幸「短歌研究」2014年9月号、短歌研究新人賞最終選考
   通過作「これはバグではなく仕様です」より
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2014年10月23日

赤ちゃん

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 先日読んだ『AIDで生まれるということ−−精子提供で生まれた子どもたちの声』(萬書房)は衝撃的だった。
 AIDは、配偶者以外の提供精子による人工授精のことである。不妊治療としては最も古いものの一つで、技術的な難しさがないため、ある時期まで問題にされてこなかった。卵子の提供や代理母出産に比べれば、倫理的にそれほど問題がないと思われていたのだ。しかし、近年、自分のルーツを知りたいと願う子どもたちの声が少しずつ高まり、生まれてきた子が自分の出自を知る権利について論議されるようになった。
 この本には、当事者である6人の手記が収められている。AIDで生まれた事実をどのように知ったかという経緯や家庭環境は異なるが、ごく普通に両親からかわいがられて育った人たちだ。しかし、AIDについて知ったときは誰もが大きなショックを受け、それまでの人生が瓦解したような気持ちを味わったことが分かる。そのときの驚愕、絶望感は、産婦人科医や倫理学者といった"識者"の推測をはるかに上回るものだった。
 6人の当事者の中には「子どもは親のペットではありません」「私は自分を、人と提供されたモノから造られた人造物のように感じています」という人もいた。自分の始まりに、男女の情の通いあいがなかったことをとても悲しく思ったという声も記されている。「親にずっと嘘をつかれていた」と感じたり、誕生日が来るのが嫌でたまらなくなったりしたケースもある。
 もちろん、誰もがそうではないだろう。親から「どうしても、あなたという存在が欲しかった。そしてあなたを愛してきた」と説明されて、納得できる人もいるかもしれない。けれども、そうでない人もいる。生まれてくる子が、どんな性格で、どんな価値観を築いてゆくか、親は決して予測することができないのだ。「こういうふうに説明したら、きっと分かってくれるはず」というのは、楽観的に過ぎるのではないか。不妊治療を考えるとき最も大事にすべき痛切な声が、この本にはあふれている。

    玉のようなあかちゃんを我は未だ産まず
           桃缶のぬるきシロップをのむ      齋藤 芳生


 三十代の作者はシングルである。「玉のような」という慣用句が、なぜか無惨なものとして響く。産む性として自己を認識しつつ、社会的に「未だ産まず」と見られることのプレッシャー、生きにくさが、どことなく感じられるからだろう。「ぬるき」が効いている。
 こうしたプレッシャーや生きにくさが取り除かれないまま、不妊治療の技術ばかりが進んできたことを思う。医学研究は大切だが、臨床応用については慎重過ぎるということはないはずだ。

  ☆齋藤芳生歌集『湖水の南』(本阿弥書店、2014年9月)
  ☆写真の絵は、林明子『こんとあき』(福音館書店)より
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2014年10月12日

猫とわたし

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 わが家に、ものすごく猫にやさしい人がいて、時々「あー、猫に対するくらい私にもやさしくしてほしいのにねぇ」と思ってしまう。落ち込んでいるとき、何だか機嫌が悪いときは、「なんで猫にだけ、そんなやさしーんだよっっ!!」と、猫に対してまで怒りが向く。

  こんなにも猫にはいつもやさしくて母にはたまにつめたいわたし
                        小島ゆかり


 なので、この歌を読んだときには、いつも穏やかな笑顔がチャーミングな小島ゆかりさんでさえ、そうなのか−−と、人間の不思議な心理を少し理解できたように思った。猫は、反論しない、うるさいことを言わない、嘘をつかない。人間を相手にするよりも、心がほっとする存在なのだろう(推定)。何を考えているのか分からないのが少々不気味なような気もするが、何を考えているのか分からないのは身近な人間であっても変わらない。だから、猫の方が安心できる、という心情もあるのだろう(推定)。
 人間というのは、ややこしい生きものであり、近くの人より遠くの人に対する方がやさしくなれたりする。電車の中で会った見知らぬ人に、にっこり席を譲ったその日に、家人にはぶりぶり当たり散らしたり……という妙な行動がそれだ。
 この歌には、「母」へのすまない気持ちが滲んでいる。気持ちのありようは、本人にもどうしようもない部分がある。本当はそこを見たくないのが人情だが、この作者は自分のイヤな面をきちんと見ようとする知性をもっている。そして、「母」の悲しい気持ちを思いやり、自分もまた悲しい気持ちになっているところに、読む者はじーんとしてしまうのだ。

   ☆小島ゆかり歌集『泥と青葉』(青磁社、2014年3月刊行)
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2014年10月09日

お知らせあれこれ

またまた、更新が滞ってしまいました。
言いわけはいろいろあるけれど、まあ、こまごまとした仕事が多く、いつも締め切りに追われているからでしょう。
まずは、近況報告から……。

新しいエッセイ集が出ました。
子育てをテーマにした歌ばかり集めた、とても愛着のあるものです。

子育てをうたう.png

福音館書店の「こどものとも 年少版」の折り込み冊子に3年間連載していたものに、加筆修正しました。
当初は『お嬢さん、空を飛ぶ』を出して疲弊しきっていたこともあって、「できるだけ省力を図りたい!」「あまり加筆とかしたくない!」という、まことに情けない考えでした。
しかし、たいへんに優秀かつ誠実な編集者から、「ん〜、単行本にするときは、連載時の敬体でなくって、常体できびきびと書いていただいた方がよいのでは」と言われ、心を改めてほとんど一から書き直したのでありました。

私にとって、本と子どもに関係する仕事ができることは最大の喜びです。その意味で、今度のエッセイ集はとても満足感のあるものになりました。
また、別のウェブサイトで、「子ども部屋の本棚」と題する連載もスタートしました。
http://jiyugaoka-clweb.com/
短歌とは関係のない児童文学についてのあれこれを書いてゆく予定です。
ご興味のある方はどうぞご覧くださいね。
感想を聞かせていただければ幸いです。

☆『子育てをうたう』(福音館書店、2014年9月刊行)

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2014年08月17日

それは夏

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  もういちど逢うなら空をつきぬける鳥同士でねそしてそれは夏
                         江戸 雪


 夏のエネルギーは確かに、心身に作用する。恋の始まりが夏に多かったのは、そのせいだったのだろうか。
 この歌は、過ぎ去った恋をなつかしんでいるのだが、単なる回想ではなく、「もういちど逢う」ことにかなり思いが傾けられているようだ。
「切なくもあの恋は終わってしまったけれど、今度逢うときはお互い鳥になって逢いましょうね。何にも束縛されず、自由に翼をはばたかせて、どこまでも高く二人、飛んでゆきましょう」
 けっこう危険なのだ、この歌は。
 「そしてそれは夏」と、季節を限定しているところに、ぞくぞくさせられる。作者と、恋の相手にしかわからない「あの夏」を指しているから。
 一首だけで、いろいろな空想(妄想?)を楽しむことができるのが、短歌のよいところ。この作者は、こういう美しい飛躍を見せてくれるのが実に巧い歌人である。

  ☆江戸雪歌集『声を聞きたい』(七月堂、2014年7月刊行)
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2014年08月15日

虹を見つける

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 「ワジワジする」というのは、沖縄の言葉で「いらいらする、腹が立つ」といった意味である。「にぃにぃ(お兄さん)」「ねぇねぇ(お姉さん)」などの言葉は、子どもたちもよく使う。
 こんな畳語は、ハワイにも多いようだ。「ウリウリ=濃い青、ひょうたんの楽器」「オラオラ=長寿」「ホイホイ=楽しい」など。大型で釣り人に人気のある魚、シイラは、ハワイでは「マヒマヒ」と呼ばれる。

  マヒマヒという魚の棲む魚 南では名づけることが虹を生むのだ
                        井辻 朱美


 聞きなれない言葉の響きは、私たちを日常から離れた世界へ連れていってくれる。この作者は「マヒマヒ」に、南島の「虹」を感じた。魚を見つけた人たちの気持ちがはずむ感じが、言葉に込められているからだろうか。結句のきっぱりとした断定が心地よい。
 ハワイ語の虹は「アーヌエヌエ」。日々の小さな出来事に「虹」を見つける心を大切にしたい。

  ☆井辻朱美歌集『クラウド』(北冬舎、2014年7月刊行)
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2014年08月09日

小さな喜び


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 あってもなくても日々は過ぎてゆくけれど、あると心が豊かに満たされ、しあわせな気持ちになる−−詩歌や音楽は、そんなものだと思う。

  ヒーローはみんなを助ける人なりと京王線にをさなご元気
                       今野 寿美


 最近届いた歌集を読んでいて、ほっこりと嬉しくなった。
 「ヒーローってね、みんなを助ける人なんだよ!」
 車両中に響き渡るような明るい大声は、3歳か4歳くらいの男の子のものだろうか。これくらいの「をさなご」の一所懸命なかわいさといったらない。その名セリフに続けて、何かの主題歌でも歌い出したのかもしれない。「をさなご元気」という結句が、たまらなくよい。
 作者は、古典の素養が深く、韻律の美しい優雅な詠みぶりで知られるが、この一首では「みんな」「京王線」「元気」という撥音を連ね、弾むようなリズムで一首を作っている。「ヒーロー」とか「みんなを助ける」なんていう、ごくふつうの言葉が輝いているのも見事だ。
 小さな子が「元気」でいることが、おとなにとっては一番のしあわせだ。それは、その子の親だけではない。「社会」なんて大きく構えてしまうのも何だけれど、見知らぬ子どもを眺めていても、私は充分に満たされ、この世界が少しはよい方向へ向かうことを祈ってしまう。たぶん作者にとっても、この「をさなご」は京王線の車両(ホームかな?)でたまたま遭遇した子で、だからこその幸福感が一首に満ちているのではないかと思うのだ。
 歌集を読む喜びは、こんな一首に出会うことにある。胸の深いところを揺さぶる歌もいい。涙を誘われる感動的な歌もいい。けれど、くすりと笑ってしまう歌、誰かに教えたくなるあったかい歌のよさも忘れてはならない。

 ☆今野寿美歌集『さくらのゆゑ』(砂子屋書房、2014年7月刊行)
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2014年03月11日

東日本大震災から3年

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 震災後、夥しい数の短歌が詠まれてきた。実際に被災した方の迫力ある作品に涙を誘われることがある一方で、「うーん、そうなのか?……」と居心地の悪さを感じることもある。それは往々にして、直接体験していない人が震災について詠ったものだ。
 体験していないから詠ってはいけないというのではない。ニュース画面を見て、新聞を読んで、歌を作るのは悪いことではない。問題は詠い方だ。
 下手では話にならない。当たり前だ。しかし、巧ければよいのかと言えば、そうではないところが歌の不思議である。あまりに巧いと、ほんの一瞬だが作者の得意顔が見えてしまって鼻白む。技巧と思いのバランスなのだろうか。当事者が詠む場合、技術は二の次なのだが。
 また、わけ知り顔に震災を詠うことへの躊躇や抵抗感もある。大切な人も家も失った人の思いに自分はどこまで近づけるのか。その深い悲しみや苦悩を推し量ることができると思う不遜こそ、最も忌避したいものだ。
 そんな葛藤の中、震災後の自分の思いに最も近いと感じられる一首に巡り合えた。

  丸まったままに乾いたハンカチのごときこころよあの弥生から
                                  富田 睦子


 泥水や涙を吸ってくしゃくしゃになったハンカチが、乾いてかちかちに丸まっている――この歌を読んだ瞬間、胸が締めつけられるようだった。「そう! まさにそうなの」と作者に抱きつきたくなった。
 「あの弥生」以前には戻れない、という思いが誰にでもあると思う。あんなにもたくさんの人が亡くなり、原子力発電所の事故が起き、胸に鉛を詰められたようだった。震災の後、自分がずっと抱いてきた悲しみと、何かが決定的に変わってしまったという絶望感、うまく説明できない後ろめたさ……そうしたものがないまぜになった複雑な気持ちが、この一首に表現されている。
 私たちの悲しみに三十一文字という形が与えられたことを深く感謝したい。そして、この「ハンカチのごときこころ」を共有しつつ、自分のできる支援をしなければ、と思う。

  ☆富田睦子『さやの響き』(本阿弥書店・2013年12月刊)
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2013年12月14日

『お嬢さん』のお披露目

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 ここ数年かけて書いてきた原稿が、やっと本の形になった。
 長い間ブログを書くことをやめていたのは、心の余裕がなかったからだ。本当に有能で忙しい人は決して「忙しい」と言わないものだというけれど、確かにそういう面はある。この半年余りの私の頭の中は飛行機といろいろな人物でいっぱいで、その状態を「忙しい」と称して、サボったり断ったりする言いわけにしていた。
 ともあれ、拙著『お嬢さん、空を飛ぶ』(NTT出版)が刊行されて、ほっとしている。ウェブマガジンの連載時には「女もすなる飛行機」というタイトルで、自分としてはややお茶目で悪くないと思っていたのだが、数人からNGが出たので一所懸命考えた(思い返せば、新聞記者時代も連載企画のタイトルを決めるのが苦手だった!)。
「大空を目指して」だとか「ひこうき雲の描いた夢」だとか、「なんだかなぁ〜」的なものしか思いつかなかったのだが、あるとき天啓のようにひらめいたのが「お嬢さん〜」であった。モンゴメリの『パットお嬢さん』や犬養道子の『お嬢さん放浪記』など、ちょっぴり古めかしく懐かしい響きがあるのがいいと思った。何より、この本に登場するキャサリン・スティンソンという女性パイロットが、大正時代に来日した折に「スチンソン嬢」「ス嬢」と親しまれていたのである。
 私にとって大切な『お嬢さん〜』が、たくさんの人に愛されますように。

 拙著についての概要はこちら。
 http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100002283
posted by まつむらゆりこ at 08:38| Comment(14) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年05月15日

慰安婦のこと

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 従軍慰安婦問題について、時々考える。90年代の前半、元慰安婦の韓国人女性が2人来日した際、私も取材したことがあった。
 インタビューはとても難しかった。デスクから「彼女たちの話を全部、本当と思うなよ」と言われて、取材に赴いたのを覚えている。国家賠償を求める韓国の団体から吹き込まれた後付けの情報、主張も交じるだろう、ということであった。そして、彼女たち自身が無意識に塗り替えた記憶もあるに違いなかった。誰だって自分が一番大切だ。思い出したくもない悲惨な出来事によって心身が傷ついたとき、そこから回復するためには、記憶の書き換えが必要なのだと思う。自分の物語を語るとき、「騙る」という要素が入るのを誰も責めることはできない。
 来日した元慰安婦の韓国人女性2人は、シンポジウムなど公的な場で非常に淀みなく語った。するすると言葉が紡ぎ出される様子に、どこからどこまでが本当の話なのか、私には分からなかった。だから、通常の新聞記事と違って、すべてをカギかっこの中に入れる形でしか書けなかった。
 そんな中で、「あ、これは彼女の本当の気持ちだ」と思う言葉があった。それは、慰霊祭のために沖縄へ旅立つ慰安婦たちと同行した際、空港の売店で韓国人スタッフが「何か飲みますか? 牛乳とか?」と声をかけた時だった。1人の元慰安婦が顔をしかめて、「牛乳は大嫌い。精液を思い出すから」と言ったのだ。通訳を通じての言葉だったが、大きな衝撃を受けた。そして、これこそ事実に違いないと思って原稿に書いた。
 昨年5月に出版された朝井さとるさんという女性の歌集を読んでいて、次の歌に出会い、とても驚いた。

  語られて書かれて残る 牛乳は飲めないあれを思ひ出すから
                        朝井さとる


 私の記事を読んだ人が、こんな形で20年近くもその痛みと衝撃を共有してくれた――そのことに感激した。もしかすると、他社の記者も記事にしていたかもしれないが、それはどちらでもよい。記録は多い方がいいに決まっている。
 フランス語のhistoire という語には、「歴史、史学」という意味のほかに、「物語、話」という意味もある。起こった事実は1つでも、その人、その国によって作られる物語は異なる。そして、それが歴史というものなのだ。他国と歴史認識を共有することの難しさを改めて思う。

  生臭き牡蠣をずるりと飲み込んで孤立無援の慰安婦思ふ
                        古川 由美


 この歌は、93年に発表されている。20代の作者は、従軍慰安婦問題に割り切れぬ思いを抱きつつ、「ずるりと飲み込ん」だ。「ずるりと」に込められた不快感、もどかしさ、嫌悪感と共に、史実に向き合うしかないのだと思う。


  *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
   古川由美 「かりん」1993年3月号
 

*拙著『物語のはじまり』はお蔭様で、残部がなくなりました。たくさんのお申し込み、どうもありがとうございました。
posted by まつむらゆりこ at 15:25| Comment(10) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月21日

新聞・新聞記者

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 新聞社には、合計で22年間勤めた。いまだに、歌集を読んでいても、新聞について詠った作品に「お!」と反応してしまう。

  「新聞沙汰になる」が脅しとなるかぎりまだ新聞は健在である 
                           松木 秀
  届きたるままの折り目に朝刊がゆうべの父のかたわらにあり
                           藤島 秀憲


 どちらも、この4月に出版された歌集に収められた作品。
 松木さんの歌は、新聞記者にはイタイ一首だ。そういえば、「新聞沙汰」という言葉も、あまり聞かなくなった。ネット空間での誹謗中傷の方がはるかに怖いものになったことも勿論だが、新聞の部数が減り、社会への影響力がなくなってきたことは明らかだ。この歌自体が古びて、理解されなくなる時がいずれ来る。
 藤島さんの歌は、介護が必要になった老父を詠ったものである。新聞を読む気力、好奇心がなくなった父を寂しく思う気持ちが、折り目のきれいなままの新聞に投影されていて切ない。夕暮れどきの心もとないようなさみしさが、一首全体を覆っている。
「新聞」以上に気になるのが、「新聞記者」を取り上げた歌である。

  初対面の新聞記者に聞かれおりあなたは父性をおぎなえるかと
                         俵 万智
  貯金使ひはたして逃げたと額を言へば素早くメモをとる気配あり
  なぜ避難したかと問はれ「子が大事」と答へてまた誰かを傷つけて
                         大口 玲子


 俵さんの歌は、シングルマザーとして生きることについて取材された場面だ。大口さんは、3・11後に起きた原発事故を受け、幼い子を連れ東北から九州へ移り住んだことについて取材された。
 どの歌も、まるで自分が批判されているように突き刺さってくる。「初対面」の人に対して、ぶしつけな質問をしなければならないことがある。また、どんな記事でも数字という具体性が力をもつので、数字が出た瞬間に「素早くメモをとる」のが記者としての基本なのである(嗚呼!)。三首目の作者の思いも苦しく伝わってくる。自主避難したことについて胸の中にはさまざまな思いが渦巻くのだが、それを言葉にした途端に、言葉自体が一人歩きしてしまう。「子どもが大事だったからです」と答えながらも、「それだけではないんだけど…」という思いもあっただろう。そして、何よりも作者は、自分の言葉が、避難したくてもできない人、避難しないことを選んだ人たちを傷つける可能性をよく分かっている。幼い子をもつ母親たちが、記者という第三者によって分断されてしまうことが、痛ましく思えてならない。
 これらの「取材される痛み」について読むとき、自分の記者生活を省みて、ただ深く頭を垂れるしかない。

 *松木秀『親切な郷愁』(いりの舎、2013年4月刊行)
  藤島秀憲『すずめ』(短歌研究社、2013年4月刊行)
  俵万智『プーさんの鼻』(文藝春秋、2005年11月刊行)
  大口玲子『トリサンナイタ』(角川書店、2012年6月刊行)
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2013年04月10日

絵本の力

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 河合蘭『卵子老化の真実』(文春新書)を読んでいて、思いがけないエピソードに出会った。
 ある女性が出産直後、赤ちゃんにダウン症の疑いがあることを告げられたとき、小学生のころに読んだ、ダウン症の男の子、トビアスの日常を描いた絵本『わたしたちのトビアス』(偕成社)のことを思い出したというのだ。「頭が真っ白になって、何も考えられなかった」状態のなか、トビアスが家族みんなに愛されていた内容がよみがえり、彼女は夫と自分の親たちに事実を告げた。「あの本と出会っていたことは、私の心を強く支えてくれたと思います」という言葉に胸が熱くなった。
 駆け出しの記者だったころ、先天性四肢障害児父母の会というグループを取材したことを思い出す。生まれながらに手足の指が欠損しているなどのハンディがある子どもたちを支える親のグループである。その会が作った絵本『さっちゃんのまほうのて』(偕成社)は、片方の手の指がない「さっちゃん」の悲しみと回復が描かれた内容で、出版されて25年で約65万部のロングセラーとなっている。
 「トビアス」や「さっちゃん」が、どれほど多くの人を励まし、支えてきたことかと思う。それは、医療情報や育児書とは全く別のメッセージである。一人ひとり違った人格を備えた子どもたちの姿は、障害の有無で括ってしまうことの愚かしさを伝えている。

  空席に誰かゐるらし駅過ぎて埋まらぬダウン症の子の右
                        早野 英彦
  自閉ちやんダウンちやんといふ呼び方に馴染めず輪から
  外れる、独り               東野登美子


 一首目は、込み合う電車の中で、皆が遠慮したようにそこだけ空席になっている状況のかなしさが詠われている。ダウン症の子は特徴的な顔だちをしているから、ひと目で分かる。「あ…」と瞬間的にその隣の席を避けてしまうのは、きっとその人がいろいろな子ども、いろいろな人に出会った経験がないからだろう。ダウン症の子にとっても、そうでない子にとっても、一緒に遊んだり勉強したりする場は大事だと思う。
 二首目の作者は、発達障害の子を育てている。同じ境遇の親たちは一番わかり合えそうだが、その集団の「おたくは自閉ちゃんなの?」などという言葉遣いにつまずき、「輪」から出てしまった孤独感が胸を打つ。
 小さな子を育てる日常がどれほど大変か、ということさえ想像できない人が大組織には少なくない。まして、いろいろな子どもがいること、どんな子どもも幸せに生きていることを、知っているか知らずにいるかの違いは大きい。多様な子どもたちが登場する絵本は、本当に豊かな世界を見せてくれる。

  *早野英彦『淡き父系に』(ながらみ書房、1995年2月刊行)
   東野登美子『豊かに生きよ』(いりの舎、2012年6月刊行)

★先日、ご紹介した拙著『物語のはじまり 短歌でつづる日常』(中央公論新社)は、まだ手元にあります。
よろしかったら、どうぞご連絡くださいませ。
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2013年03月30日

SMILE

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 先輩というのは本当にありがたいもので、会社を辞めた後も心配して仕事をくれたりする。
 3月27日に発売された由紀さおりさんのニューアルバム「SMILE」――収められた11曲のうち、2曲の訳詞を担当したのだが、これは良き先輩の紹介が縁で実現した仕事である。あらかじめメロディーが決まっていて、それに合うよう英語の歌詞を和訳するという作業は、思いのほか楽しかった。定型に気持ちを注ぎ込む短歌と少し似ているような気もした。

真鍮のバーに凭れてきくジャズの「煙が目にしみる」 そう、しみるわ
                            松平 盟子


 「煙が目にしみる」はジャズのスタンダード・ナンバー。「SMILE」で私の訳した”You’d be so nice to come home to” 、“Moonlight Serenade” も、そうした名曲である。ぜひ日本語で歌いたいという由紀さんの思いに応えるべく頑張った。
 小学生の頃、テレビで由紀さんが「手紙」を歌うのを聞いて、「この人の日本語は何てきれいなんだろう」と感激したことを覚えている。その方と一緒に仕事ができるなんて、思ってもみなかった。一昨年、初めて由紀さんのために”My Funny Valentine”を訳す仕事が来たとき、「今でさえいろいろ原稿を抱えているのに、これ以上、手を広げてはいけないのでは……」と断りそうになったのだが、もう一人の自分が「面白そうじゃないの。あの、由紀さおりさんだよ! やってごらん」とささやいた。結果的に、それが今回のアルバムに繋がったわけである。怖いもの知らずの好奇心も、たまには必要なのかもしれない。
 「SMILE」には、子どものころに魅了された「手紙」も収められている。声の質、歌唱力の素晴らしさは言うまでもないが、日本語の発音の確かさと美しさには本当にうっとりとさせられる。お薦めの1枚である。

   *松平盟子『たまゆら草紙』(河出書房新社、1992年12月刊行)
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2013年03月15日

春はすぐそこだけど

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 あちこちでデイゴの花が咲いている。島の春である。
 しかし、内地でも激しい寒暖差のようだが、石垣島でも初夏のような陽気が続いたかと思うと、風が強く吹いて寒くなったりする。ここ数日の目まぐるしい天気の変化に、ふと思い出した一句がある。

  春はすぐそこだけどパスワードが違う      福田 若之

 1991年生まれという、若い作者である。もう少しでログインできそうなのに、またもや「パスワードが違います」というメッセージが表示されるような、もどかしさ。惚れぼれとするような若さあふれる一句である。
 この人の洗練された感覚、耳のよさには、本当に魅了される。
 私の特に偏愛する三句。

  歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて
  うららかという竪琴に似た響き
  風邪声はうをのうろこのうすみどり


 一句目は、猫好きにはたまらないテイストだろう。小さな猫がおずおずと、しかし好奇心たっぷりに歩む様子をこんなふうに達者に写実するとは! 二、三句目はあえて説明する必要はないと思われる。胸がふるえるように美しい。
 東日本大震災の直後に詠まれた一句も忘れ難い。

  ヒヤシンスしあわせがどうしても要る 

 この切迫感、ぐんぐん押してくる感じ。「がんばろう 日本」もよいけれど、誰にでも「しあわせがどうしても要る」ことを、みんなでもう一度考えたい。

  *週刊俳句=編『俳コレ』(邑書林、2011年12月刊行
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2013年03月08日

こびと

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 日本の童謡というのは、少し特殊なジャンルではないかと思う。幼い子どものために作られた歌であるはずなのに、短調の曲がやたらに多い。何となく、おとなが子ども時代をなつかしんで、自分を慰藉するために作った歌のように思えてしまう。
 たとえば、「森の小人」なども、実にかなしげなメロディーが忘れがたい。「森の木かげで どんじゃらほい しゃんしゃん手拍子 足拍子」という出だしは、まずまずリズミカルなのだが、「小人さんがそろって にぎやかに」のあたり、もう泣きたくなってしまうような、ヘンな恐ろしさが漂うのだ。
 そんなことを思い出したのも、最近、子どもたちの間で『こびとづかん』というものが人気を博しており、その「こびと」たちの姿がひどく奇妙だからだ。昨今言うところの「キモカワイイ」というのだろうか。「カクレモモジリ」「ベニキノコビト」「リトルハナガシラ」……どれも、少々気味の悪い顔と姿である。子どものころ、メアリー・ノートンの『床下の小人たち』シリーズや、いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』は大好きだったが、このこびとたちには「う〜ん…」と腕組みしたくなる。
 しかし先日、この『こびとづかん』のキャラクターたちこそ、「森の小人」のメロディーにぴったりではないか!と気づき、「そうだ、そうだ」と一人で嬉しくなってしまったのであった。

  子の食べる一匙ごとのうれしさに茶碗蒸しにはこびとが棲むよ
                       小守 有里


 この歌の「こびと」は、「妖精」と言い換えてもよいのかもしれない。ふだんは食の細い子どもなのだろう。期待以上にぱくぱく食べてくれるのが嬉しくて、作者は茶碗蒸しに潜む「こびと」の力に感謝の念を抱く。一所懸命に子育てしている母親の姿に、ちょっと胸が熱くなったりもする一首である。
 人間よりもサイズが小さくて、不思議な力を持っていたり、独特の暮らしをしていたり――。こびとの存在を心のどこかで信じていると、いいことがありそうな気がする。

 
  *小守有里歌集『こいびと』(雁書館、2001年8月刊行)
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2013年03月01日

向き合う

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 ご近所さんから誘われて、おひな様を見に行ってきた。木目込み人形の教室に通って、ご自分で作られたというお人形は、古風で優しげな顔立ちである。
 七段飾りをこんなふうに飾れる家も、昨今はそう多くないだろう。私の人形は、男雛と女雛一対がガラスケースに入ったものだった。母の持っていた五段の飾りと並べていた記憶がある。雛飾りではないけれど、瀬戸物の小さなティーセットなども一緒に飾った。あの雛飾りや道具類はどうなったのであろうか。
 母に訊くと、「あ、要るなら送ってあげる」などという事態を招きそうで、怖くて聞けない。それでなくとも、老い支度を着々と進め、ある日突然、私の小・中・高校の成績表をまとめて送ってきたりするので油断がならないのだ。

  並びゐし雛人形をしまふとき男雛女雛を真向かはせたり
                     田宮 朋子


 事実を淡々と詠った一首が、何か深い意味を持つように感じられることがある。この歌もそんな一つだ。ふと「私たち、ちゃんと向かい合っているだろうか……」と考えさせられてしまう。
「恋は互いに見つめ合うこと、結婚は二人で同じ方向を見つめること」というが、結婚してからだって、互いを見つめ合うことは時に必要ではないのかな、と思う。出会ったころに抱いた熱い感情を思い出したり、相手の眼に映る自分を確かめたりすることは、どれほど年月がたっても大事なことだ。
 作者自身の思いがどこにあるかは分からないが、雛人形を一つずつ丁寧にしまう仕草のやさしさが、一首全体をやわらかくしていて、読む者の心もほっこりと温かくなる。
 
*田宮朋子歌集『雛の時間』(柊書房、1999年6月刊行)
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2013年02月23日

野口英世再び

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 久々のマイブーム到来!――というわけで、野口英世関連の本を続けて読んでいる。
 たまたま古書店で手に取った『野口英世とメリー・ダージス』(飯沼信子著、水曜社)に始まり、『遠き落日 上・下』(渡辺淳一著、角川文庫)、そして、『野口英世は眠らない』(山本厚子著、集英社)まで読んだ。一番読み応えがあったのは、吉川英治文学賞を受賞した『遠き落日』である。渡辺淳一は伝記的小説のめっぽう巧い人で、与謝野晶子・鉄幹を追った『君も雛罌粟われも雛罌粟』、早逝した中城ふみ子の生涯を描いた『冬の花火』も優れた作品だが、野口という破滅型の学者の実像に迫った『遠き落日』は出色だ。
 浪費癖など数々の欠点にも関わらず、私が野口に惹かれるのは、2つの点においてである。
 1つは、語学のセンスに優れ、若いころにドイツ語、英語、フランス語を学んだばかりか、中国へ行くときには中国語、エクアドルへ行くときにはスペイン語、と必ず現地のことばをある程度習得して、人々の信頼を得たというところだ。山本厚子は特にこの点を高く評価し、野口を真の国際人と称える。私も同感である。渡辺淳一は、福島出身の野口が東北弁に対するコンプレックスを抱いていたことが、外国語の習得に向かわせた要因と見ているが、それだけではないように思う。
 そして、もう1つは、野口が実験の下準備を決して人まかせにせず、試験管の滅菌作業などを自分でやったということだ。『遠き落日』には、手伝いを申し出た後輩に、野口が「せっかくだが断る。俺は自分のやった仕事しか信用できないんだ」と言う場面があるが、実際に彼は何から何まで自分で行う完璧主義者だったらしい。科学研究の大半がプロジェクトチームを組んで行われるようになった現在では、そんなやり方は到底不可能だし、当時もそのことで研究仲間に嫌われたようだ。しかし、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したのは、そんなこだわりがあったからに違いない。

  試験管のアルミの蓋をぶちまけて じゃん・ばるじゃんと洗う週末
                           永田 紅


 ああ、今も研究者たちは野口英世のように試験管を洗うのだな、と興味深く思う。「じゃん・ばるじゃん」という擬音がユーモラスで、作者の元気で明るい気持ちが伝わってくる。大切な実験に使う試験管を洗う心はすがすがしい。これから行う実験、それに続くデータ解析……どんな結果が出るか、今からわくわくする。同じ作者の歌に、「誰に見せる顔でもなくて自らの作業へ向けたる集中ぞよき」という一首もあるが、きっと野口英世も一心に作業しているときはよい顔をしていただろうと思う。

 *永田紅歌集『ぼんやりしているうちに』(角川書店、2007年12月刊行)
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2013年02月16日

ピアノ・レッスン

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 毎週土曜日の午後には、近所の小さな女の子が2人やってくる。ピアノのおけいこなのだ。
 私は音楽学校を出たわけでもないので、初めは「教えられない」と断ったのだが、親御さんは「ピアノが好きで、ひいてみたい気持ちがあるので、それを伸ばしてくれるだけでよい」という。責任重大だなあ、と思いつつ、譜読みができるくらいになれば…と引き受けた。
 昨春くらいから小学5年生、秋からは4歳の子も来るようになった。4歳の子はまだ音符が読めないので、鍵盤に色をつけたマークを貼って何とかバイエルを始めたところである。

  いとけなきものの小さき掌を取りて悪にみちびくごとくピアノへ
                      鳴海 宥


 私の大好きな一首。鳴海さんは音楽学校を卒業されたプロである。小さなお弟子さんにピアノを教える情景を、こんなふうに妖しげに詠ってみせた技とセンスに魅せられる。
 音楽は時に、麻薬のような「悪」になり得る。それは絵や小説も同じだろう。耽溺するくらい何かに魅了されることは必ずしも幸福ではないのだと思う。そんなことを思いつつ、昔なつかしい練習曲集や、ディズニーのキャラクターが載っている今どきの教則本を使って、毎回レッスンの真似ごとをしている。

   *鳴海 宥歌集『Barcarolle ― 舟唄』(砂子屋書房、1992年10月刊行)

posted by まつむらゆりこ at 22:26| Comment(9) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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