2013年02月10日

白猫の耳

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 人は、自分の見たいものしか見ない。
 先日、久しぶりに中谷宇吉郎のエッセイを再読した折、猫の話が出てきて「ふーん」と思った。何度か読んでいるのに、中谷が猫を飼っていたことはちっとも記憶に残っていなかったのである。ミミーという、その猫は、「感心におとなしい行儀の良い猫」で、ごはんをやると「いつのまにかすっかりたべてしまって、洗ったようにきれいにしてしまう」。中谷はそのことについて、「とかく猫というと御飯を残したり散らしたりして汚くしておきやすいものなのにこれはまたちょっと珍しい猫である」なんて書いている。
 科学者である中谷が飼い猫をひいきするようなことを書いているのが可笑しいが、自分がミミーのことを全く覚えていなかったことには驚く。人間は自分にとって興味のある情報しかキャッチしないのだなあ、とつくづく思う。
 情報社会になり、インターネットで膨大な情報を得ることができるようになったが、人々が万遍なくさまざまな情報を入手しているかと言えば全くそうではない。ワンクリックで興味を引いたものしか読まなければ、世界で何が起きているのか、いま最も大事な問題は何か分かるはずがない。
 紙の新聞はかさばり、資源の無駄遣いだという批判があるけれど、あの一覧性は実に優れていると思う。時に判断ミスや考え方の偏りもあるだろうが、訓練された記者たちが合議して、それぞれの記事の扱いを決めた紙面は、パッと見てその日起こったことを知ることができるものだ。ランダムに等価値として並べられたネットの見出しからニュースを選び出すよりも、はるかに効率的であり、一定の信頼がおける。
 そして、人間の脳は本当に不思議なもので、そのとき特に注意して読まなかった記事でも、後になって「ああ、そう言えば、社会面の右の下の方に出ていたなぁ」などと思い出すことがある。あるいは、ざっと紙面を斜めに見ているときに、関心をもっている言葉が目に飛び込んでくることも少なくない。「意識」は脳科学研究における重要テーマの一つだが、意識下への働きかけという点において、紙の新聞の一覧性はもっと評価されてよいと思う。

  みみうらのももいろ透けるましろ猫雨ふるまへの空をみてをり
                      日高 堯子
  風を掬ってゐるのか猫はももいろの耳をゆつくり動かしながら
                      時田 則雄


 でもって白猫の歌であるが、猫を飼うようになって、これまで私の心に入ってこなかった歌が「ん?」と気になるようになった。分かりやす過ぎる理由だ。でも、白い猫を実際に見ないと「ももいろ」という耳の色さえ分からないのである。自分の経験だけで生きていると、恐ろしく狭くて偏った世界しか知らないことになる。もっともっと本を読み、さまざまな人と出会わなければ、と思う。

   *日高堯子歌集『樹雨』(北冬舎、2003年10月刊行)
   *時田則雄歌集『オペリペリケプ百姓譚』(短歌研究社、2012年11月刊行)

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2013年02月05日

国際結婚、あるいは野口英世

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 相変わらず、締め切りの合間に全く仕事と関係ない本を読んでは、「はぁ〜、至福」とうっとりしている毎日だ。ブログ更新もサボりにサボってしまった。
 先日読んでまずまず面白かったのが、『野口英世とメリー・ダージス』(飯沼信子著、水曜社)である。サブタイトルは「明治・大正 偉人たちの国際結婚」で、野口のほかに、ジアスターゼやアドレナリン抽出で知られる高峰譲吉、エフェドリンの発見者である長井長義、仏教学者の鈴木大拙らのケースが紹介されている。
 何が面白いかというと、やはり彼らのなれそめというか出会いだ。今から百年ほど前の日本人男性が、どんなふうに外国人女性との愛を育んだかというところに、俗な好奇心がそそられる(この本がその意味で少々物足りないのは、一柳満喜子とW.メレル・ヴォーリズのような「日本人女性と外国人男性」のケースを取り上げていないことだ)。彼らの関係に少なからず惹かれるのは、はじめから相容れない部分があることを互いに認識し合ったところからスタートしているからである。国際結婚した友達が数人いるが、いずれも相手との違いについて「まぁ、エクアドル出身だからね〜」「アメリカ人だから仕方ないっしょ」とさばさばとあきらめている。
 本当のところ、男女というものは、そうそう簡単には分かり合えない。なのに日本人同士だと、つい「分かってくれるはず」と期待してしまう。そこに甘さがあるのだと思う。異性には異性の文化、価値観、思考方法があり、自分とは全く異なる存在なのである。

   野心だけが支えであった 精緻なる野口英世の細胞スケッチ

  男性がかなり年上であるケースが多い中、野口英世は同い年(年上という説もある)のメリーと35歳の時に結婚しており、実生活のうえでも対等な関係を築いたようだ。浪費癖があり毀誉褒貶相半ばする野口だが、情濃やかな妻宛ての手紙の数々を見ると、「案外いい人だったんだな」という気になる。見当違いの方向でしゃにむに努力を重ねた野口を、わかったふうに作った自分の一首を読み返し、「申しわけない!」と思うのであった。

   *松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社、2010年5月刊行)

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2012年12月30日

2012年の反省

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1年経つのがどんどん早くなっている。
今夏ブログを再開したものの、なかなか頻繁に更新できなかったのは、私の要領の悪さのせいである。仕上げるべき仕事が中途半端な形のまま2012年が終わろうとしていることに、愕然とするばかりだ。

年々に吾という鍋厚くなり形なきまで煮溶かす思い

この歌を作ったのは三十代後半のころ である。人間的な成熟という意味の厚みではなく、一種の鎧のようなイメージを表した。「煮溶かす」べき思いというものをたくさん抱えていた時期でもあった。今になれば、そこまで煮溶かすなんてことはできず、ごつごつとしたものと何とか折り合いながら生きるしかないことが分かるのだが。

いま、1月3日締め切りの仕事に全力投球しなければならない状態である。しんどいけれども、これが形になったときの喜びも大きいと思う。

というわけで、皆様よい新年をお迎えください。
来年はもう少し頻繁に更新して、よい歌をたくさん紹介したいと願っています。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

*松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社・1998年12月刊行)
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2012年11月22日

猫が来た!

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 リアル系の歌人、あるいは「歌のなかの『われ』=作者」と思っている人からは、ひんしゅくを買うかもしれないが、歌人の私は嘘つきである。
 表象としての猫はかわいいと思うが、実際には猫そのものは苦手であった。なのに、気まぐれに猫と自分を重ねた歌を作ったりしていた。

  猫なれど尾を振る習い覚えんと残業こなす均等法以後
  やんわりと仕事の筋を通しつつ猫語を解する上司が欲しい
  灼けた砂に四肢を伸ばして啼いてみる輪郭なきまで撫でられたくて


 こんな歌を作ったものだから、ある短歌総合誌で「あなたは犬派? 猫派?」という特集があったとき、本当は犬が好きで犬しか飼ったことがないのに、(多少は気が咎めつつも)しれっと「猫派です!」という回答を提出したのであった。

 ところが人生はわからないもので、先週わが家へ仔猫が2匹やってきた。
 ことのはじまりは、相棒が得た「近所の牛小屋に捨て猫がたくさんいる」という情報であった。いつもは私に対し兄貴風を吹かす相棒が、遠慮がちに「君は猫があんまり好きじゃないから、別に飼いたいってわけじゃないんだけどさ…」と切り出したのが少々気味も悪かったのだが、まあ見に行くだけなら、と同行することになった。
 そして、わらの積まれた牛小屋で、猫好きの相棒が相好を崩して仔猫と遊ぶ様子を見て、「うーむ、私のせいで猫なし人生を送らせるのは、この人にとってQOLを著しく低下させることになるかもしれん。それは人道上どうなのか」と葛藤すること数日……トイレのしつけはどうするのか、グランドピアノの脚で爪とぎなどしないのか、といった情報収集に励み、「1匹より2匹の方が、猫同士で遊ぶので楽」というアドバイスを信じ、ついに新たな家族を2匹迎え入れることになったのだった。
 結果としては、まあ、にぎやかになってよかった。気難しい私は、「人間みたいな名前はつけない」「可能な限りキャットフードは利用しない」「布団の中には入れない」などの条件を付けたのだが、今のところ問題なく1週間が過ぎた。
 愛玩動物を飼うのは、少々罪の意識を伴うことだ。『アジアを食べる日本のネコ』(梨の木舎、1992年刊行)には、フィリピンやインドネシアで獲られたマグロが、タイにあるペットフード工場で加工される実態がルポされている。現地の人には手の届かないマグロである。ペットフード市場は年々拡大する一方で、日本での消費量は2400億円を超えているのだが、捨てられる犬や猫が一向に減らないのはどうしたことだろう――。小さなふわふわした家族と暮らす日々、こうしたことも忘れてはいけないと心に銘じている。

 *松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社・1998年12月刊行)
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2012年11月13日

恋の不思議

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 私より10歳ほど若い友人と話していて、彼女がパートナーについて「もう最近、『死ね!』とか思っちゃうことがある」と明るく言うので、笑ってしまった。そして、それも愛なんだよね、としんみりした気持ちになった。
 一緒に暮らすようになると、本当につまらないことで苛立ったり、ぶつかり合ったりする。「死ね」とは思わないまでも、「もう、こんな人、いなければいいのに」と思う瞬間は、多くの人が経験しているのではないだろうか。初めてそんな気持ちになったとき、自分自身に対して情けなくて、心底悲しくなったのを覚えている。あんなに大切に思っていた人、誰よりも大好きな人に対して、どうしてこんな感情を抱かなければならないのか、あのとき関係がダメになっていた方がよっぽどよかった――そう思うと、とめどなく気持ちが落ち込んだ。
 けれども、相反する感情を抱くのもまた、恋の不思議さなのだろう。

  一度だけ「好き」と思った一度だけ「死ね」と思った 非常階段
                          東 直子


 最初に読んだ1997年当時、私は歌の意味がよく分からなかった。「東さんって、おもしろい歌をつくるなー。映画みたい」なんて思っただけだった。
 この「死ね」は、暮らしを共にした結果の憎らしさではなく、かなり深く鋭い感情だ。それほど激しい「好き」なのだ。「一度だけ」の繰り返しから、その恋が短期間だったことが分かる。「非常階段」がさらに切羽詰まった雰囲気を演出しているのが巧みだ。

  馬を洗はば馬のたましひ冴ゆるまで人恋はば人あやむるこころ
                          塚本邦雄


 恋は怖い。本気の恋は、激しい愛憎の両極を行ったり来たりする。そして、めでたく成就して共に暮らすようになってからも、日常の「好き」の合間に「死ね」と思う瞬間が混じったりする。
 あっけらかんと「『死ね!』とか思っちゃう」と言った友人に、東さんの一首をメモ用紙に書いて渡すと、一読して「ね、これ、不倫の恋じゃない?」と首をかしげる。理系出身の彼女は、短歌とは何の縁もない人だ。おぬし、やるな。

  *東直子歌集『春原さんのリコーダー』(本阿弥書店・1996年12月刊行)
  *塚本邦雄歌集『感幻樂』(白玉書房・1969年9月刊行)

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2012年10月30日

運動会

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 先日、地元の小中学校で運動会が開かれた。
 小学生11人、中学生2人という小さな学校なので、親以外の地域住民も積極的に参加する。子どもの出る演目ばかりだと、プログラムがすぐに終わってしまうし、疲れてしまう。子どもたちの「かけっこ」の次は、一般のおとなたちの「1000m走」、それから子どもたちの障害物競走のような趣向の紅白戦、そして、またまた一般参加の「グランドゴルフ」――という具合に、プログラムは組まれている。
 13人が紅白に分かれると、同じ人数ではなくなる。紅白リレーで走る距離を案分したり、大縄跳びを取り入れたりと、人数の少ないことが不利にならないような工夫が凝らされていて感心した。綱引きや玉入れは、来場したおとなたちも加わった合同の紅白戦となる。

  子に送る母の声援グランドに谺(こだま)せり わが子だけが大切
                        栗木 京子


 栗木さんの歌は、都市生活者の感覚を偽悪的に描いていて、時代の雰囲気もよく表れていると思う(歌の収められた歌集は1994年に出版)。「わが子が大切」なのはいつの時代も同じだが、「わが子だけが大切」という本音をあらわにするのは憚られる。しかし、小学校受験などが熾烈になり、少子化が進む今、どんな親の心の底にも「わが子だけが」という少しばかり暗い気持ちが潜むことを、この理知的な歌人は鋭く表現したのだ。
 ふだんからよその子を下の名前で呼び合っているこの地域では、自分の子以外の子どもも、かなり同じ大切さで思っているのではないだろうか。違う学年の子たちが協力し合って練習しなければ、組体操やエイサー踊りなど、どれ一つとして成り立たない。学年半ばでもっと大きな学校へ転校してしまう子もいる中、どの子も本当に大切な存在だ。
 私は息子の運動会を、保育園のときしか見たことがない。昨年、地域の運動会を見に行ったときには、入場行進の段階で涙がこみ上げてきて困った。けれども、今年は自分の息子のことなどこれっぽっちも思い出さず、子どもたちの一所懸命な表情に時々胸が詰まるような感激を覚えつつ、一人ひとりに声援を送った。島に移り住み、「わが子だけが大切」でないことを経験できて本当に感謝している。

  *栗木京子歌集『綺羅』(河出書房新社・1994年4月刊行)
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2012年10月15日

兄か、弟か

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 若いころ女友達と「年上がいいか、年下がいいか」なんていう議論をしたものだが、今思うと笑ってしまう。いくら自分で「年下の男性がいいなぁ」と思っていたところで、惚れてしまえば前言撤回、後付けの理屈を並べて周囲を白けさせることになるのに、若さとは愚かさである。
 そして、人の年齢というものが当てにならないことも、だんだんに分かってくる。何歳になっても夢と理想を追い求める人もいれば、早くから自分の世界を規定してしまう人もいる。また、関係性というのは常に変わるものであり、パートナーに対して妹のように甘えていた自分が、次の瞬間には母のごとく諭しているということもある。

  おとうとのやうな夫居る草雲雀      津川絵理子

 「草雲雀」は初秋の季語。鈴を振るような鳴き声が美しい、小型のコオロギである。その小さなコオロギと「おとうと」の取り合わせが何ともいえず、胸に迫る。「夫」が実際に作者よりも年下であるかどうかは分からない。むしろ、年下でない方が句の味わいがあるだろう。そして、たぶん作者はいつも彼に対して「弟のようだ」と感じているのではない。草雲雀の鳴き声を聞きつつ、秋の訪れや来し方を思っている今このときに、ふと「おとうとのやう」という思いを抱いた――。相手を包容するような深い情愛の感じられる句である。

  兄という親愛に恋は流れ着き寝起きの鼻をつままれている
                             松村由利子


 この歌は、歌集が出たとき山田富士郎さんが書評のなかで取り上げてくださったことで、愛着のある一首となった。自分の歌のよしあしというのは分からなくて、人に褒められて「ほほう」と思うことが多い。
 弟と二人きょうだいの私にとって、「兄」は少し憧れの存在である。いろいろ教えてもらったり、かばってもらったりするのだろう。少しいじめられたかった気もする。そういうわけで、ふとした瞬間に「兄さんってこんな感じ?」と思うことがある。このトシになるとあまり暑苦しい愛の歌も詠めず、ちょっと滑稽味を加えたくらいが丁度いい。
 現実の弟は六歳下なのだが、随分と頼りがいのある男になり、兄のように思うことが多い。兄も弟も、いいものだ。

  *津川絵理子句集『はじまりの樹』(ふらんす堂・2012年8月刊行)
  *松村由利子歌集『大女伝説』(短歌研究社・2010年5月刊行)
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2012年10月07日

停電の夜に

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 ジュンパ・ラヒリは大好きな作家だ。彼女の最初の短篇集『停電の夜に』(新潮社)の冒頭に置かれた「停電の夜に」は、とても味わい深い作品である。
(この短篇の原題は”A Temporary Matter”であり、訳者、小川高義のセンスのよさを改めて思う)
 若い夫婦がたまたま数日間連続して停電を経験することになり、これまで話すことのなかった事柄を互いに話す――というのが物語のあらすじである。電気工事のために5日間、毎日午後8時からの1時間だけ停電するというのだが、それがワーキングカップルにとって、ちょうど夕食の時間だったというのもポイントだろう。彼らは記憶をたぐりつつ、相手に告げずにいた過去の出来事を語りだす……。

  停電の夜にあなたの語りだす昔の恋にシナモン香る

 これは、今年の「歌壇」2月号に寄稿した「停電の夜に」と題する一連の中の歌だ。ジュンパ・ラヒリへのオマージュの気分で作った。歌の内容は事実ではなく、全くの妄想である。私が実際に「停電の夜」を経験したのは先日、台風17号の来襲した際のことだ。停電はほぼ24時間だったが、それでも、闇が自分たちをひたひたと囲むという、特別な感じは十分に味わうことができた。
 相棒はテレビっ子のはしりだった世代であり、なおかつ四六時中テレビのついている職場に長くいたものだから、私たちの夕食時にはいつもテレビの音声と映像がある。だから、卓上ランプに照らされた食事と相手は、実に新鮮であり、照らされていない暗い部分があることもまざまざと感じさせた。ラヒリの小説を読んだか読まないか知らないが、相棒はぽつりぽつりと結構いろいろなことを話した。私も少しばかり緊張して耳を傾けた。
 私たちはどれほど、不必要なほどの明るい光と音声に夜を奪われているのだろうか。台風のときの停電は、吹き荒れる嵐の音がすごかったのだが、食卓には何か静寂に似たものがあった。台風ではないときに、また「停電の夜」を経験したい。闇と静寂、それは人にとって欠かせない、大切なものだと思う。
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2012年10月03日

台風一過

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 先週末の台風17号は、私にとって初めての大きな台風だった。
 移り住んで以来、石垣島にいくつかの台風が訪れたが、いずれもかすめた程度。唯一、大きかった昨年の1つが来た際は、ちょうど東京へ行っていて体験することができなかった。
今回も実は28日から30日まで福岡へ行く予定にしていたのだが、27日夜に翌日の全便欠航が決定し、張り切って台風に臨むこととなった。
 私の住む地域は、市街地から車で30分というところで、買い物に不便というだけでなく、停電や断水といったライフラインが途絶えたときに復旧が遅いという実情もある。地元の人たちの語り草となっている、2006年の台風13号のときには、3日ほど停電が続いたという。
 28日のお昼、隣の集落にあるパン屋さんに買い出しに行くと、すっかり顔なじみになった彼女が開口一番、「おふろに水もためておかないと!」と言うので、私の緊張度もさらに高まる。食パン2斤とバゲット、菓子パンを数個買って帰った。そして、浴槽に水をため、非常用のランタンやカセットコンロを出し、懐中電灯の電池を確かめ……。
 沖縄在住の人のブログを読んでいて「台風太り」という言葉に出合ったときには、笑ってしまった。これは停電した場合に備えて、あらかじめ冷蔵庫の中にあるものを片付けることによって起こるのである。「あ〜、このアイスクリーム、今のうちに食べておかないと」「ヨーグルトも早めに食べないとなぁ」――かくして、台風が来る前にはちょっぴり栄養過多になるというわけだ。
 台風17号が最も石垣島に接近したのは29日20:30頃だった。停電はその日の夕方から30日の夕方まで、ほぼ24時間で済んだ。停電するよりも先に、電話線が切れてしまったのだが、これは今(10月3日現在)に至るまで、まだ復旧していない。

  塩に髪を強ばらせゐる木々に吹き今年十二度目の台風が来る
                       渡 英子


 17号によって、わが家のバナナはほとんど倒されてしまった。他の木々も、潮風になぶられて葉が茶色になり、瀕死の状態である。海が近いので、この歌の「塩に髪を強ばらせゐる」という比喩には深くうなずかされる。
 潮風にさらされるのは木々だけではないから、台風が去った後は、車の丸洗いが不可欠である。そのままにしておくと、小さな傷からどんどん錆びてしまう。それから壁や窓ガラス一面にこびりついた木の葉やほこりを高圧洗浄機で洗わないといけない。これも塩が含まれるので、放置していても自然に流れるということがないのである。
 いろいろあるけれど、地震と違って台風は予測、対策ができるのがありがたい。回数を重ねるごとに、防災のノウハウも磨かれる。この島に暮らす限り、台風ともうまく付き合ってゆかなければならないのだと思う。

  *渡英子歌集『レキオ 琉球』(ながらみ書房、2005年8月刊行)
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2012年09月23日

演奏中の顔

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 先日、東京へ行った際、書店で面白い本を見つけた。『吹奏楽部あるある』(白夜書房)である。
 高校時代、私は「音楽部」という名の吹奏楽のクラブに所属していた。この本は、吹奏楽に熱中した元・少年少女にはなつかし過ぎる内容で、何度読んでも笑ってしまう。
 「自分の楽器に名前をつけている」「転びそうになると、自分はけがしてでも楽器を守る」「ミスった時、楽器をいじくってごまかす」など、現役時代をまざまざと思い出させるものから、「ドラマや映画の楽器演奏シーンに全力で突っ込む」「卒業後、かつての仲間が他の楽団で演奏しているのを見た時に感じる一抹の寂しさ」といった、今も残っている習性(?)まで、さまざまな「あるある」が書かれているのだ。

  歌うとき顔が醜くなるひとの多きことふいに小雨散りくる
                       内山 晶太


 この歌の作者は、大学時代、混声合唱団に所属していた人だ。美しい楽曲を歌いながら、団員仲間がちょっぴりヘンな顔になることを淡々と詠った一首に、『吹奏楽部あるある』の「演奏中は『女』を捨てている」という項目を思い出した。

演奏する音楽は美しいが、演奏する姿まで美しいわけではない。顔が真っ赤になったり、鼻の穴が膨らんだり、楽器を股の間に挟んだり…。女子部員には「女」を捨てることが必要とされる(フルートを除く)。

 私はフルートパートだったので、この項目の最後に異を唱えたい。フルートだって、演奏中はヘン顔になる。いい音を出すには、口の中を拡げることが必要とされる――つまり顎を下げ口腔内の容積を増やそうとすると、唇の端は下がり気味にならざるを得ない。決して口角の上がった、にっこり顔では吹けないのだ。というわけで、ドラマや映画でフルートを吹いている女優さんがきれいな顔で吹いていると、「この人、吹いてないよ!」「ぜんっぜんリアルじゃないっ!」と憤慨し、家人から「なんでそこまで怒らなくちゃいけないの?」と言われることになってしまう……。
 内山晶太さんの歌集は、不思議な透明感と静けさを感じさせる佳き一冊だ。音楽を詠った作品は思いのほか少ないのだが、耳のよい作者であることが分かる韻律の美しさがある。

  思い出の輪唱となるごとき夜を耳とじて耳のなかに眠りぬ
  シートベルトをシューベルトと読み違い透きとおりたり冬の錯誤も

 

 *内山晶太歌集『窓、その他』(六花書林、2012年9月刊行)
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2012年09月04日

ナンシーさんを恋う

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 消しゴム版画家で稀代の名文家だったナンシー関が亡くなって10年経つ。このほど出版された『評伝 ナンシー関 心に一人のナンシーを』(横田増生著・朝日新聞出版)を読み、そのすごさを改めて思った。
 評伝を読んで最も印象に残ったのは、優れたテレビウォッチャーだった彼女が、ほとんどテレビに出演しなかったことである。消しゴム版画の作り方を紹介する番組などに数回出たほかは、依頼されても決して出なかった。出演者や制作側との関係ができて「テレビの中の人」になってしまったら、痛烈な批判ができない。あくまでも「外の人」として、彼女は筆鋒鋭く書き続けたのだ。
 そのことを知り、私は歌壇の状況を思った。短歌の世界では、ごく当たり前のこととして、歌人同士で歌集や歌論集の批評をしている。しかし、それは不幸なことだ。自分の作品を棚に上げて他人の欠点を指摘するのは、どうしたって難しい。それに、ある程度の年月、歌仲間と勉強を重ねていれば、短歌関係のシンポジウムや新人賞などの授賞式に出席する機会ができ、いろいろな人と顔見知りになる。「歌壇の中の人」でありつつ、公平公正かつ鋭い批評を書くことは至難だと思う。
 ナンシー関の次の文章を読んだとき、私は平手打ちを喰らったような気がした。

 「人間は中味だ」とか「人は見かけによらない」という、なかば正論化された常套句は、「こぶ平っていい人らしいよ――(だから結構好き)」とか「ルー大柴ってああ見えて頭いいんだって――(だから嫌いじゃない)」というとんちんかんの温床になっている。いい人だからどうだというのだ。テレビに映った時につまらなければ、それは「つまらない」である。何故、見せている以外のところまで推し量って同情してやらなければいけないのだ。
 そこで私は「顔面至上主義」を謳う。見えるものしか見ない。しかし、目を皿のようにして見る。そして見破る。それが「顔面至上主義」なのだ。
 『何をいまさら』(1993年・世界文化社、のち2008年に角川文庫)より

 文中の固有名詞を歌人の名前と入れ替え、「テレビに映った時につまらなければ」を「歌がつまらなければ」にすると、突き刺さってくるものがある。自分が「顔面至上主義」ならぬ「短歌至上主義」を貫いているとは断言できない。
 金井美恵子が「道の手帖 深沢七郎」(河出書房新社、2012年5月刊)に、「たとへば(君)、あるいは、告白、だから、というか、なので、『風流夢譚』で短歌を解毒する」と題する文章を寄せて話題になっているが、ここに在る「歌壇の外の人」のまなざしをとても貴重だと思う。
 例えば、新聞の短歌・俳句のページにある書評欄を、彼女は「句集や歌集を、書評というわけではなく、かならず好意的に紹介する『新刊』という小さなコラム」と皮肉っている。「好意的に紹介する」というのは、新聞に限らず短歌総合誌にも言えることだ。出版される多くの歌集の中からピックアップされた本について書くのだから、わざわざ欠点を突くのでなく、優れたところ、評価すべき点を書けばよい――歌集評を依頼されると、そう思って書いてきた。しかし、私の書いた書評を読んで「この歌集、読んでみよう」と歌集を買った人を失望させることが全くなかったと言えるだろうか。自分は決してナンシー関のような、誰から何と言われようと恬として恥じない批評をしてこなかったと省みる。
 評伝のサブタイトル「心に一人のナンシーを」が、とても胸に響く。才能豊かな彼女が39歳で亡くなった今、もう誰もあんなふうに、テレビの予定調和やわけ知り顔のコメントのいやらしさ、仲間同士にしか通じない内輪ネタを批判しない。もはや一人ひとりが心の中にナンシーをよみがえらせ、突っ込んでみるしかないのだ。
 と同時に、「歌壇に一人のナンシーを」とも願ってしまう。そして、それがかなわないのであれば(絶対にそんな人は現れないだろう…)、「こんなぬるい批評をしたらナンシーさんに何と言われるだろう」と「心に描いてみた歌人ナンシー」の声に耳を澄ませ、勇気をもって書いていかなければならないと思う。

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2012年08月16日

「おまえ」と呼ばれる恋

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 この間、30代の友達が、パートナーとけんかした時のことを話してくれた。「おまえ、って言われてもう悲しくて。私にはちゃんと名前があるのよ!」と大粒の涙をぽろぽろこぼす彼女を見て、「ああ、私とおんなじだ」と思った。以前、こんな歌を作ったことがあるからだ。

  両膝を抱えよ肩は寒くともお前と呼ばれる恋遠ざけて

 何がイヤなんだ、と訊かれても困る。別に「対等な感じがしない」とか「ジェンダー的に…」なんて構えているわけではないのだ。生理的な嫌悪というのが一番近いだろうか。「おまえ」と同様、「あんた」も嫌いだ。20代のころ、恋人から言われた時に、「アンタって言わないで!」と金切り声をあげたことを覚えている。
 しかし、すべての女が「おまえ」が嫌いなわけでは、勿論ない。

 
  年下の男に「おまえ」と呼ばれいてぬるきミルクのような幸せ
                       俵万智『チョコレート革命』
 「おまえとは結婚できないよ」と言われやっぱり食べている朝ごはん
                       俵万智『かぜのてのひら』


 「おまえ」に何とも言えない温かみや親しみを感じる人も少なくないだろう。また、状況や口調、声音などが関わっていることは確かだ。同じ「バカだなぁ」というひと言だって、愛情たっぷりの睦言にもなれば、軽侮のこもった冷たい嘲りにもなる。
 けれども、人それぞれの語感というものは抜き難くあり、「この言葉は嫌い」「これだけは言われたくない」というものがあると思う。難しいのは、そんな言葉を集めたリストみたいなものは存在しないので、「この人にこの言葉を言うと、それだけで傷つけてしまう」ということは、年月をかけて探るしかないことだ。その一方で、「その言葉、きらいなの」「そういう言い方はやめてほしい」と、大事な人に勇気を出して伝えることも必要だ。
 私がつれあいから言われて、とてもショックだったのは、「おためごかし」という言葉である。自分の行為についてそう言われ、返す言葉がなかった。去年1回、そして、つい先日言われ、「あ、また…」とへこんだ。
 今に至るまで、そのことを伝えられずにいる。かつて「アンタって言わないで!」と逆上したのは若さだったのかな、と思う。恋人はとても驚き傷ついただろうが、ああいうふうにぶつけられたのは幸せだったのかもしれない。

*松村由利子歌集『薄荷色の朝に』(短歌研究社、1998年12月刊行)
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2012年08月13日

片山由美子さんの句集

『香雨』

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 短歌を選ぶか、俳句を選ぶか、というのは、その人の抒情の質、気質と深く関わっている。私にとって俳句を読む喜びは、世界の切り取り方の違いを知ることだ。

   手に触るるものの冷たき夏の闇
   青きもの見ざりしひと日髪洗ふ


 片山さんの句には長年親しんできた。清澄な詩性が持ち味であり、女性性をたっぷりと湛えた美しさがいい。厚みのある闇のなかで、ふと触れるものの冷たさ、そしてじっとりと粘つくような一日の疲れをざぶざぶと洗い流すときのかなしみ――彼女のよさが遺憾なく発揮された二句だと思う。
 そして、見立て、発見の鮮やかさも見事である。

 
   蟻が引くニケの翼のごときもの
   花ミモザ聖書に罪の文字いくつ
   香水をえらぶや花を摘むごとく


 蟻の一句は、三好達治の「蟻が/蝶の羽をひいて行く/ああ/ヨットのやうだ」を思い出させるが、それを上回る素晴らしい見立てにうっとりさせられる。聖なる書であるバイブルに「罪」という文字がいくつ記されているのか、という皮肉、女が香水を選ぶときの心躍りを素朴な喜びに比した組み合わせの妙も、この人ならではの機智である。

   月曜の新聞軽し柿若葉
   夕刊をはらりとたたみ冷奴
   秋暑し見出しを見せて売る新聞


 新聞を詠んだ名句集を編みたくなるような三句。日曜日には官庁ネタがほとんどなく、出番の記者も少ないから、月曜朝刊のページ建ては少ないのだが、それに気づいている読者がどれほどいるだろう。一句目は、初夏のさわやかさと朝刊の軽さが絶妙な雰囲気を出している。
 夕刊をざっと読んで「今日も暑いから冷奴でいいわね」と立ち上がる女の姿、駅のスタンドに並んでいる夕刊紙の見出しの暑苦しさと残暑、これも誠に景がくっきりとしている。季節感というものが一句に与えるスパイスのような作用が、本当にすごいな、と思う。

   子猫抱く久しく人の子を抱かず
   桜湯の花の浮かんとして沈む


 短歌的抒情や時間の経緯が詠み込まれた俳句がけっこう好きだ。自分は俳味というものをきちんと理解していないのかもしれない、と心細く思ったりもする。それでも、好きな句は好きなのだから仕方ない。この二句のぼわんとした雰囲気、そこはかとなく漂う哀感にとても惹かれる。

  ☆片山由美子句集『香雨』(ふらんす堂・2012年7月)
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2012年08月02日

ハイヒール

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 仕事で時々東京へ行く。そのとき一番いやなのは、人込みでも空気の悪さでもなく、ハイヒールを履くことである。会社を辞めてよかったことはたくさんあるが、ハイヒールを毎日履かずにすむようになったことは五本の指に入るかもしれない。

 ハイヒールで鋭(と)くも働くことなくて歪まざるまま老いてゆく足
                        米川千嘉子


 株式会社の取締役にまで上り詰めた友人がいる。大変に優秀で、よく呑みよく遊ぶ豪快な女性である。その彼女が石垣島のわが家に遊びに来てくれたとき、夏だったから到着してすぐ素足になったのだが、足元を見てはっと胸を衝かれる思いだった。本当に、外反母趾の典型のように変形していたからである。
 ワーキングウーマンには、男性たちに分からないさまざまな苦労がある。育児や家事との両立以外にも、月経やその前期のコンディション調整、組織で目立ちすぎないファッションの選択……そして、ストッキングとハイヒールを履く苦痛など。通勤電車で何が何でも坐りたくなるのは、全身の疲れというよりは足の疲れが理由なのだ、女性の場合は。
 この歌の作者も、足が変形した人と会う場面があったのだろうか。健康な形の足は誇るべきものでもあるだろうに、作者はハイヒールで闊歩して働く人生があったかもしれないことを少し寂しく思っている。「歪まざるまま老いてゆく」ことの“歪み”を見つめているような屈託がかすかに感じられる。
 女たちの隠された足の形を思うとき、須賀敦子『ユルスナールの靴』の冒頭部分がよみがえる。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。――」
 二十数年会社勤めをした私の足は、そこそこハイヒールに痛めつけられたものの外反母趾にはなっていない。今は毎日ビーチサンダルを履くのでよく日焼けしているのだが、鼻緒に隠れる部分がくっきりと白く残っているのがご愛嬌である。

 *米川千嘉子歌集『あやはべる』(短歌研究社、2012年7月刊行)
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2012年07月19日

言わない・言えない

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 女はおしゃべりな方がいい。
 時々、口の重い自分をもどかしく思うことがある。そして、他愛のないことを楽しそうに、小鳥がさえずるように話す女の人を、とても羨ましく眺めてしまう。河野裕子のエッセイには、彼女が帰宅した夫にくっついて家の中を歩き、その日の出来事をあれこれと話す様子がつづられていて、なんてかわいい人だったんだろう、と思う。

 鈍色の夜明けに思ふ 暮らすとはそれを言はずに暮らしゆくこと
 もの言はぬことが楽なりうらおもてふとんに秋の陽を当てながら
 貝の吐く夜の更けの水 母もわれもつくづく本音を言はぬと思ふ
                               朝井さとる


 歌を批評するには、その文体や韻律の美しさ、新しさ、テーマ性などを多面的に客観視することが必要とされる。けれども、どうしようもなく自分の深奥と響き合うものを感じ、うまく批評できないような歌もある。上に挙げた三首などはその好例だ。

 夜明けにふと目を覚まし、「それ」を言わずに日々を送っている自分を思う。「それ」は読む人それぞれが思い描けばよい。「昔の恋」か「親戚のトラブル」か、はたまた「相手の欠点」か……。家族であっても触れてはならないことが在る。そのことの悲しさ、切なさがじんわりと沁みてくる。
 私も以前、「もの言わぬことのしあわせ休日はしんと黙って手を動かせり」という歌を作ったが、この時は職場でいろいろと指示しなければならない立場にあり、その重圧が大きかった。一首の奥深さで言えば、職場の人間でなく、家族に「もの言はぬ」屈託の方が数倍まさっている。
 海を遠く離れたシジミやアサリでさえ、素直に水や砂を吐くのに、どうして私は近しい人にさえ「本音」をうまく伝えられないのだろう――。歌を読んで泣きそうになりながら、「ああ、ここに自分と同じような人がいた」と何とも言えない安堵を覚える。詩歌を読む喜びは、こんなところにある。

 *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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2012年07月13日

電信屋

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 先日、石垣市内で、日本インターネットプロバイダー協会(JAIPA)の主催する「沖縄ICTフォーラム2012」が開催された。「スマートフォン・SNSの安全安心な活用について」「インターネット規制についての国際的な動きとその危機」といった議題に交じり、「明治政府の南西諸島への海底ケーブルの敷設について」という一枠があり、とても面白かった。
 日清戦争後の明治政府にとって最も大きな課題は、欧米列強に対抗するため、新たに統治下に入った台湾と日本本土を結ぶ通信網の構築だったという。九州〜沖縄〜台湾を結ぶ海底電信線の敷設という国家的プロジェクトが成し遂げられた際、石垣島にも海底電信線陸揚げ施設が建てられた。
 これが実は、地元で「電信屋」と呼ばれる施設である。わが家から車で10分余りのところにあるのだが、島の住民にも知らない人が多い。鹿児島から台湾までケーブルをつなぐうえで、石垣島は重要な中継地点の1つであり、陸揚げ施設は第二次世界大戦時に米軍の攻撃目標ともなった。1897年に造られた建物には空爆を受けた痕が残るものの、今もしっかりと建っている。

  旧日本軍の電信施設があるといふこの騒ぎ止まぬ穂波のむかう
  電信屋とふ廃屋ありて煉瓦壁に弾痕のくぼみ残るいくつか
                       渡 英子


 上記の歌が収められている歌集『夜の桃』の冒頭の一連は、「電信屋」というタイトルである。そして、最初の一首には「石垣市崎枝」という詞書が付けられている。歌集の出た2008年、私と相棒は石垣へ移り住む計画を着々と進めていたから、「崎枝」という自分にとって特別な地名がこの歌集に出てきたことに、ひどく驚いた。
 それにしても、今から100年以上も前から、通信技術は軍事や経済関係において重要なものと認識されていたのだなあ、と感心する。インターネット時代になって、ケーブルの中身は銅線から光ファイバーになったが、海底線としての基本的な構造や技術は継承されている。琉球の歴史と文化ばかりが沖縄ではない。現代史においても、かなり沖縄は面白い。

   *渡英子歌集『夜の桃』(砂子屋書房、2008年12月刊行)
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2012年07月08日

パイナップル

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 パイナップルのおいしい季節である。
 柑橘類や葡萄など好きな果物はいろいろあったが、こちらへ移り住み、「もしかすると、一番好きな果物はパイナップルかもしれない」と思うようになった。それくらい島のパイナップルは瑞々しく、甘みと酸味、香りのバランスが素晴らしい。
 自分で買うことは、ほとんどない。ご近所さんや友人からもらうことが多いからだ。時には食べきれないほどもらうので、あちこち配ったり、カットした状態で冷凍したりする。完熟したパイナップルは、芯までおいしく食べられ、太陽の恵みがぎゅぎゅっと詰まった感じがする。

 昔はおっかなびっくり包丁を入れていたが、今ではざくざくと大胆にさばけるようになった。七、八年前に「ざっくりとパイナップルを割くときに赤子生まれて来ぬかと恐る」という歌を作ったのだが、いま見ると「は?」という感じである。何でまた、そんな大げさな…と、以前の自分が滑稽に思われる。
  環境によって生活が変わり、自分が変わり、歌が変わる。だから、こつこつと歌を作り続けることが大事なのだろう。その時々で、心動かされるもの、興味を抱くものは違う。いま、言葉にしておかなければ、とどめておけない感動があるのだ。

  恋人は日盛りに意気揚々とパイナップルを携えて来る

 「恋人」はどんな場合にも、いつかは必ずそうでなくなる。別れてしまうこともあれば、毎日顔を合わせる関係になることもある。
 日常を分かち合うようになると、常に「意気揚々と」とは行かなくなるのが普通だろう。けれども、ちょっぴり贅沢な存在だったパイナップルが、日々の渇きを潤す果実になったように、自分も「恋人」以降の役割を楽しく、濃やかに果たさなければいけないな、と思う。

   *松村由利子歌集『鳥女』(本阿弥書店、2005年11月刊行)
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2012年07月01日

再開することにしました

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ブログを休んで1年たった。
仕事が捗ったか……と言えば、そうでもない。相変わらず原稿書きに追われている。
でも、先日友人から「みんなが楽しみにしているのだから、早く再開しなさい!」と叱られてしまった。

ずっと休んでいたのは、忙しさ以外にも理由があった。
誰に向けて発信しているのか、よく分からなくなったこと。
自己満足に過ぎないのではないか、という迷いがあったこと。
一定以上のレベルの文章を書かなければ!と気負っていたこと。
−−まあ、そんなところである。

あまり気負わず、緩い感じで、自分のよいと思う歌を少しずつ紹介してゆこうと思う。
更新する曜日もスタイルも決めず、気が向いたときに書くことにする。

みなさま、1年間ごめんなさい。
これからまた、どうぞよろしくお願いします。

今日の一首は、とても好きな歌集の中から。

  かなしみか 皿洗ふとき消えかけてまたふくらみて雨が脈打つ
                      朝井さとる


読んだ途端に、涙がじわーっと湧いてきた。
「かなしみ」は、心の奥にしまわれている。誰もが用心深く、その存在について考えまいと日常をやり過ごしているのだ。しかし、時折それはふっと浮かび上がり、自分を揺さぶる。
「かなしみ」は、誰とも分かち合うことができないのだと思う。そのこと自体がまた悲しくて、やるせない。

   *朝井さとる歌集『羽音』(砂子屋書房、2012年5月刊行)
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2011年07月08日

しばらく休みます。

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 どうにもこうにも忙しい。
 ブログの記事も、今年に入ってからは、あまり興が乗らないのに無理やり書くことが増えてしまった。これでは、楽しみにしてくださっている方たちにも失礼だ。
 仕事が一段落するまで、しばらくの間、休載することに決めた。
 やっぱり、ウェブマガジンの連載を2本持つというのは、かなり大変なことであった。ストック原稿も使い果たして自転車操業状態なので、非常にマズい状況である。きちんと連載を終え、「紹介したい短歌や書きたい出来事がたくさん!」という気持ちになってから、再開したいと思う。
 元凶(!)の連載は以下の通り。

★「石垣島に魅せられて」
http://kaze.shinshomap.info/
 
★「女もすなる飛行機」
http://www.nttpub.co.jp/webnttpub/index.html

 週1回の更新もできなくなるなんて情けないが、仕方ない。
 自分の能力以上のことを引き受けないよう、いろいろな仕事も断っている。
 本当にごめんなさい!
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2011年07月01日

キュウリの車輪

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まな板に胡瓜の車輪走らせて何に急くとう心を知らず
                      長澤 ちづ


 キュウリを輪切りにする度に、この歌を思い出す。そして、何となく楽しくなる。
「厨(くりや)歌」というのは、女性の歌の1つのジャンルであった。いまは男性も魅力的な厨歌をいろいろ作っているが、自分の心境や人生の真理のようなものを野菜や魚介類に託して詠う手法というのは、なかなか味わい深い。
 最近すごく忙しくしていて、相棒から「もっとぼーっとする時間を持たないと、いいものは書けない」と叱られてしまった。確かにそうだと思う。一刻も早く食事の支度をしなければ、なんて思っているときに、こんな佳き厨歌はできないだろう。
 キュウリというものは、テンポよく輪切りにしていると、どうしてあんなにもコロコロと転がるのだろう。心の余裕がないと「ええい、このキュウリめ!」と苛立つのだが、作者は急くということをせずに、輪切りのキュウリを「車輪」に見立てて面白がっている。
 この歌人は私と違って、料理をするときにも心を働かせ、自分の奥深くに潜んでいるものを引き出す名人である。

 塩の壜ほがらかにあり容量に合いたる塩を内に満たして
 絞れるだけレモン絞った手のひらに怒りの所在稀薄になりぬ
 馬鈴薯の断面のごと瑞々と妬心抱きぬ 若さは無謀


 私はこうした厨歌をこよなく愛する。塩の壜に満ち足りた喜びを見出し、レモンを力いっぱい絞る充実感に怒りを忘れ、じわじわと水分の滲むジャガイモに「妬心」を思う余裕……。詩は暮らしのどこにでもあるのだと、改めて思う。日々を豊かに過ごしたい。

 ☆現代短歌文庫『長澤ちづ歌集』(砂子屋書房、2010年)

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