
人は、自分の見たいものしか見ない。
先日、久しぶりに中谷宇吉郎のエッセイを再読した折、猫の話が出てきて「ふーん」と思った。何度か読んでいるのに、中谷が猫を飼っていたことはちっとも記憶に残っていなかったのである。ミミーという、その猫は、「感心におとなしい行儀の良い猫」で、ごはんをやると「いつのまにかすっかりたべてしまって、洗ったようにきれいにしてしまう」。中谷はそのことについて、「とかく猫というと御飯を残したり散らしたりして汚くしておきやすいものなのにこれはまたちょっと珍しい猫である」なんて書いている。
科学者である中谷が飼い猫をひいきするようなことを書いているのが可笑しいが、自分がミミーのことを全く覚えていなかったことには驚く。人間は自分にとって興味のある情報しかキャッチしないのだなあ、とつくづく思う。
情報社会になり、インターネットで膨大な情報を得ることができるようになったが、人々が万遍なくさまざまな情報を入手しているかと言えば全くそうではない。ワンクリックで興味を引いたものしか読まなければ、世界で何が起きているのか、いま最も大事な問題は何か分かるはずがない。
紙の新聞はかさばり、資源の無駄遣いだという批判があるけれど、あの一覧性は実に優れていると思う。時に判断ミスや考え方の偏りもあるだろうが、訓練された記者たちが合議して、それぞれの記事の扱いを決めた紙面は、パッと見てその日起こったことを知ることができるものだ。ランダムに等価値として並べられたネットの見出しからニュースを選び出すよりも、はるかに効率的であり、一定の信頼がおける。
そして、人間の脳は本当に不思議なもので、そのとき特に注意して読まなかった記事でも、後になって「ああ、そう言えば、社会面の右の下の方に出ていたなぁ」などと思い出すことがある。あるいは、ざっと紙面を斜めに見ているときに、関心をもっている言葉が目に飛び込んでくることも少なくない。「意識」は脳科学研究における重要テーマの一つだが、意識下への働きかけという点において、紙の新聞の一覧性はもっと評価されてよいと思う。
みみうらのももいろ透けるましろ猫雨ふるまへの空をみてをり
日高 堯子
風を掬ってゐるのか猫はももいろの耳をゆつくり動かしながら
時田 則雄
でもって白猫の歌であるが、猫を飼うようになって、これまで私の心に入ってこなかった歌が「ん?」と気になるようになった。分かりやす過ぎる理由だ。でも、白い猫を実際に見ないと「ももいろ」という耳の色さえ分からないのである。自分の経験だけで生きていると、恐ろしく狭くて偏った世界しか知らないことになる。もっともっと本を読み、さまざまな人と出会わなければ、と思う。
*日高堯子歌集『樹雨』(北冬舎、2003年10月刊行)
*時田則雄歌集『オペリペリケプ百姓譚』(短歌研究社、2012年11月刊行)